共和国の誕生と同時に始まった一党独裁、そして戦友との決裂
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前回の最後でトルコ共和国が成立し、この回は、その共和国がすぐに一党独裁体制へ入っていく場面から始まります。深井さんによれば、ケマルが一党独裁そのものを望んでいたかというと「絶妙」で、手段としてやっている感じもするといいます。
ケマル自身は複数政党制を支持していた時期もあります。ただ選挙では有権者の6割が投票してケマル派が圧勝し、反ケマル派の多くが落選しました。結果として、人民党による一党独裁体制ができあがります。
ケマルの学友でありライバルでもあった人々の中には、自分たちもケマルと同じくらいの地位を与えられるべきだと考える人がいました。彼らは反ケマル政党を作りますが、選挙ではまったく勝てませんでした。
まあ圧倒的なカリスマだしね。
こうした反対勢力がいる中で、ケマルの暗殺未遂事件が起こります。ケマルは事件への関与を理由に、かつての学友であり第一次世界大戦を共に戦った戦友でもある人々を抑え込んでいきます。
ラウフは国外へ亡命し、結局ケマルのそばに残ったのはイスメト(イノニュ)だけでした。深井さんは、この状況を悲しくもあり、孤独でもあると表現しています。
まあ創業共同者と仲良くできない問題って株式会社でもよくありますからね。
一方で深井さんは、ケマルがどこまで意図的に彼らを追い落とそうとしたのかはわからないとも述べています。本当に暗殺未遂に関わっていたのか、ケマルが関与を信じ込んでいたのか、冤罪を着せたのか、どれかは判断できません。ただ、反ケマル派の人々を暗殺計画への関与のかどで審理し、処刑や投獄をしたこと自体は事実として語られています。
はいはいはい。政治闘争っていうやつですね。
カリフ制の廃止は、なぜスルタン制の廃止よりずっと難しかったのか
トルコ共和国は成立した当初、国家宗教はイスラムだと掲げていました。しかしケマル本人はカリフ ── 預言者ムハンマドの後継者を意味する称号で、イスラム共同体の指導者を指します。オスマン帝国ではスルタンがこの称号も兼ねていました制を無意味だと考えており、最終的には世俗主義へ向かおうとしていました。
この時点のトルコでは、すでにスルタン制が廃止され、カリフだけが傀儡として置かれている状態でした。ケマルはこのカリフ制を「無意味だ」と言い捨てたりもしています。深井さんはその背景として、ケマルが科学主義の人だったことを挙げます。
けどこのカリフ制の廃止ってスルタン制の廃止よりもずっと難しいんだよね。
カリフはイスラム世界の中で特別な意味を持つ存在です。深井さんによれば、イスラムの人々にとってカリフがいなくなることは、モンゴルが到来してアッバース朝 ── 750年に成立したイスラム王朝。1258年にモンゴル軍の攻撃で首都バグダードが陥落し、滅亡しましたが滅んだ混乱期に戻るような感覚でした。指導者を失い、異なる宗教・民族の人々に抑えつけられた時代を思い起こさせる、ものすごく怖いことだったのです。
それでもケマルは、この問題に必ず決着をつけるつもりでした。16ヶ月ほど機会をうかがい、カリフのアブドゥルメジド2世の権威が低下したと見るや、「カリフ制は共和制の原理および国家主権と矛盾する」と強調し始めます。
当然、保守的な人々は反発し、インドのウラマー協会など国外からも批判が相次ぎました。それでもケマルが強引に動けたのは、軍の了解を取り付けていたからです。軍のエリート層はもともと科学主義の人たちで、ケマルを最も理解し、最も権力を持ち、共和国成立の立役者でもありました。
ケマルは大国民議会に3本の法案を提出します。内容は、カリフ制とシャリーア ── イスラム法のこと。礼拝などの信仰行為から、婚姻や相続、刑罰などの社会生活まで幅広く規定していますとワクフ省の廃止、宗教教育と世俗教育の一本化、そしてオスマン王家の全員の国外追放でした。
ワクフは、収入の一部を集めてインフラや福祉に投資する仕組みです。また教育の一本化について深井さんは、タンジマート期に宗教教育と世俗教育を並行して走らせていたダブルスタンダードを、ついに一本化するという大きな転換だと解説しています。
さらにケマルは、正統カリフ時代以降のカリフは本当の意味のカリフではないとまで言い出します。これはオスマン帝国のカリフを全否定する主張でした。
ちょっとでもケマルが考えてたことと違うこと言っちゃうと左遷されたりとか更迭されたりとかするんで、周りも必死。
一党独裁体制のもとでは、多くの人が反対していても制度上は可決できてしまいます。こうして大国民議会でカリフ制の廃止が決まりました。
ただし楊さんは、制度上カリフ制が廃止されても、国民全体の合意が得られるかは別問題だと指摘します。その象徴として紹介されたのが、廃止から6年後に起きた事件です。
1930年、トルコ国内のイスラム系神秘主義教団の指導者が自分は救世主だと名乗り、男たちを率いてイスラム法とカリフ制の復活を求めながら街を練り歩きました。止めに派遣された軍の将校は取り押さえられて首をはねられ、その首は棒の先に刺されて掲げられたといいます。
この事件は共和国の指導者たちに激しい衝撃を与えました。自分たちの世俗化改革がまだまだ着地できていないことを、思い知らされたのです。
クルアーンのトルコ語訳は「ルターの宗教改革」だった?
カリフ制の廃止後、ケマルは西洋化の政策を次々に打っていきます。宗教の領域ではまず宗務局を設置し、宗教の力を飼い慣らして科学主義の近代国家へ導く行政機関としました。
楊さんが言うように、これは宗教を国家の管理対象にするということです。深井さんは、宗教によって国家ができていた元の関係から見ると「立場逆転」だと表現しています。
もう一つ大きかったのが、クルアーン ── イスラム教の聖典。日本ではコーランとも呼ばれ、神が預言者ムハンマドに下した啓示をアラビア語で記したものとされていますのトルコ語訳です。クルアーンは神の意思でアラビア語が選ばれて書かれたとされ、他の言語に訳してはいけないという認識がありました。
アラビア語が読めるウラマーは、クルアーンを解釈して民衆に教える立場にあり、いわば解釈権を独占していました。トルコ語訳によって、その独占が外されることになります。
翻訳前
アラビア語を読めるウラマーだけがクルアーンを解釈し、民衆に教えられる
トルコ語訳
クルアーンをトルコ語に訳し、宗教的助言や解釈もトルコ語のみで行うよう求める
結果
ウラマーにしかわからない状態がなくなり、その権威が失墜する
これ、ルターがやったことにそっくりよね。
深井さんは、ラテン語の聖書をドイツ語に翻訳して配った結果、教会の権力が落ちた話に近いと説明します。ケマルがトルコ語のみで宗教的助言や解釈を行うよう求めたことからも、ウラマーの権威を落とすことが狙いだったと考えられると話されています。
へー、それは。ようそんなん思いつくな。やり方。
ただ、訳されたクルアーンを読んでもまだちゃんと読んだことにはならない、という立場は今でもあります。深井さんによれば、発音や言葉の響きを含めて神聖さを帯びているからです。
そしてこの翻訳政策は、当時の大衆にはあまり普及しなかったといいます。樋口さんも、文化や宗教は政策のレイヤーで動かすのが難しい気がすると応じています。
深井さんは、宗教が非科学的だからやがてなくなっていくという、当時の知識人に共通した理解は当たらなかったと振り返ります。今は宗教がむしろ力を盛り返しているように見え、アメリカの政治もかなり宗教的だと指摘します。一時的に科学がエリートの宗教になっていた、というのが深井さんの見立てです。
暦も帽子も文字も休日も、生活まるごとの西洋化
宗教以外の細かな領域でも、西洋化は徹底されました。まずグレゴリオ暦 ── 現在世界で広く使われている太陽暦。16世紀にローマ教皇グレゴリウス13世が制定し、キリストの誕生を基準に年を数えますが採用されます。深井さんは、紀元はイエスが生まれた時を基準にしているので、キリスト教的なものを導入することになると説明しています。
次に、タンジマート期にターバンに代わって広まっていたトルコ帽のフェズが廃止され、西洋の帽子になりました。樋口さんは赤いフェズの形を「ピノ」のアイスにたとえ、日本でいえばちょんまげをやめたような話だと受け止めています。
さらに、それまでアラビア文字で書いていたトルコ語が、アルファベットに置き換えられます。楊さんによれば、この文字革命はケマルの世俗化政策の目玉の一つで、長年使われてきたアラビア文字を遅れているとして、トップダウンで全部ラテン文字に変えさせました。
これは嫌やわ。俺が国民やったら。
加えて、イスラムで重要な礼拝の日である金曜日に代わり、日曜日が休日と定められました。改革の範囲を並べると、暮らしの細部まで一気に変わったことがわかります。
| 領域 | 変更前 | 変更後 |
|---|---|---|
| 暦 | イスラム世界の暦 | グレゴリオ暦(キリスト教の紀元) |
| 帽子 | トルコ帽(フェズ) | 西洋の帽子 |
| 文字 | アラビア文字でトルコ語を表記 | ラテン文字(アルファベット) |
| 休日 | 金曜日(重要な礼拝の日) | 日曜日 |
36時間半の大演説で飛び出した「私がトルコだ」
こうした政策を打ちながら、ケマルは36時間半に及ぶ大演説を行いました。深井さんたちも台本を作る段階で笑ってしまったといい、休憩やトイレをどうしたのかもまったくわからないそうです。この演説は、ケマルの演説の中でも最高傑作と言われています。
楊さんはこの演説の一節を読み上げます。ケマルは「私は数え切れないほど戦場で死と直面した」と語り、それは祖国を強力な独立国家にしたいがためであり、自分の生きがいであるトルコ国民を進歩へ導かねばならないと続けます。
さらにケマルは、国民が進歩への道を方向を間違えずに歩めるようになったとき、すべての権力を手放すつもりだと述べます。そのうえで、国民の歩みはまだ始まったばかりであり、自分を殺すことはトルコ国民の未来を奪うことだとして、「現在の時点においては私がトルコだ」と言い切りました。
深井さんは、進歩主義や社会ダーウィニズムの言葉が使われていると指摘し、「私がトルコだ」についてはルソー ── 18世紀フランスの思想家。『社会契約論』で、人民全体の共通の利益をめざす「一般意志」に主権があると説きましたの一般意志を大きく間違えて解釈した結果だとも茶化しています。
一方で楊さんは、ケマルが言うと確かに分からなくもないと思ってしまうのが恐ろしいところだと話します。この人がいなければトルコという国はなかったかもしれず、私心もなく命もかけていたからです。
まだヒトラーも出てきてないし、この段階では。なんかこういう時代だし、ケマルが言ってる内容っていうのはケマルの独走じゃないんだよね。
深井さんは、自分はケマルを批判するつもりも賞賛するつもりもないと断ったうえで補足します。科学主義も「私がトルコだ」という発言も、同じようなことを言う人はケマル以外にもたくさんいました。ケマルはその時代の思想を濃厚に受け継いだ代表として語っている、と受け取るとよいといいます。
ケマル肝いりの野党は、なぜ3ヶ月で解散したのか
演説でケマルは、時期が来たら権力を手放すと言っていました。深井さんによれば、これは実際その通りになります。亡くなることで権力を手放すのですが、自分の子どもに引き継がず、ケマル一代で完全に終わるのです。
楊さんが補足するように、ケマルに血のつながった子どもはおらず、全員が養子でした。こうした政治の中で7人もの養子を取っていたことについて、深井さんは「すごくないですか」と驚き、詳しくは次回以降に話すとしています。
権力を手放すという言葉と通じる動きとして、ケマルは野党を作ろうとします。深井さんは、一党独裁はあくまで今必要だからやっている手段、という認識だったのだろうと見ています。
楊さんによれば、複数政党制を試みた目的の一つは、政府やケマル自身への批判を分散させることでした。当時は世界恐慌でトルコ経済も大きな打撃を受け、国民の不満がたまっていました。急進的な世俗主義への反感も積もり、ラマダン ── イスラム暦の第9月。この月には日の出から日没まで飲食を断つ断食が行われますの時期には多くの人がモスクに戻っていたといいます。
その空気を見たケマルは、不満を拾い上げる仕組みが必要だと考え、フェトヒという人物に野党を作らせます。ただし前提は、自分の言うことを聞く野党であることでした。
不満の蓄積
世界恐慌による経済打撃と、急進的な世俗化への反感が政府とケマルに向かう
野党の結成
批判を分散させ不満を拾うため、ケマルの肝いりでフェトヒが野党を立ち上げる
想定外の支持
野党に支持が殺到し、反政府デモにまで発展する
解散
抑えきれないと判断され、野党は3ヶ月で解散する
ところが、野党の結成はケマルの予想以上に国民の感情をかき立てました。フェトヒの演説で群衆は大いに盛り上がり、ケマルの政党はダメだという反政府デモにまで発展します。結局この野党は3ヶ月で解散することになりました。
急速な改革をしてますからね。
帽子を掲げただけで群衆が熱狂、反発の根はどこにあったのか
野党をめぐっては、象徴的なエピソードも紹介されます。フェトヒはケマルが導入した西洋式のソフト帽をかぶっていて、ある演説で聴衆に挨拶するため、その帽子を少し持ち上げました。
ごく普通の挨拶でしたが、聴衆はこれをフェトヒによる西洋化批判だと勘違いします。聴衆は自分たちがかぶっていた帽子を一斉に地面に叩きつけ、フェトヒもケマルも驚くような、まったくコントロールできない状況が生まれました。
だからその、これ本当に何て言うかな、根深い問題ですよ。今のトルコにも通ずる根深い問題で
深井さんは、文字を変えさせられ、幼い頃から続けてきた宗教的な習慣を無理やり変えさせられるのだから、科学主義ではない人からすれば反発するのは当然だと話します。
楊さんは日本に置き換えて、毎月お参りしている神社がまったく違うものになったら、という想像をしてみます。深井さんは、明文化された信仰を持つ人々とは強度が違うと断りつつ、お墓が勝手に捨てられる、お盆や正月がなくなる、といった感覚には近いかもしれないと応じています。
(新しい行事が)増えるのはいいけど、なくなるの嫌だもんね。
楊さんは、日本の明治維新の時にも英語を導入しようという議論があったことを挙げます。深井さんも、母国語を変えようとするほど極端な時代だったと振り返っています。
6本の矢と「アタテュルク」、国家が導く資本主義とは
ケマルは国の大きな指針として6つの原則を掲げ、これは「6本の矢」と呼ばれます。深井さんは細かくは触れないとしつつ、それぞれを簡単に紹介しています。
深井さんは、国家主義と人民主義と共和主義が同時に入っている国はなかなかないと、矛盾をはらんでいるように感じると話します。ただ国家主義については、資本主義を育てる段階では理解できるといいます。
いきなりこの前まで侍だった人とかに、はい、どうぞ資本主義ですって言っても無理じゃないですか。
日本もそうだったように、初期の資本主義には国家主導の開発資本主義があります。産業を国家が用意して段階的に育てる形は発展途上国でよくある話で、当時のトルコもまさにその状態でした。
楊さんは、読んだ本によれば、現在のトルコの人々には民主主義はケマルが与えてくれたもの、という感覚があるらしいと紹介します。深井さんは、誰か個人が与えてくれたとは思っていない日本人とも違うと応じつつ、都市部と農村部、内陸と沿岸で意見は大きく違うらしいとも付け加えています。
この頃、ムスタファ・ケマルは「ケマル・アタテュルク」と呼ばれるようになります。アタテュルクは「父なるトルコ人」という意味で、議会から贈られた苗字です。ここから、政策としても自然発生的にも、ケマルへの個人崇拝がさらに進んでいきます。
宗教を「忌避」する政教分離と、アヤソフィアのモスク復帰
深井さんは、ケマルの世俗主義は本当に宗教を忌避している感覚だと強調します。楊さんの言葉を借りれば、宗教に対して「アンチ」なのです。
深井さんによれば、政教分離には大きく2つの考え方があります。その違いを整理すると次のようになります。
信仰はみんな自由にしてよいが、政治が特定の宗教を応援することはしない
政治の場に宗教を絶対に持ち込ませない。国会などで宗教を匂わせる服装も禁止
トルコの政教分離はフランス式の排除型で、どの宗教の格好でもしてよいのではなく、どの宗教の格好もしてはいけないというものです。深井さんは、日本の政教分離はよく勘違いされるが、こちらではないとも補足しています。
この激しい政教分離はケマルから始まり、民衆の意識とのずれを近代から現代のトルコはずっと抱えてきました。エルドアン大統領の時代のトルコでは、実態に合わせた修正が入っていると深井さんは説明します。
その一例がアヤソフィア ── イスタンブールにある建築物。東ローマ帝国時代に大聖堂として建てられ、オスマン帝国でモスクに転用されたのち、トルコ共和国では博物館とされていましたです。モスクから博物館に変えられたのは宗教忌避的な世俗主義の政策でしたが、再びモスクに戻ったのは、ムスリムなのだからモスクだった場所はモスクに戻せばいい、という感覚からだといいます。
一方で、ギリシャ正教などの立場からはなぜモスクに戻すのかという声もあり、さまざまな要素が絡んでいると深井さんは話します。
科学主義なんだよ、だから。の延長線上なんですよね。だから非宗教的なんですよね。
さらに世界恐慌が起きた際、ケマルは国家資本主義と呼ばれる道を選びます。国営工場を作り、民間企業にも経営参加させながら、国家がリーダーシップを取って産業を興そうとしたのです。この方針をめぐっては、近しいイスメトとも揉めたといいます。
独裁者か英雄か、ヒトラーとは何が違う?
番組ではケマルを独裁者として語ってきましたが、深井さんはここが本当に難しいと話します。トルコでは今も彼はヒーローであり、ヒトラーやムッソリーニと同じように語るのはトルコの人に失礼だと感じるし、実際違うとも思うといいます。
けれど、一つ一つの政策や振る舞いを見れば、確かに独裁者っぽい。楊さんも、やり方はヒトラーとかなり似ていると述べています。さらに深井さんは、ケマルが主導したわけではないにせよ国家単位で虐殺が起きており、被害を受けた民族から見れば別の見え方もあると指摘します。
例えばケマルさんを独裁者だって言ったら、いろんな問題が生じる。独裁者ではないって言っても、いろんな問題が生じるっていうタイプの独裁者っぽい人なんですよね。
楊さんは制度面から整理します。ケマルは議院内閣制における大統領で、首相の協力なしには国政を円滑に進められない、制度の中の存在でした。彼の力を支えていたのは制度ではなく、個人のカリスマと国民的な人気だった、という見方です。
一方、ヒトラーはシステムそのものをいじって、制度上も自分を独裁者にしました。そこが違いだと楊さんは述べます。
ただし深井さんは、初期のトルコはフランス革命後の政府をモデルに三権分立をあまり志向していなかったので、制度的に独裁へ持っていったと言われても反論しにくいとも言います。自分の肝いりで野党を作り、その野党を潰したことも、共和主義から見れば意味不明です。
そのうえで深井さんは、共和制を正確に理解せず独裁的に振る舞っていたことも、ほとんど私利に引っ張られずトルコ全体のために動いていたことも、どちらもファクトだと思うとまとめます。
でも一方でヒトラーもそうでしたからね。
いや、俺だからヒトラーと何が違うのかなって結構途中からぼーっと考えてたんですね。
深井さんは、その問いをそれぞれが自分で考えてみるとよいと勧めつつ、誰の前で何を言うかには気をつけてほしいと添えています。
民主主義シリーズの後に聞くケマル、そして次回は最終回
深井さんは、この回まで聞いた人なら、トルコの人々にとってケマルがなぜ英雄に見えるかはだいぶわかったはずだと話します。あの状況でトルコを存続させ、トルコ民族のための国家と領土を作ったのだから、英雄になるのは当然だという見方です。
いやすごい人やもんな。いやーどう考えても救ってますからね、人を。
深井さんは、民主主義のシリーズの後にこの話を聞くのが面白いといいます。国家的な危機の時にケマルがゴリゴリの民主主義者だったら、今のトルコはなかったかもしれません。一方で、これからの時代にこういう人の登場を望むことは、国民主権の観点からは避けるべき現象だと述べています。
一方で彼は限定的な独裁体制みたいなのを結構ちゃんと成功させてるんだよね。
独裁体制の一番難しいところは、限定的に見せかけて実は限定的でない点にあります。深井さんは、ケマルは比較的限定的にやれていたと評価しつつも、彼の死後にトルコ共和国はさまざまな禍根を抱えることになると話し、評価が難しいのは現在進行形の問題だからだろうと語っています。
次回はいよいよケマルが亡くなります。全14話で、現代トルコまで調べてはあるものの、ケマルの死でいったんシリーズを締めくくり、次回が最終回になると告げられました。
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まとめ
共和国成立後のケマルは、一党独裁体制のもとでカリフ制を廃止し、宗教・文字・暦・休日まで一気に西洋化させました。制度は変えられても人々の心は追いつかず、その反発は現代トルコにまで続いています。英雄とも独裁者とも言い切れないケマル像を、番組は時代背景と照らし合わせて描き出しています。
- カリフ制の廃止はスルタン制以上に難しく、軍の支持と一党独裁の制度を使って強引に進められた
- クルアーンのトルコ語訳や文字革命は、ウラマーの権威を落とし、生活の隅々まで世俗化を迫るものだった
- 36時間半の大演説での「私がトルコだ」は、ケマル個人の独走ではなく、当時の時代思想を色濃く反映した言葉だった
- 肝いりの野党に支持が殺到して3ヶ月で解散した出来事は、急速な改革への反発の深さを示している
- ケマルは独裁的に振る舞いながらも私利に走らずトルコのために動いた人物で、その評価は今も簡単に定まらない






