百年戦争はなぜ序盤からイングランド優勢だったのか?
コテンラジオのジャンヌ・ダルク編第4回は、前回話した百年戦争の勃発の経緯を受けて、百年戦争の前半戦から始まります。楊さんによると、前半戦はイングランドが優勢で、いくつもの決戦でフランス軍を敗退させています。
楊さんが最初に挙げるのは、百年戦争が始まってすぐのスロイスの海戦 ── 1340年、フランドル沿岸のスロイス沖で行われた海戦。イングランド艦隊がフランス艦隊に大勝し、百年戦争序盤の流れを決めた戦いとされますです。この海戦でイングランド軍はフランス艦隊を無力化し、ドーバー海峡の制海権を奪いました。
スロイスの海戦の結果、イングランドは大陸侵攻の兵站線を確保しました。もともとフランスにも土地を持っていたイングランドは、その後の百年戦争のあいだ、補給にあまり困らず、フランスの海岸のどこからでも上陸できるようになったといいます。
玄関開けっぱなしみたいな感じになる。
スロイスの海戦の後、イングランドとフランス王家はともに財政難になり、一旦停戦します。楊さんは、ここに当時の両国の継戦能力のなさが表れていると指摘しています。
停戦からおよそ6年後、エドワード3世率いるイングランド軍が3方面から大陸に上陸します。フランス王フィリップ6世は、全臣下に招集令を出せる軍旗オリフラム ── 中世フランス王家の軍旗。赤い旗で、これを掲げることが王による総動員の合図とされましたを掲げ、臣下を集めました。
クレシーの戦い、倍の兵数でもフランスが負けた理由
両軍がぶつかったのが、序盤最大の会戦であるクレシーの戦いです。楊さんは、会戦とは海の戦いではなく陸で両軍が出会って戦う戦いのことだと補足しています。
イングランド軍は、前方に歩兵、その後ろにエドワード3世の長男エドワード黒太子の軍、さらに後ろに王エドワード3世の軍という構えでした。エドワード黒太子はこのとき16歳で、百年戦争での活躍によって有名になり、映画にもよく登場する人物だといいます。
「黒太子」という呼び名には、鎧が黒かったという俗説があります。ただ楊さんによると、そうした記録はどうやら残っていないそうです。
イングランド軍の両翼には、ロングボウ兵(長弓兵)がいました。ロングボウはもともとスコットランド人の武器で、スコットランドと戦ったイングランドが、その強さを見て取り入れたものだと紹介されています。
楊さんは、ロングボウとフランス側のクロスボウの違いを数字で説明します。
1分間に10〜12本の速射が可能。射程は500メートルを超え、集団戦で強い
威力は高いが、1分間に2本しか発射できない
(ロングボウなら)面で攻められるもんね。弓をたくさん射て。
クレシーの戦いの兵数は、イングランド軍が約1万人、フランス軍がその倍の約2万人とされます。フランス軍は前方中央に今のイタリアにあたるジェノヴァのクロスボウ兵、両翼に今のチェコにあたるボヘミアの兵、後方に王と諸侯の騎兵という編成でした。
楊さんは、フランス軍にジェノヴァやボヘミアの兵が混ざっていることから、当時「フランス」という国がまだはっきりとはなかったことがよくわかると話しています。
へー、倍ぐらいいるのに。
ところが結果はイングランド軍の圧勝でした。フランス軍のクロスボウ兵が発射に手間取っている間に、イングランド軍のロングボウ兵が空を埋め尽くすほどの矢を浴びせたといいます。
樋口さんは、別の本に書かれた戦い方も紹介します。イングランド軍は部隊の前面に杭を打ち、突っ込んできたフランスの重装騎士が杭に阻まれたところへ、矢と騎馬、さらに歩兵を投入しました。
杭を打つ
イングランド軍が部隊の前面に障害物として杭を並べる
騎士が阻まれる
突撃したフランスの重装騎士が杭で足止めされる
一斉攻撃
矢を一斉に放ち、騎馬集団も襲いかかる
歩兵の近接戦
歩兵が騎士を馬上から引きずり下ろして倒す
だからゲームチェンジしたんですよ、ここで、実は。
騎兵が無力化されるようなことが徐々に出てきて、でもそれ(負けの原因)をフランス側はまだ構造解析できないっていう状態。
楊さんも、フランス軍はこの後も分析をせず、何度もロングボウ兵に同じ負け方をすると続けます。
1500人の死者で戦争が止まる、中世ヨーロッパの規模感
クレシーの戦いでは、アランソン伯シャルルやフランドル伯ルイ・ド・ヌヴェールといった重要拠点の貴族が捕らえられ、ボヘミア王ヨハンらが戦死しました。楊さんが紹介する数字は、次のとおりです。
楊さんは、この時代は1500人ほど死ねばもう戦争をやめる時代だったと話します。樋口さんも、1万や2万という兵数そのものが少ないと反応しました。
まず一万とか二万とかいう数字って少ないですよね。
楊さんは、カエサルやハンニバルが5万人規模の兵を連れていたことや、以前の回で話したローマの兵員動員数75万という話と比べ、中世ヨーロッパの兵数はめちゃくちゃ少ないと説明します。日本の戦国時代と比べても少ないそうです。
その背景として楊さんが挙げるのは、中世ヨーロッパでは生きること自体が大変で、ペストもあり、多くの兵士を動員できなかったという事情です。
クレシーの戦いで活躍したエドワード黒太子は、本来ならエドワード4世として即位するはずでした。しかし太子のうちに亡くなったため、エドワード黒太子の名で残っています。楊さんは、ジャンヌ・ダルクと対になって語られるほど百年戦争で有名な人物だと紹介しています。
ポワティエの戦いは、なぜクレシーと同じ負け方になったのか?
クレシーの戦いのおよそ10年後に起きたのが、ポワティエの戦いです。このときフランス王フィリップ6世はすでに亡くなり、息子のジャン2世が王位を継いでいました。
ジャン2世は三部会 ── 聖職者・貴族・平民(民衆)の代表を集めるフランスの身分制議会。国王が課税の同意を得るために招集しましたを招集し、新たに3万人の兵士の招集と消費税などの収入を取り付けます。これを見たイングランド側もヘンリー・オブ・ランカスターがノルマンディーへ向かい、エドワード黒太子の軍もフランスに残っていました。
両軍が対峙したポワティエは、フランスの中西部にある土地です。楊さんは、イングランド王がフランスに持つ土地とフランス王の土地の境目で戦った形だと説明しています。
イングランド軍は6000人の歩兵を中心に、クレシーの戦いと同じ戦列を組みました。一方のフランス軍は騎兵中心の約1万1000人で、三部会で3万人を招集したはずが実際にはその程度しか集まらず、クレシーの半分ほどになっていました。
ローマ教皇の特使が両陣営を往復して戦闘回避を呼びかけていたという記述もあるそうです。それでも戦いは起こり、ポワティエの戦いはクレシーの戦いとまったく同じ展開でイングランド軍の圧勝に終わりました。
楊さんは、当時の西ヨーロッパには戦略という概念や、総軍を俯瞰して指揮するという概念がまだなかったと話します。貴族がそれぞれ自分の兵を連れて出て行って戦う状態だったため、同じ負け方を繰り返したと考えられています。
中世ヨーロッパの戦争では、相手を殺すことより、身分の高い人を捕虜にして身代金を取るほうがよい稼ぎ方でした。ポワティエの戦いでは、フランス側についていたスコットランド王デービッド2世が捕虜になっています。
スコットランド王がフランス側にいたのは、スコットランド王がイングランド王と非常に仲が悪かったからだと楊さんは説明しています。
フランス王ジャン2世が「自分から」捕虜に戻った話
ポワティエの戦いでは、フランス王ジャン2世自身も捕虜になります。楊さんがパンクだと驚くのはその捕まり方で、囲まれたジャン2世は「あなたの方が強いですね」と自ら名乗り出て捕虜になったといいます。
楊さんは、これが騎士道の振る舞いであり、将棋の王手のようなものだと説明しています。逃げるより捕虜になる方が名誉が高い、という価値観だったそうです。
捕虜のジャン2世に対応したエドワード黒太子は騎士道で有名な人物で、ジャン2世をロンドンに移送し、非常に丁重に扱いました。楊さんは、ジャン2世もエドワード黒太子も、この時代の感覚では2人ともフランス人だと付け加えています。
フランス王の身代金はとても高く、フランスは払えませんでした。イングランド王の慈悲で、分割払いを条件にジャン2世は帰国を許されます。
帰国したジャン2世は、身代金の分割すら払えず、「払えないのでもう一度捕虜になります」とロンドンへ戻ってしまいます。楊さんは「行っちゃダメでしょ」と笑い、丁重な扱いが快適でロンドンの方がよかったのかもしれないとも話していました。
一方で楊さんは、こうした貴族同士の緩いやりとりの裏で、農民は戦場の荒廃や軍隊の略奪、暴行といったひどい目に遭っていたことも強調します。騎士の鑑とされるエドワード黒太子も住民の虐殺を行っており、中世の民衆の人権のなさは突出していると語られています。
身代金などの借金は、税金や爵位・領地の売却で返そうとされましたが、それでも払えませんでした。その負担は市民や農民にのしかかります。
期待されなかった王太子シャルル5世は、なぜ「賢王」と呼ばれたのか?
父のジャン2世が捕虜となり、困ったのはフランスの王太子でした。この王太子が、のちに賢王と呼ばれるシャルル5世です。若い頃から病弱で、あまり期待されていなかったといいます。
シャルル5世はまずイングランドのエドワード3世と条約を結んで休戦し、ギュイエンヌやガスコーニュ、ポワトゥといったフランス南西部の広大な所領を渡します。北西部のノルマンディーに加えて南西部も得たイングランド王は、フランス王と同じか、それ以上の土地を持つ状態になりました。
そのうえで王位を継いだシャルル5世は、イングランドと再び戦い始めます。活躍したのが、将軍ベルトラン・デュ・ゲクランです。
デュ・ゲクランは、カスティリアやアラゴンなどスペイン方面の戦争でも戦果を上げた、荒くれ者たちのカリスマでした。フランス王が頑張っても1万〜2万しか集まらなかったのに、デュ・ゲクランが呼びかけると3万人が集まったといいます。
楊さんは、この差が生まれたのはフランス王が国王軍や常備軍を持っていなかったからだと説明します。誰が力を貸すか、どの貴族が参加するかで軍の規模が変わる時代だったということです。
デュ・ゲクランの大軍はスペイン方面で勝ったのち、イングランド軍に反撃し、渡した土地を次々に取り戻しました。イングランド軍は、ボルドー、バイヨンヌ、北の都市カレーなど一部を保持するところまで追い詰められます。
楊さんは、ボルドーを死守しているのは「ワインが好きだからだと思う」と冗談めかしつつ、ワインが重要な輸出品で財源だったからだろうと話しています。
シャルル5世はパリの防備強化や税金の整備も進め、税金の父とも呼ばれるそうです。しかし、あと一歩でイングランドを追い詰めるところで、シャルル5世とデュ・ゲクランは同じ年に病死してしまいます。
シャルル6世は「親愛王」から「狂気王」へ
シャルル5世の死後、30年もの休戦条約が結ばれ、ここで百年戦争の前半戦が終わります。楊さんは前半戦を、エドワード黒太子の活躍でイングランドが押し、シャルル5世とデュ・ゲクランが盛り返した時期とまとめています。
休戦していた百年戦争を再発させたのは、フランス内部の紛争でした。シャルル5世が残した12歳の王太子シャルルが即位してシャルル6世となりますが、シャルル6世は精神疾患を患ってしまいます。
シャルル6世の呼び名は「親愛王」から「狂気王」に変わりました。楊さんが読んだエピソードでは、遠征中に仙人のような老人が現れて「お前は裏切られる」と告げ、その後シャルル6世が家臣を攻撃し始めたといいます。楊さんは、本当かどうか意味がわからない話だと話していました。
親愛王と呼ばれる若き国王
精神疾患を患い、狂気王と呼ばれるようになる
王が国政を担えなくなると、誰が代わりに国政を担うのかという問題が生まれます。そこに登場するのが、王妃イザボー、王の弟オルレアン公ルイ、そして有力貴族のブルゴーニュ公フィリップです。
オルレアン公ルイは、王位継承権が次にある自分こそが国政を担うべきだと主張します。一方のブルゴーニュ公フィリップは、王妃イザボーに肩入れし、後ろから操る形で政治の中枢に入り込もうとしました。
王妃イザボーは本当に「悪女」だったのか?
この時期のキーパーソンとして楊さんが詳しく説明するのが、王妃イザボーです。イザボーはバイエルン公シュテファン2世の娘で、今でいうドイツの出身でした。
イザボーの本名はイザベル・ド・バビエールで、イザボーは愛称です。楊さんは、これまでのシリーズで出てきた何人ものイザベルとは別人なので、切り離して考えてほしいと念を押しています。
イザボーは美人で、望まれて嫁いできた一方、夫の発病後に何人も愛人を作った不倫のキャラクターとして歴史上有名です。ただ楊さんは、それが本当かはわからないとしたうえで、女性を悪女として描くこと自体が男性優位の歴史観だと指摘します。
楊さんは、10代で嫁いできていきなり夫が発病したイザボーは心細かったのではないか、という見方も紹介しています。
ブルゴーニュ公フィリップが早い段階で病死すると、イザボーは王の弟オルレアン公ルイの愛人になったとされます。楊さんは、ルイの愛人だったことは多分間違いないとしつつ、発狂した夫のそばで抱き合っていたという話が本当かはわからないとしています。
イザボーがのちに売国奴のように扱われる理由は、この後の展開でわかると楊さんは予告します。さらにイザボーは、息子の王太子シャルルについて「陛下の息子ではない」と言い出したとされます。
王太子シャルルはのちにシャルル7世として即位しますが、この出生の疑いは正統性に傷をつけ、シャルル7世自身の悩みの種の一つになったと説明されています。
オルレアン派がなぜ「アルマニャック派」になるのか?
王の弟オルレアン公ルイとイザボーが要職を独占すると、ブルゴーニュ公位を継いだ長男のジャンが怒り、軍を率いてパリに迫ります。オルレアン公ルイとイザボーは、狂気の王シャルル6世を残したままパリから逃げ出しました。
オルレアン公ルイは一度ブルゴーニュ公ジャンと和解して戻りますが、再び勢力を広げます。これに怒ったブルゴーニュ公ジャンは、殺し屋を雇ってオルレアン公ルイを暗殺してしまいます。
父を殺されたオルレアン公側では、息子のシャルルが、義父のアルマニャック伯ベルナール、王妃イザボー、王太子シャルルを味方につけ、ブルゴーニュ派に対抗します。楊さんは、ここで言うシャルルは全員違うシャルルだと注意しています。
楊さんが面倒だと嘆くのは、オルレアン公側の派閥が歴史上「アルマニャック派」と呼ばれることです。楊さんは、アルマニャックはお酒の名前でしか覚えていなかったと笑っていました。
さらにアルマニャック伯ベルナールとイザボーの仲が悪く、アルマニャック伯がイザボーを追放します。復讐を誓ったイザボーはブルゴーニュ派に移り、陣営の構図が入れ替わりました。
ブルゴーニュ派 対 オルレアン公・アルマニャック伯・王太子・王妃イザボー
ブルゴーニュ派・王妃イザボー 対 オルレアン公・アルマニャック伯・王太子
ブルゴーニュ派はイザボーを利用し、「狂気の王シャルル6世を代理する権利は王太子ではなく王妃にあり、国民は王妃を助けるブルゴーニュ公に忠誠を誓うように」と宣言させます。
この宣言に反発して、オルレアン公、アルマニャック伯、ベリー公、ブルボン公、ブルターニュ公、アランソン伯、クレルモン伯が集まり、アルマニャック派を形成しました。こうしてアルマニャック派対ブルゴーニュ派の戦いという構図ができあがります。
フランス王家の分裂を「一回クリアにする」
ブルゴーニュ公とイザボーが再び大軍でパリに向かうと、アルマニャック派は王太子シャルルと、王太子の義母にあたるキーパーソン、ヨランド・ダラゴンを連れてパリを離れます。王太子シャルルは、ブールジュやシノンを拠点にすることになりました。
イザボーは実の息子である王太子シャルルを自陣に引き入れたがりましたが、イザボーと対立するヨランド・ダラゴンが「あっちの味方になるな」と言い続けます。王太子は義母の側に寄り、アルマニャック派に確定していきました。
和平会談も悪口の応酬に終わり、最終的にはアルマニャック派がブルゴーニュ公ジャンを殺害します。前回はブルゴーニュ公がオルレアン公を暗殺し、今度はその逆が起き、和解の可能性は完全になくなりました。
楊さんはここで、複雑な話を一度整理します。実際はフランス王家が2つに分かれているだけで、その原因は王が精神を病んだことであり、殺し合って和解できない状態のブルゴーニュ派にイングランド軍が合流した、という構図です。
王の発病
シャルル6世が精神疾患を患い、国政の担い手が争点になる
2派に分裂
ブルゴーニュ派とアルマニャック派に分かれる
相互の暗殺
両派が互いのトップを殺し合い、和解できなくなる
イングランド合流
ブルゴーニュ派にイングランドが加わり、イングランド・ブルゴーニュ派対アルマニャック派になる
楊さんは、どの本を読んでもこれ以上クリアにはならず、言葉で理解するより図で見るべきだと話します。イザボーがどちらの派閥にも行き、どちらにも同じ名前の人物が出てくるため、耳で聞くと混乱するのだといいます。
トロア条約で、フランス王位はイングランドへ?
イングランドがブルゴーニュ派と組んだ理由として、楊さんは毛織物などの貿易でブルゴーニュとイングランドの関係がよかったことを挙げます。加えて、30年の休戦中に起きたフランスの混乱は、イングランド王にとって自分がフランス王になれる好機でした。
イングランド王は百年戦争の間ずっと、さらには戦争が終わった後も、自分こそがフランス王だと主張し続けていたといいます。このときのイングランド王ヘンリーも、楊さんによれば当時の感覚ではフランス人です。
ヘンリーはブルゴーニュ公を味方に引き込み、シャルル6世と王妃イザボーとの間でトロア条約 ── 1420年にイングランドとフランス(ブルゴーニュ派)の間で結ばれた条約。ヘンリー5世をシャルル6世の後継者とし、フランス王位をイングランド王家に継がせる内容でしたを結びます。ヘンリーにシャルル6世の娘を嫁がせ、生まれた子にフランス王位を継がせるという約束でした。
この約束によって、シャルル6世の直系でありイングランド王家の直系でもある子どもがフランス王になる道が開かれます。判断能力のないシャルル6世が同意し、イザボーも関わっていたため、王太子シャルルは反対していてもはしごを外された形になりました。
しかもイングランド軍はノルマンディーから北フランス一帯に進出し、パリはブルゴーニュ派に占領されていました。王太子シャルルはパリの南にあるブールジュやシノンで仮の政府を作る、危機的な状況に置かれます。
王が2人いるフランスに、ジャンヌ・ダルクが生まれる
1422年ごろ、イングランド王ヘンリー5世とフランス王シャルル6世が相次いで亡くなります。これにより、フランス王太子シャルルと、トロア条約で次のフランス王とされたイングランド王ヘンリー6世が、どちらもフランス王を主張する状態になりました。
| 陣営 | 王位を主張する人物 | 根拠・後ろ盾 |
|---|---|---|
| アルマニャック派 | 王太子シャルル(のちのシャルル7世) | 王の息子。ただし出生に疑いをかけられている |
| イングランド・ブルゴーニュ派 | イングランド王ヘンリー6世 | トロア条約。王と王妃が同意している |
楊さんは、イングランドと組んだブルゴーニュ公について、貴族の筆頭で、日本でいえば藤原氏のような存在だと補足します。フランス国王と対等の実力を持ち、実質的に一国の主と言っても過言ではないと本にも書かれているそうです。
王にとっては戴冠式による宗教的権威が非常に重要でした。しかし、どちらの陣営も決定打に欠けたため戴冠式を挙げられず、宗教的権威がどちらにも与えられないまま年月が過ぎていきます。
この混乱のなかで生まれたのがジャンヌ・ダルクです。楊さんによると、トロア条約が結ばれたときジャンヌはおそらく8歳でした。劣勢の王太子シャルルのもとにジャンヌが現れて一気に勝つという展開は、次回以降に語られます。
まとめ
ジャンヌ・ダルク編第4回は、ロングボウでイングランドが勝ち続けた百年戦争の前半戦から、シャルル6世の発病をきっかけにしたフランス王家の分裂、そしてトロア条約で「王が2人いる」状態が生まれるまでを整理した回です。
- スロイスの海戦で制海権を得たイングランドは、クレシーとポワティエでロングボウを使い、倍近いフランス軍に同じ形で勝ちました
- フランス王ジャン2世が自ら捕虜になり、身代金を払えず捕虜に戻るなど、貴族同士の騎士道の裏で民衆は重い負担を負っていました
- 期待されなかったシャルル5世がデュ・ゲクランとともに領土を取り戻しましたが、2人の同年の病死で前半戦は終わります
- シャルル6世の発病後、フランス王家はブルゴーニュ派とアルマニャック派に分かれ、暗殺の応酬で和解できなくなりました
- ブルゴーニュ派と組んだイングランドがトロア条約を結び、王太子シャルルとヘンリー6世がともにフランス王を主張する中で、ジャンヌ・ダルクが生まれます





