ムハンマドからオスマンまで、ざっくり言うとどんな流れ?
オスマン帝国編の2回目は、オスマン帝国そのものではなく、そのだいぶ前から話が始まります。深井さんは、ムハンマド以降のイスラーム帝国がどう広がり、オスマンにつながったのかを、日本人があまり知らない部分として伝えたいと話します。
イスラームで結構難しいから、またたくさん名詞出てくるんだけど、覚えなくていいです。で、流れだけは覚えておいてほしいなと思ってて。
深井さんによると、ムハンマドが亡くなった後、イスラームを信じる人たちの集団や国家は、アジアや北アフリカまで一気に広がりました。その後200年ほどは、広い範囲を1つのイスラーム帝国、別名アラブ帝国としてまとめて治めていたといいます。
ところが200年ほど経つと、イスラーム帝国は広すぎることや利権の絡みから分裂していきます。地方政権ができたり、大きな帝国が3つに分かれたりする中で、ファーティマ朝やセルジューク朝などが再統一を試みますが、どれも短期間でまた分裂してしまいました。
そこへホラズム朝やルーム・セルジューク朝が並び立つ地域にモンゴルが押し寄せ、それらの王朝を滅ぼしたり傘下に入れたりします。その結果、今のトルコがあるアナトリアは戦国時代のような群雄割拠に入り、その中から現れたのがオスマンでした。
この年表は深井さんが最初に示した「超ざっくり」の流れで、以降のセクションではこれを順に詳しく見ていきます。
ウマイヤ朝の拡大を支えた「組織的な略奪」とは?
深井さんは、7世紀にムハンマドがアラビア半島のメッカでイスラームを始めたところから話を詳しく追います。キリスト教が生まれてから600年ほど後のことです。
ムハンマドの死後は、親戚や友人がその地位であるカリフ ── イスラーム共同体の最高指導者の称号。「ムハンマドの後継者・代理人」を意味し、宗教と政治の両面で共同体を率いる立場とされましたを選挙制で継ぐ正統カリフ時代が4代ほど続きました。その後、カリフ職を我が物にしたい人物が現れ、世襲のウマイヤ朝が開かれます。
ウマイヤ朝のもとで1つにまとまったイスラームは強く、スペインやモロッコまで広がりました。深井さんは、その拡大の原動力として、チンギス・カンたちと近い「略奪による経済的利益」を挙げます。
イスラームって、自分たちの仲間になった、同じムスリムになった人に対して安全保障を提示する義務があるんですよ。
だから(仲間にするために)もっとリソースっていうか、富が必要。家族がどんどん増えていくみたいな。
樋口さんの説明では、征服先の人がイスラームを信じれば仲間として保障しなければならないため、構造的に略奪を続ける必要があったといいます。
さらに、ウマイヤ朝の略奪は漫画のような無秩序なものではなかったと語られます。参加者は事前登録をし、略奪したものには源泉徴収がかかる、いわばプロジェクト単位の組織的な営みでした。
プロジェクトでやってんすね。
深井さんは、この略奪は聖戦であるジハード ── アラビア語で「努力」を原義とする言葉。信仰のための奮闘を指し、文脈によっては異教徒との戦いを意味する場合もありますとも言えると補足します。大義名分と実務の両方を伴っていたからこそ、ウマイヤ朝の勢力は大きく広がっていったという見方です。
ウマイヤ朝の時代にはスンニ派とシーア派への分裂も起こりました。また、できてから100年ほどのイスラームが、すでに中国の唐王朝と争えるほど強くなっていた点も、深井さんは驚きとして語ります。
イスラームの戦士には騎兵が多く、戦ったキリスト教国の側は騎兵の強さを初めて知り、その後に中世のナイト(騎士)が現れたという話も紹介されます。深井さんは、農耕民族は野生の馬を見ても乗って戦おうとは思わないと話します。
アッバース朝の時代に、なぜカリフが3人もいる状態になった?
王朝は何代か続くと後継者争いでまとまらなくなる、と深井さんは言います。ウマイヤ朝に取って代わったのがアッバース朝で、『千夜一夜物語 ── アラビアンナイトとも呼ばれる説話集。アラジンなどの物語で知られ、アッバース朝の都バグダードを舞台にした話も多く含まれます』のアラジンの話のルーツになった時代の王朝です。
アッバース朝は750年も続いたとされますが、深井さんによれば国として実質が成り立っていたのは500年ほどで、その後は名目だけが続いたといいます。
ウマイヤ朝まではアラブ人が優遇される制度があったものの、アッバース朝の時代にそれがなくなり、イスラームはさらに広い範囲の人々に広まっていきました。
アッバース朝は唐王朝ともタラス河畔の戦いで争っています。この戦いをきっかけに紙の作り方が中国から中東へ、さらにヨーロッパへ伝わったため、技術史上の大きな出来事として教科書に載っていると深井さんは説明します。
そのアッバース朝の頃までは、イスラームは一応1つにまとまっていました。しかし、滅ぼされたはずのウマイヤ朝の子孫が1人だけ生き残り、イベリア半島で後ウマイヤ朝を開いて自らもカリフを名乗ります。
だから日本で言ったら天皇が二人いる状態みたいになっちゃうわけですよ。
さらにファーティマ朝もカリフを名乗り、カリフが3人並び立つ状態になりました。楊さんはこれを、ラーメン店に「元祖」と「本家」があるようなものだとたとえます。
深井さんの要点は、カリフが複数になったことでカリフの権威が落ちていったという点です。それまでイスラームの強さに戦々恐々としていたキリスト教国は、この分裂を機に反撃の時代へと向かっていきます。
セルジューク朝とアサシン、そして「ビザンツ帝国=ローマ帝国」の話
分裂が進むイスラーム側に現れたのが、セルジューク朝を開いたトゥグリル・ベクです。2代目のアルプ・アルスラーンの名前について、楊さんがアニメ『アルスラーン戦記』を連想すると、深井さんは「勇猛な獅子」という意味だと紹介します。
セルジューク朝の時代には、特殊な暗殺術でセルジューク朝の要人を次々に殺していったアサシン集団も登場しました。また、実際の政治を担うスルタン ── イスラーム世界の君主の称号。カリフから統治を委ねられた世俗の支配者として、主に政治・軍事の実権を握りましたという役職も現れます。
スルタンっていうのはね、日本で言ったら分かりやすいんだけど、征夷大将軍ですね。
つまり、権威としてのカリフを天皇、実権を持つスルタンを将軍になぞらえると、当時の構図がつかみやすいというのが深井さんの説明です。
オスマンの話に今後ライバルとして登場するビザンツ帝国についても、ここで説明があります。深井さんによると、ビザンツ帝国は東ローマ帝国のことで、名前は違っても連続した同じ帝国を指しています。
早い段階でなくなり、フランク帝国などが現れて今のヨーロッパが形作られていく
1000年ほど長く残り、ビザンツ帝国と呼ばれる
セルジューク朝はビザンツ帝国を削りながら大きくなりますが、やはり短期間で分裂し、ルーム・セルジューク朝やシリア・セルジューク朝などの分家が生まれました。それと同列にあったホラズム朝は、チンギス・カンに潰された王朝です。
誰も予想しなかったモンゴルの到来と、オスマンさんの登場
ルーム・セルジューク朝もチンギス・カンの家来のような立場にされ、ここからモンゴルが本格的に登場します。深井さんは、モンゴルは誰も予想していなかった存在で、いきなり信じられないほど強かったと話します。
ゲームの裏ボスみたいだ。
ルーム・セルジューク朝にはモンゴルの千人隊長バイジュ・ノヤンが攻め込み、徹底的に打ち負かします。分裂していた勢力がさらに分裂し、権威もなくなった結果、トルコ系の国が乱立する戦国時代のような状況が生まれました。
深井さんは、織田信長も上杉謙信も尼子も島津もいる状況と同じだとたとえ、その中で織田信長にあたる存在としてオスマンという家を挙げます。
オスマンさんっていう人がいて、このオスマンさんが作った王朝、これがオスマン。
オスマン帝国の始まりは「めっちゃちっちゃい」もので、楊さんは浪人集団に近いと表現します。モンゴルに一度統治されたこの地域も、モンゴル帝国自体がすぐに分裂したため、再び混乱の中に置かれました。
深井さんは、ユーラシア大陸の歴史では、日本では想像できないほど統一と分裂が激しいサイクルで繰り返されていると語ります。
その分裂期に武士のような立場で活動したのが、ガージー ── 「信仰戦士」と訳される言葉。異教徒との境界地帯で戦いや襲撃を行った戦士たちを指し、初期オスマンの担い手とされますと呼ばれる人々です。彼らはガザーと呼ばれる聖戦として美化しながら、実際には略奪を繰り返し、その中から新しい勢力が固まっていきました。
モンゴルの侵攻
ルーム・セルジューク朝などが打ち負かされ、地域の権威が失われる
群雄割拠
トルコ系の小勢力が乱立し、ガージーが略奪を続ける
オスマンの台頭
オスマンさんの勢力が他の勢力を倒していく
大帝国へ
ビザンツ帝国を滅ぼし、ヨーロッパまで進出する
深井さんはこの流れを、無一文に近いところから少しずつ力をつけ、最後に帝国として「ライジング」していくパターンとして、イメージしやすいはずだとまとめます。
イスラームはなぜここまで広がり、強かったのか?
オスマン帝国の時代には、オスマン以外にも帝国レベルのイスラーム国家が並び立っていました。樋口さんが「ムハンマドもこうなるとは思わんかったやろ」と言うと、深井さんは自身もまだ解明できていないテーマだと打ち明けます。
本当にいまだに僕は本質的に理解できてないのは、どうしてここまで、一気に広がり、強いのか。
税制の緩さ、宗教的な寛容、ビジネス環境を整えるうまさなど、理由として挙げられることはいろいろあります。それでも深井さんは、腑に落ちるレベルでイスラームの拡大を説明するのは難しいと話します。
深井さんは、イスラームがキリスト教や仏教に比べて変遷が少なく、ムハンマドが最初に説いた教義を大切にし続けている点にも注目します。樋口さんは、一神教でありながら環境に応じてカスタマイズしていくマインドを感じたと語ります。
歴史的事実を見る限り、イスラームはキリスト教よりも他宗教に寛容に見える、というのが深井さんの感想です。ただし深井さんは、今がどうかを語るつもりはなく、寛容ではないという意見や本もあると留保をつけています。
楊さんは、肌を出してはいけない、ラマダン中は昼食をとれないといったルールから、イスラームには厳しいイメージしかなかったと話します。樋口さんは、厳しいところは守りつつ、自分たちの解釈でうまく調整する面がオスマン帝国にもあったと応じます。
例えばビザンツ帝国とかと比べても、全然オスマンの方が合理的。ビザンツは結構宗教色濃いし、なんかもう最後の最後までなんか宗教闘争してるし。
深井さんは、これは自身が学んだ歴史の事実から見た個人的な意見だと断ったうえで、イスラームの制度や国家運営は非常に合理的だと評価します。
楊さんは自身の推測として、キリスト教が公認されるまで数百年迫害された経験が、純粋さを求める要因になったのではないかと話します。深井さんは、一面だけを語ると必ず間違いが出ると注意しつつ、そうした解釈もできる面白さとして受け止めてほしいと語ります。
オスマン帝国の話は、どんな視点で聞くと面白いのか
深井さんは次回以降の予告として、オスマン帝国は時代によってまったく姿が違うと話します。最初はただのグループで、途中から帝国になり、専制君主の時代を経て、最後は近代化に苦しむ時代を迎えるといいます。
楊さんは、織田信長や上杉謙信の戦国時代が、日本よりはるかに広い大陸でダイナミックに起きていることに壮大さを感じると語ります。
これに対して深井さんが提案するのは、自分がオスマンの君主や上層部だったら、と想像する見方です。異民族やキリスト教徒などの異教徒を治める立場で、どんな思考回路を使ったかをたどると発見が多いといいます。
だって今の日本の国会とか内閣って外国人がいるってことでしょ。
深井さんによると、オスマン帝国の為政者たちは、イスラーム法を基にしながら独自の制度も作り、国家の制度やどこを攻めるかを1つずつ決断していました。イスラームという前提とキリスト教という勢力がある状況だからこそ、織田信長では起こらないことが起こるという見方です。
深井さんは、自分が日本史に例えているのも本当はNGで、最初はわかりやすさのためにそうしているだけだと付け加えます。楊さんも、常識のスイッチを外して聞く必要があると応じます。
まとめ
今回の回は、ムハンマドの死後に急拡大したイスラームが、ウマイヤ朝、アッバース朝、セルジューク朝と統一と分裂を繰り返し、モンゴルの到来による群雄割拠の中からオスマンが現れるまでを、流れ重視で整理する内容でした。
- イスラームは死後約200年ほど1つの帝国として広がり、その後は再統一と分裂を繰り返した
- ウマイヤ朝の拡大は、ジハードという大義名分と、事前登録や源泉徴収を伴う組織的な略奪に支えられていた
- カリフが3人並び立ったことでカリフの権威が落ち、キリスト教国の反撃やセルジューク朝の台頭が起きた
- モンゴルの侵攻でアナトリアは戦国時代のような状況になり、小さな勢力だったオスマンがそこから台頭した
- 深井さんは、異教徒や異民族を治めるオスマンの為政者の思考回路をたどる視点で聞くことを勧めている





