イスラム世界の英雄が選ばなかったリーダー像とは?
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前回までで、ケマルは連合国の支配に抵抗し、列強のプランを修正させることに成功しました。楊さんは、これを「ほぼ唯一の例」ではないかと振り返ります。
いや、ちょっとなんか爽快でした。僕は聞いてて。
ただしトルコにとって、この時点は終わりではなく、ようやく始まったばかりの段階です。この頃、ケマルの名前はイスラム世界全体に知れ渡るほど有名になっていました。
楊さんは、ケマルの名声の広がり方を日露戦争と重ねて説明します。日本がロシアに勝ったとき、白人以外の人々は「人種的に劣っていない」と自信を取り戻しました。
ケマルの勝利も、オスマン帝国の衰退以降に抑えつけられてきたイスラム世界、アラブ、インドのムスリムにとって、自信につながる出来事でした。インドのムスリムがケマルに義援金を送った例もあるといいます。
ケマル自身は反宗教的な考えの持ち主でしたが、そのことを世界に向けて公言してはいませんでした。
民衆の期待に応えるなら、ケマルのリーダー像には2つの方向がありました。しかしケマルは、どちらとも違う道を選びます。
| 方向性 | 内容 | 背景 |
|---|---|---|
| イスラム世界のリーダー | 自らカリフになることも可能だった | オスマン帝国がカリフを抱えていた |
| 社会主義国家のモデル | 反帝国主義を掲げ、アジア・アフリカの手本になる | ソビエトと同盟を結んでいた |
| ケマルの実際の選択 | トルコ主義・科学主義・親西洋の国づくり | もともとのイデオロギーに立ち戻った |
宗教はいつかナショナリズムに負ける?世俗主義という賭け
楊さんによると、ケマルの国づくりはイスラムをどう扱うかという点で、相当に段階を踏んで進められました。
ケマルは、トルコの民族主義の枠組みでイスラムを再解釈できれば、いずれナショナリズムが宗教に取って代わると見通していました。楊さんは、この見通しを「外れた目論見のうちの一つ」と位置づけます。
楊さんは外れた理由として、宗教と科学は必ずしも衝突しないことを挙げます。アメリカの著名な科学者が敬虔なクリスチャンである例もあります。現在のトルコも、地域によって差はあるものの、むしろイスラム色を強める方向にあるといいます。
それでもケマルは、共和制と科学主義に基づく世俗的国民国家 ── 宗教と国家を切り離した国民国家。トルコではこの世俗主義の原則を「ライクリキ(laiklik)」と呼び、共和国の重要な柱とされてきましたをつくり、彼にとって「アラブ人の宗教」であるイスラムの影響を弱め、トルコ民族の意識を目覚めさせようとしました。
番組では、ここでの「世俗」は宗教の対義語、つまり非宗教的という意味だと説明されます。世俗主義は、第一次世界大戦後のトルコ共和国を読み解く最重要のキーワードです。
この世俗とか世俗化っていう評価基準はですね、もともと西洋のカトリックから来てるんですよね。
深井さんの補足によると、世俗化という評価基準には主に3つの要素があります。時代や政治状況によって、どの要素が重視されるかが変わっていくといいます。
- 宗教と、政治・経済・文化を含む国家との分離
- 宗教の私事化(公的なものではなく私的なものとして扱う)
- 宗教が社会生活に及ぼす影響力の低下
エリートの理想と民衆のずれ、そしてクルド人との禍根
ケマルは民衆の期待に応えるのではなく、自らの理想の国家をつくろうとしました。楊さんは、これをエゴではなく「そうするべきだ」という彼の信念によるものだと説明します。
非西洋の、しかもカリフがいるイスラムの国で、科学主義に基づく世俗国家を築くことは極めて困難でした。民衆もそれを望んでいませんでした。
一方で、ギリシャとの戦争を勝利に導いたケマルら軍事エリートは、テッサロニキ ── オスマン帝国時代の港湾都市で、ケマルの出身地。多民族・多宗教が共存し、青年トルコ人運動の拠点となった開放的な都市でしたの空気を受け継ぎ、この考えを共有していました。
だからエリート層はそう思ってるけど、実態というか、民衆は全然求めてないわけですよね。
ただし、ケマルの方針のうちトルコ主義は比較的受け入れられていました。ギリシャとの戦争の後、トルコに残ったトルコ人以外の主要な民族はクルド人だけになっていたからです。
かつて多民族を抱えていた時代は、エンヴェルらが「帝国内の人は全員オスマン人」とするオスマン主義に配慮していました。しかしこの時点では、その必要はなくなったと判断されます。
一方で、クルド人は現在もトルコ共和国の人口の20%ほどを占めています。のちにトルコはクルド人を「本当はトルコ人」と言い直す方針をとり、ここに大きな禍根が残りました。
(クルド人の)中から反政府勢力が出てきて、それが今も活動してるという。
楊さんによると、アンカラやイスタンブールで起きているテロには、この民族方針への反対勢力や、世俗主義に反対するイスラム勢力が関わっているものもあるといいます。
600年続いたスルタン制をどう終わらせたのか
トルコ人がほとんどになったことで、カリフ制の意味も変わりました。アルバニア人やアラブ人を抱えていた時代は、カリフが彼らをイスラム的にまとめる重要な役割を担っていました。しかしこの段階では、外交上の意味は残っても、内政上の意味は薄れていました。
もともと反スルタンの思想を持つケマルは、ギリシャとの戦争に勝つと、ただちにスルタン廃止に動きます。アンカラ政府は当初から実質的に共和制で動いていましたが、600年以上続いたスルタン制の重みには配慮していました。
ケマルが目指したのは、独裁的な共和国でした。樋口さんが「矛盾」と指摘するこの構想について、楊さんは、ケマルが自分をルソー ── 18世紀フランスの思想家。『社会契約論』で、共同体全体の利益をめざす「一般意志」に主権があると説きましたの言う一般意志の体現者だと考えていたと説明します。楊さんは、これを「誤解釈」だと評しています。
彼はですね、従来の伝統と切り離された全く新しい社会構造を、しかも短期間で作ろうっていうミッションがあるんですよね。
だからどうしても、なんか絶対的な独裁的な権力がやっぱり必要だったんですよ。
ケマルは社会ダーウィニズムの信奉者でもあり、王政は時代遅れでいずれ共和制へ移行すると考えていました。演説では、君主は国民と喜びだけを分かち合い、国難の際には宮廷のことしか心配しないと、君主制そのものを批判します。
ただし、宗教権威であるカリフ制をすぐに廃止するのは危険でした。そこでケマルは、まず世俗権威であるスルタン制をカリフ制から分離し、廃止する案を大国民議会に審議させます。
大国民議会では、ウラマー ── イスラム法や神学を修めた学者・宗教指導者の総称。オスマン帝国では法や教育を担う重要な存在でしたたちが、スルタンとカリフは分離できないと主張しました。これに対してケマルは議論を遮り、前の席に飛び乗ります。そして主権はすでに国民の手にあると言い、同意しないなら「何人かの首が切り落とされる」と脅しました。
むちゃくちゃ怖えや。
しかも前の席にバーン登ってオラつって言ってるんでしょ?
仰天した委員たちは、自分たちは理論上の議論をしていただけで、ケマルの説明に目を見開かれたと慌てて取り繕ったといいます。
まあ実際その真偽はわかんないですけど、そのケマルの指示で何か暗殺されたっていう噂はやっぱあります、人が。
なぜスルタンとカリフの分離はムスリムにも受け入れられた?
ケマルは分離が必要な理由として、スルタンのメフメト6世が「再び祖国を裏切らないため」とも述べました。セーヴル条約を結んだのはスルタンを頂点とするイスタンブール政府です。そのため、アンカラ政府から見ればイスタンブール政府は祖国を裏切った側でした。
すげえこと言ってるっすね。
楊さんは、神学的な色合いの濃いこの議論で、ケマルが示した重要な論点を3つに整理します。
歴史的文脈で論じる
両者の兼任は宗教上の必然ではなく時代の産物だと説明した
主権とカリフ制の対立
主権は国民にあるべきで、カリフは宗教的権威にとどめるとした
分離不可能説の否定
時代が変わったのだから分離できると結論づけた
イスラム学者のような演説でしたが、ケマル自身は、自分の議論がイスラムの教義にかなうかどうかをほとんど気にしていませんでした。楊さんは、これを「OSを入れ替えようとしている」と表現します。新しい国はオスマン帝国の再現であってはならず、イスラムには公的な役割を与えないという判断が、ケマルの根底にありました。
議会はこの案を可決し、メフメト6世は廃位されます。スルタン制は消え、カリフにはケマルの意向に従うアブドゥルメジト2世 ── オスマン家最後のカリフ。政治権限を持たない宗教的象徴として即位し、1924年のカリフ制廃止で国外追放となりましたが就きました。ケマルはカリフの最初の演説にも口を出し、その権限がいかに限定的かを示そうとしました。
意外なことに、この措置に対するムスリムの反応は好意的でした。ケマルはイスラムを批判せず、宗教的権威と議会・行政・立法を分けるべきだと訴えたため、多くの人が納得したのです。エジプトのアズハル大学 ── 約1000年前に創設された、スンニ派の最高教育機関として知られる大学の学者たちも、この意見を尊重したといいます。
この辺もうまいですね。全否定しないところがね。
ケマルはこうして人々をまず納得させ、16か月ほど待ってからカリフ制の廃止に踏み切ります。
ローザンヌ条約は何を取り戻した?
スルタン制廃止と並行して、連合国とアンカラ政府の間でローザンヌ条約 ── 1923年に連合国とトルコが結んだ講和条約。第一次世界大戦後のセーヴル条約に代わり、現在のトルコの国境を確定させましたが結ばれ、セーヴル条約は正式に破棄されます。番組では、この条約の成果として次の点が挙げられています。
日本が日露戦争に勝った後も長く解消できなかった不平等条約を、ケマルはこの時点で廃止させることに成功しました。
住民交換とかできるんだと思った。え?って思った。
住民交換は、国民国家の中に別の民族がいることを互いのリスクとみなし、民族ごとに住民を整理したものでした。故郷を追われた人も多かったとみられます。それでもローザンヌ条約は、トラウマとなっていたセーヴル条約を塗り替えた輝かしい勝利として宣伝されました。
政敵と創業の仲間たちはどう排除されたか
アンカラ政府内で力を強めるケマルには、主に2つの政敵がいました。1つは、ケマルの権力を抑えて議会に権力を持たせるべきだと考える第二グループです。
第二グループは、選挙区に5年以上住んでいない者には被選挙権を認めない法案を出します。エルズルム選出でありながら、多忙で現地に長く滞在できなかったケマルを排除する狙いでした。
もう1つの政敵は、ケマルと同格だと自認していた創業期の仲間たちです。ケマルが腹心を重用するなかで、彼らは自分たちが蚊帳の外に置かれていると感じ、不快感を募らせていました。
第二グループのリーダー、アリ・シュクル議員は何者かに暗殺されます。実行犯は、ケマルを何度も暗殺から守った元ボディーガードのトパル・オスマンでした。ケマルの指示を疑う声は当然出ましたが、裏付けはなく、トパル・オスマンの単独行動という説もあります。
ケマルはこの事件を機に基盤固めの施策を次々に打ち出し、第二グループを消滅させます。さらに憲法改正で、大統領が首相を任命し、首相が閣僚を任命する仕組みをつくりました。これにより、自身が大統領、イスメトが首相となる体制を法律で固め、かつての仲間たちを要職から遠ざけていきます。
大変であると同時に怖いよね。才能、どう、いろんな意味で才能を持ってるなと思いました。
トルコ共和国の誕生と、11年の戦争が残した傷
独裁体制を強めたケマルのもとで、ついにトルコ共和国が設立されます。それまではオスマン帝国の中にもう1つの政府がある状態で、スルタンを廃止したことで、ようやく共和国をつくれるようになりました。
首都は、大国民議会があるアンカラに置かれました。楊さんによると、イスタンブールから遠く、東側で対抗する政治の中心だったこと自体にも大きな意味があったといいます。初代大統領にはケマルが選ばれます。
共和国の成立直後、ケマルはあえて「イスラムは国家の宗教である」という文言を憲法に加えます。楊さんは、これは本心ではなく、国をまとめるための戦略だったと説明します。
番組では、ここまでに至る戦争の被害も数字で紹介されます。
で、その虐殺を今のトルコ共和国は認めてないんですよね。
アルメニア人虐殺をめぐっては、アルメニア系住民の多いフランスとトルコが対立しています。アルメニア系のアメリカのバンド、システム・オブ・ア・ダウン ── アメリカのヘヴィメタルバンド。メンバーはアルメニア系で、アルメニア人虐殺の承認を訴える活動でも知られていますもこの問題に言及しているといいます。
詰め将棋のような国づくりから何を学ぶか
楊さんは、この回を細かく語った理由として、国家の崩壊と再生のプロセスにはこれほど多くの出来事があると示したかったと話します。
楊さんによると、ケマルは幼い頃からイスラム的な体制を嫌っていました。それでも、スルタンとカリフの分離から始めて1つずつ潰していく、忍耐強い詰め将棋のような国づくりを進めたといいます。
詰め将棋やね。
楊さんは、最初から本心を出せば反発されることでも、段階的に示されると国民がなし崩しに受け入れていく点に、歴史のリアルさを感じるといいます。
やっぱここまでですでに一人でやったことのボリュームというか、なんか内やって外やって外交やって、で国作った後、まだ国を整えるまでやるみたいな。
カリフはまだ残っており、イスラム色を排除するという大仕事は次回に持ち越されます。
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まとめ
英雄となったケマルは、民衆が望むリーダー像ではなく世俗的な国民国家を選びました。スルタン制の廃止、ローザンヌ条約、政敵の排除を段階的に進め、トルコ共和国を設立しますが、クルド人やアルメニア人をめぐる禍根も残しました。
- ケマルはイスラム世界の英雄とされながら、カリフや社会主義のリーダーではなく、トルコ主義・科学主義の国づくりを選んだ
- 世俗主義(ライクリキ)は宗教の対義語としての「世俗」を掲げる、トルコ共和国の重要な方針となった
- ケマルはスルタン制をまずカリフ制から分離して廃止し、16か月ほど待ってからカリフ制の廃止に進んだ
- ローザンヌ条約は領土を回復し、不平等条約を解消する輝かしい勝利とされた
- 政敵の排除、クルド人への方針、戦争中の虐殺は、今のトルコにも禍根を残している







