スレイマン大帝の軍がウィーンの足元へ。ヨーロッパが震えた最盛期
前回のエピソードはこちら
第2回は、前回のオスマン帝国シリーズの続きから始まります。深井さんによると、メフメト二世がビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを落としたことで、ヨーロッパとイスラーム世界が直接向き合う状況が生まれました。
それまでのこの地域は、ビザンツ帝国、西ヨーロッパ、イスラーム世界が並び立つ「三国志」のような状態だったと深井さんは表現します。楊さんは、ヨーロッパとイスラーム世界の関係は対立だけでなく、貿易や人・文化の行き来といった多様な関係でもあったと補足しています。
その後、オスマン帝国の最盛期を築いたのがスレイマン一世です。スレイマン一世は「スレイマン大帝」と呼ばれ、長い治世のあいだに広大な領土を獲得しました。
スレイマン大帝、カール大帝とかと一緒だよね。
スレイマン一世の時代のオスマン軍は、バルカン半島からさらに北西へ進み、オーストリアのウィーンまで迫ります。楊さんは、ウィーンが神聖ローマ皇帝でありハプスブルク家当主のカール五世 ── 16世紀のハプスブルク家の君主。神聖ローマ皇帝とスペイン王を兼ね、ヨーロッパの広い地域を支配しましたの本拠地だったと説明しています。
足元まで来て、本当に陥落しかけるんですよ。陥落しなかったんだけど、ほんとギリギリまで来るんですよ。
ヨーロッパがオスマン帝国に怯えながら暮らす時代が、ここで始まります。深井さんは、オスマン帝国がカトリック勢力と戦っているあいだに、プロテスタントが伸びる余裕を得たともいわれると紹介しています。
海ではプレヴェザの海戦やレパントの海戦が起こり、勝ち負けはどちらにもありました。レパントの海戦ではオスマン艦隊が惨敗しますが、深井さんによれば、それでもオスマン帝国の衰退の原因にはならず、「オスマンの衝撃」はその後も続きました。
第1次ウィーン包囲の失敗は分水嶺だった?当事者には見えない転落
楊さんは、スレイマン一世の第1次ウィーン包囲の失敗こそがオスマン帝国没落の分水嶺だったとする本もあると紹介します。そのうえで、後世からは岐路がわかっても、当時の人が自分たちの状況を客観的に評価するのは難しいと指摘しています。
深井さんはこの状態を、売上のグラフにたとえます。グラフを後から見れば下がり始めた地点がわかりますが、当時のオスマン帝国はまだ高い位置にいたため、周囲からも自分たちからも強いと見られていました。
株式会社でもこういうところいっぱいあるじゃないですか。まだ強えーけど落ち始めてるところってたくさんあって。
番組では、オスマン帝国は国境線が長く常にどこかで戦争をしていたため、ウィーン包囲の失敗も「一回失敗しただけ」程度に受け止められていたのではないか、と語られます。深井さんは、ケマルのように現状認識の能力が極めて高い人なら、生きているうちに分水嶺に気づくこともあると付け加えています。
火砲はなぜ西ヨーロッパで発達したのか
後世から見たオスマン帝国衰退の分水嶺として、深井さんは火砲の発達を挙げます。火砲とは銃や大砲など火薬を使う兵器のことで、火砲が西ヨーロッパで発達したことで、オスマン帝国は勝てなくなっていったと語られています。
深井さんが面白いと話すのは、火砲が西ヨーロッパで発達した理由です。火薬は中国で発明されたともいわれ、西ヨーロッパ固有の技術ではありません。
当時の西ヨーロッパには大きな帝国がなく、小さな国がそれぞれ石の城壁を持って小競り合いをしていました。その石の城壁を崩すために、火砲が発達していったといいます。
だから社会的なニーズがあって、初めて基礎技術が応用されていくんですよね。
火砲の発達は、火砲そのものだけでは終わりませんでした。深井さんは、弾道や距離を測る技術、火薬を扱う技術、それを教える教育、大砲をつくる設備投資が同時に必要になったと説明します。
さらに重要なのが、深井さんが「ファイアコントロール」と呼ぶ統制の技術です。城壁を崩すには6発を同じ場所に当てる必要があるとすれば、6台の大砲すべてに同じ場所を撃たせる軍の統制が欠かせません。
社会のニーズ
小国が乱立し、石の城壁を崩す必要があった
火砲の発達
火薬を使った兵器が応用されていく
周辺技術
距離の測定、火薬の扱い、教育、設備投資
組織の統制
複数の大砲に同じ場所を撃たせるファイアコントロール
深井さんは、一つの技術がなし崩し的にあらゆる要素を引っ張り、それが国ごとの差になったと話します。樋口さんは、コロナ禍でリモートワークが広がったとき、もともとオンラインで打ち合わせをしていた地方の人が強かったという身近な例を重ねています。
騎兵の強みが弱点に変わる。軍だけでは済まない構造転換
オスマン帝国が強かった理由について、深井さんは、もともと遊牧民で騎兵スタイルが強かったからだと説明します。しかし騎兵スタイルからファイアコントロールのスタイルへ移るのは、非常に難しいことでした。
自律分散型の軍隊なんですよ、騎兵って。そこから中央統制型の軍隊にしないといけないっていうのは、ある意味自分の強みを殺すみたいな話になっていくんで。
遊牧民由来の自律分散型の軍隊。軍団のあり方に合わせて徴税や給与の仕組みが決まっている
中央統制型の軍隊。自分たちで発達させたため、国政や社会システムも少しずつ火砲に合わせていった
深井さんによれば、騎兵スタイルは徴税方法にも影響していました。軍団のあり方に連動して税金の取り方や給与の上げ方が決まっていたため、差がついてから西ヨーロッパの方式に寄せようとすると、徴税も含めて全部を変えなければなりません。
樋口さんは、外注中心で社員を少なくしている会社と、すべて内製で社員を抱える会社では、連絡の取り方も組織の作り方も、何がインセンティブになるかも全く違うと重ねます。
深井さんは、火砲技術も資本主義や民主主義と同じく「文化」だと話します。シリコンバレーのスタートアップ文化を取り入れることも、システムを入れるのではなく組織のあり方ごと変えることだといいます。
企業だとさ、クラウドというシステムを入れるだけで、じゃあ全部うまくいくかというといかないじゃないですか。
マジでそうなんですよね。クラウド入れるとかそういうことなんよね。組織体制変えるってことなんよ。
深井さんは、オスマン帝国がまさにこの課題にぶつかり、それをどう乗り越えるかが今回のシリーズの見どころだと予告しています。
大航海時代で「世界の端」に。それでも強いと思っていたオスマン
こうした状況のなかで、17世紀初頭にはオスマン帝国の西ヨーロッパへの拡大が停滞します。同じ頃、西ヨーロッパは大航海時代に入り、海を通って新大陸などへ進出し始めました。
陸路でアジアと貿易していた時代、オスマン帝国は世界の真ん中にある中継地点でした。深井さんによれば、大航海時代になって海が中心になると、オスマン帝国は世界の端のような位置になり、「地方都市化」していきます。
それでも当時のオスマン帝国の人々は、自分たちをとても強いと感じていたといいます。深井さんはこれを「伝統ある大企業」の感覚にたとえます。
この状態なんですよ。スタートアップがちょろちょろやってるじゃんみたいな。ヨーロッパから見てもまだそうなんですよ。
実際、ヨーロッパの商人はアジアの品物を仕入れるとき、オスマン帝国の商人を頼らなければなりませんでした。深井さんは、この時点のオスマン帝国は実際にまだ強かったと話しています。
「あの強さを取り戻せ」。キョプリュリュ改革と第2次ウィーン包囲
一方で、オスマン帝国の支配層の一部は「ヨーロッパは強くないか」と異変に気づいていました。その一人が大宰相のキョプリュリュ・メフメト・パシャ ── 17世紀半ばのオスマン帝国の大宰相。財政や軍の立て直しを進め、その改革は息子たちにも受け継がれましたで、息子たちにも引き継がれた「キョプリュリュ改革」を進めます。
深井さんが注目するのは、キョプリュリュ改革の性質です。キョプリュリュ改革は既存の仕組みを壊す改革ではなく、「昔の強さを取り戻そう」という復古的な改革でした。
でかいってことは内的に均衡してるってことなんだよ。長く続いてて安定してるってことは、内的均衡があるってことだよね。
深井さんは、まだ強い時点で自分たちを自己破壊し、内的均衡を崩す改革をしようとする人は出てこないと話します。もしそれができていれば強かったかもしれないが、そんなことができる組織はほぼない、という見方です。
キョプリュリュ家の時代のオスマン帝国が実際に行ったのは、第2次ウィーン包囲でした。第1次ウィーン包囲では落とせなかったウィーンを今度こそ落とせば、コンスタンティノープル陥落のような栄光を取り戻せる、という感覚だったと深井さんは説明します。
やっぱコンスタンティノープルを取ったってことが相当成功体験として。
その成功体験を繰り返そうとするんですよ。
第2次ウィーン包囲はいいところまで進みますが、オーストリアの援軍に駆けつけたポーランド軍などに惨敗します。その後オスマン帝国は、オーストリア、ポーランド、ベネチア、ロシアなどが結んだ神聖同盟と16年にわたって戦い、ほとんど勝てずに大規模な領土を失いました。
最終的にオスマン帝国はカルロヴィッツ条約 ── 1699年にオスマン帝国と神聖同盟諸国のあいだで結ばれた講和条約。オスマン帝国がヨーロッパで大きく領土を失った最初の条約とされますを結ばされ、ハンガリーの領有を放棄させられます。深井さんは、それまでウィーンのすぐ東までがオスマン帝国だったことに驚きを込めて語っています。
ヨーロッパが「対等」と見始めた。チューリップ時代の改善
深井さんによると、カルロヴィッツ条約はヨーロッパ側の意識を変えました。それまでは格上で手を出しにくい相手だったオスマン帝国が、この条約をきっかけに「対等」な相手と見られるようになります。
ヨーロッパはオスマン帝国を格上と感じ、オスマン帝国はヨーロッパに気を使っていなかった
ヨーロッパはオスマン帝国を対等と見るようになり、オスマン帝国はヨーロッパに気を使うようになった
カルロヴィッツ条約は1699年に結ばれ、18世紀に入るとオスマン帝国側にも「ヨーロッパから学ばなければいけないのではないか」という姿勢が生まれます。オスマン帝国は活版印刷術を導入し、辞書や地理、歴史の本を印刷したり、図書館を作ったりしました。
建築ではバロック様式を取り入れ、オスマン文化と混ざった「オスマン・バロック」が生まれて有名なモスクが建てられます。ヨーロッパへの綿花やコーヒーの輸出、インドからの贅沢品の輸入もあり、文化的・経済的に栄えた時期でした。
この時期はチューリップ時代 ── 18世紀前半のオスマン帝国で、宮廷を中心にチューリップ栽培や西欧風の文化が流行した時期の呼び名と呼ばれ、フランス宮廷との交流など「ヨーロッパかぶれ」の文化も広がりました。ただし深井さんは、チューリップ時代の改善は強い危機感から生まれたものではなかったと指摘します。
ちょっとなんか取り入れてやろうみたいなさ、それぐらいの話。
ロシアの南下と露土戦争。2〜3倍の兵力でも勝てなかった理由
オスマン帝国の状況が本格的に深刻になるきっかけは、ロシアの台頭でした。深井さんによれば、イギリスやフランスに遅れて近代化を目指したロシアは、ヨーロッパには勝てないという感覚から、東と南へ伸びようとします。
ロシアが求めたのが不凍港 ── 冬でも海面が凍らず、一年中使える港。北の海に面したロシアにとって、貿易や軍艦の運用のために重要な目標でしたです。ロシアが面する海は冬に凍り、貿易も軍の移動もできなくなるため、黒海などを目指しましたが、そこはオスマン帝国の領地でした。
こうしてオスマン帝国は、西ヨーロッパとロシアに挟み撃ちにされ、じり貧になっていきます。エカチェリーナ二世のロシアはポーランドをめぐってオーストリアやプロイセンと対立しつつ、オスマン帝国にも矛先を向けて南下しました。
18世紀初頭から半ばまで続いたオスマン帝国の平和な時代は終わり、そこから約100年にわたるロシアとの衝突が始まります。深井さんは、ある戦闘での兵力差を例に、オスマン帝国の弱さを説明しています。
深井さんによると、オスマン軍はロシア軍の2〜3倍の兵力を持ちながら大敗しました。理由は近代化の遅れで、生産体制も軍の仕組みも違い、もはや騎兵では勝てなかったといいます。
1768年に始まった戦争は、広い意味で露土戦争と呼ばれます。オスマン帝国は大敗し、アゾフ海と黒海沿岸の土地を失い、ロシアはクリミア・ハン国の独立を認めさせて、のちに併合しました。深井さんは、クリミアをめぐる現在のウクライナとロシアの問題にもつながる出来事だと触れています。
楊さんは、このとき結ばれたキュチュク・カイナルジャ条約 ── 1774年にロシアとオスマン帝国のあいだで結ばれた講和条約。黒海への進出など、ロシアに大きな権益を認める内容でしたに、オスマン帝国領内のキリスト教徒の保護に関する取り決めがあったと説明します。ロシアはこれを拡大解釈し、領内の正教徒を保護するという名目で内政干渉するようになりました。
深井さんは、この頃から相手の弱みにつけ込んで領土や利益を奪う帝国主義の時代が始まり、オスマン帝国もその対象になっていったと語っています。
なぜ改革できないのか。長く続く組織に共通する「内的均衡」
ウィーン包囲以来、戦争で負け続けたオスマン帝国は、さすがに軍事改革の必要に迫られます。しかし深井さんによれば、構造で負けている以上は構造改革が必要なのに、当時のオスマン帝国にはそれを実行する指導力がありませんでした。
僕が歴史を勉強してる限りは、およそ長く続いた全ての組織や王朝は分散的に内的均衡してます。だからこそ長く続きます。
深井さんは、一つの独裁権力がずっと続くことは中国皇帝でも起こりえず、権力は分散してバランスしていくと説明します。メフメト二世の時代に強く中央集権化されていたオスマン帝国も、この時期には多くの勢力が均衡し、安定しているがゆえに改革ができない状態でした。
楊さんは、バランスしている勢力それぞれが長い時間のなかで重くなり、既得権益として簡単には崩せない構造になっていると補足します。深井さんは、長く続いたバランスを崩すこと自体が「悪」と感じられるようになると話します。
だってひいおじいさんの時代から家にこんな権力をもらってるのに、なぜそれを崩すんだってナチュラルになるよね。
樋口さんも、激動の中で自分たちが獲得した権力ならともかく、生まれる前からある権力を手放すのは感覚的に難しいと共感します。深井さんは、当たり前を否定するには大きなエネルギーがいると続けます。
深井さんによれば、内的均衡が崩れるには、組織の中での新しい勢力の台頭が必要です。フランス革命がブルジョワジーの成長まで起こらなかったこと、イギリスの議会政治や日本の明治維新も同じで、トルコ共和国の誕生も同じ構図だと語られています。
セリム3世の改革とニザーム=ジェディード、イェニチェリの抵抗
危機意識を高めたオスマン政府は、ロシアとの戦争に負けたあと、フランス人の顧問を招いて新しい砲兵隊を作ります。しかし、それでも勝てませんでした。
後付けなんですよ。今の構造にモジュールとしてつけてるだけじゃ変わらないっていう現象が起こってんだよね。
1789年に即位したスルタンのセリム3世は、この状況を本気で危ぶみます。セリム3世は、ヨーロッパでは政治・経済・軍事が相乗効果を持って機能していると考え、それを見習おうとしました。
深井さんは、1789年がフランス革命の年でもあり、ヨーロッパ自身も多くの問題を抱えていたと指摘します。それでも、ロシアに負けたオスマン帝国から見れば、ロシアが手本にするフランスやイギリスはうまくいっているように見えたといいます。
セリム3世は即位後すぐに、高官や高位のウラマー ── イスラーム法などを修めたイスラーム世界の学者・指導者層。宗教や法の面で社会に大きな影響力を持ちましたを集めて諮問会議を開き、改革論を出させました。外国に大使館を置いて情報を集め、ヨーロッパ式の訓練を施した新しい軍団ニザーム=ジェディードを作ります。
ニザーム=ジェディードは農民を採用し、フランス軍人の指導で訓練を受け、制服や武器も近代化されていました。深井さんによれば、ニザーム=ジェディードはエジプトなどでナポレオン軍と戦って勝つほどの成果を上げています。
だけどこれ(ニザーム=ジェディード)をイエニチェリが潰すんですよ。
イェニチェリ ── オスマン帝国のスルタン直属の常備歩兵軍団。キリスト教徒の少年を徴用し、ムスリムに改宗させて育成したのが始まりとされますは、もともとキリスト教徒の奴隷をムスリムに改宗させ、皇帝直属の軍隊にした集団でした。名前は「新しい軍団」を意味しますが、この頃には既得権益層になっていたと深井さんは説明します。
妻帯が禁止され世襲はなく、兵舎で集団生活を送る皇帝直属の軍団
世襲制になり都市に住むのが一般化し、武力でスルタンを脅してボーナスを要求する既得権益層
樋口さんが「腐敗している」と反応すると、深井さんはイェニチェリ自身は腐敗しているとは思っていないと答えます。イェニチェリには家族がいて、子や孫にも同じ生活をさせたいと思えば、既得権益を広げるしかないという見方です。
ニザーム=ジェディードの登場で権益が脅かされると感じたイェニチェリは、ニザーム=ジェディードを潰しにかかります。セリム3世も改革を続ける難しさを感じ、秩序を優先してニザーム=ジェディードを解散させ、改革は失敗に終わりました。
内部のストーリーだけで話している組織は危ない
深井さんは、セリム3世の改革の失敗を「イェニチェリが悪い」という単純な話にしないよう強調します。イェニチェリにはイェニチェリのストーリーと正義があり、それぞれの正義がバランスしているのが内部均衡だといいます。
一方で外部には、そうした内部のストーリーを完全に無視した勢力が台頭していました。深井さんは、これが人類によくある現象だと話します。
深井さんは、外部のストーリーを取り込んだ内部のストーリーを作れないことは滅びる兆候であり、外部を感じずに内部の利害調整だけで成り立つのは鎖国のような状態のときだけだと続けます。樋口さんは、適切に外圧を感じないと危険かもしれないと受け、リスナーにも「これ、あなたのことじゃないと思ってます?」と問いかけています。
アレムダルの挫折と、目先の勝利で全体に負ける人類
セリム3世の改革が失敗したあと、大宰相のアレムダルは、やはりニザーム=ジェディードのような軍団が必要だと考え、新セクバン軍を作ります。しかしイェニチェリはアレムダルを追い込み、自殺させてしまいました。
深井さんは、イェニチェリがこの時点でも国の根幹を握っていたと説明します。そのうえで、イェニチェリの抵抗がオスマン帝国を弱くし、結果としてイェニチェリ自身も弱くなったと指摘します。
目の前の試合に勝ってるけど、全体の勝負に実は負けてる。
深井さんは、短期目線になりすぎるとこうなると応じ、各チーム、株式会社、行政、国、そして人類全体でも同じことが起きていると話します。この性質をメタ認知し、理性で抑えることが大事なのだろうという見方で、深井さんはこれをホッブズが指摘した万人の闘争の根幹だと結びつけています。
わかっていてもやってしまう?「わかる」の定義をめぐる議論
終盤では、この構造を人はわかっているのかどうかをめぐって、樋口さんと深井さんの議論になります。深井さんは、理屈を説明されれば誰もが納得するものの、構造として理解している人は少なく、善悪のストーリーで理解している人のほうが多いと考えています。
樋口さんは、野球部の中でキャッチャーとピッチャーが揉めていたら他のチームに打たれるという話なら誰でもわかるはずだと反論します。深井さんは、人間にとって理屈の優先順位はそれほど高くなく、その瞬間の感情や別の事柄が優先されると答えます。
最後自分の首を絞めることが確定していることをやるってことですから。そのわかってないっていうことだと思ってるんですよね。
樋口さんは、頭ではわかっていても自分には当てはまらないと思っていたり、つい忘れてやってしまったりする感覚だと話し、二人は「わかる」という言葉の定義が違うだけで同じことを言っていると合意します。深井さん自身も、これだけ勉強していても同じことをやっていると笑います。
樋口さんが「切ない」と漏らすと、深井さんは、夢や希望、愛や勇気、正義も同じ性質から生まれているはずで、悪いことばかりではないと語ります。こうして阻まれ続けるオスマン帝国の改革がこの先どうなるのか、という引きで第2回は終わります。
このシリーズの次のエピソードはこちら
まとめ
ケマル・アタテュルク編第2回では、最盛期のオスマン帝国が火砲の発達と大航海時代に取り残され、長く続いた内的均衡ゆえに改革を実行できなくなる過程が語られました。深井さんは、この構造が現代の企業や国家、人類全体にも繰り返し現れると指摘しています。
- スレイマン大帝のウィーン包囲の失敗は後世から見れば分水嶺だったが、当時のオスマン帝国はまだ強いと認識されていた
- 火砲の発達は周辺技術や軍の統制まで引っ張り、騎兵を強みとしたオスマン帝国は徴税を含む全体の変革を迫られた
- キョプリュリュ改革やチューリップ時代の改善は、昔の栄光を取り戻す発想や後付けの導入にとどまった
- セリム3世のニザーム=ジェディードは成果を上げたが、既得権益層となったイェニチェリに潰された
- 内部のストーリーだけで利害調整を続けると、外部の変化に負けて自分たちも弱くなる







