空海の大先輩・最澄はどんな人物か
最澄と空海編のこれまでの回では、主に空海の話が中心でした。今回の第7回からは、いよいよ最澄に焦点が移ります。
深井さんによると、最澄は空海より7つ年上の先輩です。仏教方面で活躍し始めた時期も、最澄のほうが圧倒的に早いといいます。
(最澄は)先輩で、仏教方面での活躍も圧倒的に最澄の(ほうが)早いですよね。
深井さんが語る最澄の人物像は、真面目で堅実、ロジックを積み上げて行動するタイプです。律令制度のもとでの国家仏教の役割を、最高に引き出していった人物だと深井さんは評価しています。
堅実、真面目で、ロジックでちゃんと積み上げて行動するみたいなタイプの人だなっていう印象が僕はあるんですけど。
最澄も空海と同じく、僧侶は国家公務員という時代の人です。最澄は15歳ぐらいで正規の僧侶になっています。
最澄の出自については、先祖が渡来系だとする説があります。楊さんによると、父の名前は三津首百枝で、漢王室の劉氏、つまり劉邦や劉備と同じ劉の血を引くのではないかという説もあるそうです。
最澄の父は仏教への信心が深く、滋賀にあった小さな国の、今でいう副知事ぐらいの立場だったといいます。そこそこ良い家の生まれという点は、空海とあまり変わらないと語られています。
19歳の最澄が山中で立てた「悲痛な誓い」とは
最澄は15歳で僧侶になり、19歳で具足戒 ── 正式な僧侶として守るべき戒律を授かる儀式。これを受けることで一人前の僧として認められるを受けます。深井さんは、具足戒をライセンスをもらうようなものだと説明しています。
ところが最澄は、国家公務員の僧侶として働き始めるはずのタイミングで、具足戒を受けた3か月後に山へ入ります。都の仏教というエリートコースを捨てて、猿やキツネ、イノシシ、タヌキと一緒に山にこもる山岳仏教を選んだわけです。
みんな(山に)引きこもりたいのかな。
樋口さんの地元を引き合いに、楊さんは最澄の選択を「霞ヶ関を捨てて田川に来るみたいな」ものだとたとえます。深井さんも、みんながなぜそこへ行ったのかと思うような選択だったと応じています。
最澄が山を選んだ理由には、いくつかの説があります。楊さんが紹介する説の1つは、天台宗の修行マニュアルがすでに中国で成立していて、その中で修行の場所が指定されていたというものです。
天台宗の修行マニュアルでは、静かな場所、深い山や人里離れた場所が求められ、人が集まる場所から最低1.5キロは離れること、世間との交際や仕事から離れることなどが定められていたといいます。最澄はこのマニュアルを読んだうえで山にこもったのではないか、という説です。
もう1つの理由として深井さんが挙げるのは、南都六宗 ── 奈良時代に都の大寺院を中心に栄えた6つの仏教の学派。三論・成実・法相・倶舎・華厳・律の総称と呼ばれる奈良仏教への嫌悪感です。既存の仏教の腐敗に嫌気が差して別の道を選ぶ点は、空海とも共通しているといいます。
深井さんが特に立派だと語るのは、最澄が19歳の時点ですでに、一般の人々である衆生を救いたいという強い思いを持っていたらしいことです。最澄は山の中で、深井さんいわく「悲痛な」誓いを立てています。
最澄の誓いの中身は、仏のように清らかになるまでは世間に出ない、仏教の理をはっきり悟るまでは世俗の学芸に関わらない、といったものでした。深井さんはこれを「セミナーを開かないということ」とかみ砕き、中途半端な状態で世に出ないという意味だと説明しています。
この身で受ける苦毒を自分で独り占めにすることはなく、あまねく心ある者に施してこの上ない幸せを授けたい。これ19歳。
すげえな。何を食ってこんな良い人間に。
だって19とかもうモテたくてしょうがない時期ですよね、今やったら。大学入ってウェーイみたいな。
楊さんは、最澄の誓いに鑑真 ── 唐から日本に渡った高僧。何度も渡航に失敗しながら来日し、日本に正式な戒律を伝えたとの共通点を見ています。鑑真の来日の動機を調べた際、戒律の中に「教えを広めることを惜しんではならず、惜しめば罪になる」という決まりがあったといい、最澄もその影響を受けたのかもしれないと話しています。
なぜ最澄はあえて「古い」天台仏教を選んだのか
深井さんによると、19歳の最澄にはまだ比叡山を天台仏教の根拠地にするほどの壮大な計画はなかったようです。最澄はただ、悟りを開くまでは世間に出ないと決め、絶対に悟ってやろうと山で勉強を続けていました。
最澄は山での勉強の中で、天台仏教こそが最も優れた仏教だと感じたのではないかと深井さんは見ています。ただし当時の天台仏教は最新ではなく、最新は密教でした。天台仏教はむしろ時代遅れと思われていたといいます。
深井さんは最澄の選択を、今でいえば最先端のものを選ばず、少し古くても自分がめちゃくちゃいいと思ったものを自分の意思で選んで学ぶ姿にたとえています。考え抜いた末に、純粋にそう思ったのだろうという見方です。
最澄の人生には冬の時代もあり、深井さんは「乱高下している」と表現します。それでも最澄は、つらい時期にも衆生を救うという目的に向かって動き続けた点で、人間として尊敬できると深井さんは語ります。
最澄と空海の違いについて、3人の見立ては一致しています。天才なのは圧倒的に空海で、一方で、普通に立派な人間というイメージは最澄のほうが強いという整理です。
堅実で真面目。苦しみながら、地に足をつけて一歩一歩進む。人生には冬の時代もある
圧倒的な天才。常人が達しない領域に勝手に達し、ヒョーンと飛んでいくカリスマ・スター型
わかるな。なんか地に足ついて一歩一歩進んでいく感じですよね。空海はヒョーンって飛んで。
深井さんは、最澄と空海のどちらを好きかは人によって分かれるだろうと話します。樋口さんも「キャラがあるんですね。いいなその対比も」と、2人の対照的な個性を面白がっています。
比叡山を開いた最澄に、なぜ権力が寄ってきたのか
天台仏教に魅せられた最澄は、比叡山延暦寺を作ろうと思い立ち、22歳で比叡山を開きます。深井さんは、「比叡山を開く」と一言で言っても、実際は相当大変なことだと強調します。
比叡山ってその開く前ってどうなってるんですか?
山だから。ただの山。
比叡山はもともと何もない山でした。ただ、当時の仏教は包括的な学問で工学なども修めていたため、その知識が山を開くのに役立ったと深井さんは説明しています。最澄は最初、本尊の仏像も自分で彫り、そこで修行していたそうです。
最澄が比叡山に着手したのは、平安京の1つ前の都である長岡京の時代でした。その後、たまたまなのか狙ったのかはわからないものの、平安京が比叡山の近くに移ってきます。比叡山は平安京の鬼門 ── 北東の方角のこと。陰陽道で鬼が出入りする不吉な方角とされ、寺社を置いて守りとすることがあったにあたる位置にありました。
純粋に仏道を究めている人物が山にいるという最澄の噂は、都の近さもあって朝廷に届きます。南都六宗の腐敗に嫌気が差していた桓武天皇 ── 平安京へ遷都した天皇。奈良の大寺院勢力と距離を置き、政治の刷新を図ったことで知られるにとって、その対極にいる最澄は強い興味の対象になりました。
その結果、セミナーは開かないと誓っていた最澄も、人から呼ばれるようになり、話をせざるを得なくなります。そうして最澄のファンが増えていったといいます。
楊さんは、最澄が一人で修行していたわけではない点も補足します。最澄は仲間の僧侶を集め、山の下にあったお経を山の上に運んで書き写すなど、独学での活動を広げていました。
学歴のない最澄に箔をつけるための遣唐使
権力者側は、最澄を新しい仏教の潮流、いわばスターにしたいと考えます。ところが最澄には学歴がありませんでした。独学で学び、いきなり山にこもったので、楊さんいわく「箔がない」状態です。
当時のエリート僧侶は、東大寺や興福寺などで学ぶ都市仏教の人たちでした。最澄が彼らと論争しても、学歴がないだけで下に見られてしまう。そこで桓武天皇は、最澄を唐に留学させて箔をつけることを考えたといいます。
山にこもる
エリートコースを捨て、比叡山で純粋に修行する
噂が都に届く
腐敗した奈良仏教に嫌気が差していた桓武天皇が興味を持つ
学歴の壁
都市仏教のエリートと対抗させるには箔が足りない
入唐
桓武天皇の目に留まり、唐への留学が決まる
深井さんによると、このタイミングで遣唐使が久しぶりに再開されます。最澄に箔をつけることが大きな理由だったとも、それだけではなかったとも言われ、本当の理由を記した文章は散逸していてわからないそうです。
深井さんは遣唐使の重みを、今でいえば月に人を送るようなもの、久しぶりにアメリカが宇宙プロジェクトをやるような話だとたとえます。最澄自身にとっても、文化の圧倒的な先進国だった唐の本場で天台を学べるのは、すごく嬉しいことだったはずだといいます。
最澄に命じられたのは1年間の留学でした。そしてこの遣唐使の一団に、なぜか空海が滑り込みます。4隻の船団のうち2人はそれぞれ別の船に乗り、2人の船はたどり着いたものの、残りの2隻は座礁したといいます。
普通に命の危険あるんですよ、ちなみに。だから宇宙と一緒なんです、本当に。
この時点で天皇に認められていたのは最澄だけでした。最澄は中国語やサンスクリットが特別できたわけではなく、天皇の後ろ盾のおかげで通訳の弟子の同行も許されています。一方、空海の留学期間は20年でした。
最澄の留学が1年と短かった理由について、深井さんは、すぐ戻ってきて役に立ってほしいからだと説明します。20年後に来られても桓武天皇も困るというわけです。
本場の天台を学んだ最澄が、帰国後に密教で頼られたのはなぜか
最澄は無事、明州とみられる地にたどり着き、天台の本山ともいえる天台山国清寺 ── 中国・浙江省の天台山にある寺院。天台宗の開祖・智顗ゆかりの地で、天台宗の根本道場とされるで天台宗をしっかりと学びます。
最澄は唐で、当時の流行だった密教も少しだけ学んでいます。深井さんによると、密教の強みは呪力・呪術を使えることで、最澄も密教のニーズを薄々感じていたため、最新のものも少しかじっておこうとしたようです。
1年間の留学を終えて最澄が帰国すると、取り立ててくれた桓武天皇が死にかけていました。病気を呪力で治す時代だったので、最澄は「よくぞ帰ってきてくれた」と呼ばれ、霊力で治してほしいと頼られます。
病を治すという要素は密教のほうに濃くあります。そのため最澄は、天台をしっかり学んで帰ってきたにもかかわらず、ちょっとだけ学んだ密教のニーズに応えることになります。密教の儀式を行い、日本の僧侶たちに密教の教えを授けたことで、最澄の地位はめちゃくちゃ上がったといいます。
深井さんは最澄のこの動きを「起業家っぽい」と表現します。自分の教えこそが衆生を救うと考える最澄にとって、教えを広めるためのスポンサーをしっかりつけられる状況は、すごく都合がよかったという見方です。
ちょっとエバンジェリストみたいなね。
深井さんが面白いと話すのは、このあと空海が本場の密教を本格的に学んで帰ってくることです。日本に最初に密教を持ってきたのは最澄でも、本格的な密教は空海だという整理になります。
20年の予定を無視して2年で帰国した空海は、最澄が学んできた密教は大したことがないとわかるような文章を朝廷に送ります。ただしそれは後の話で、この時点では最澄が密教を学んできたと受け止められ、国家を守り天皇の病を癒やしてほしいという願いが託されました。
天台宗が南都六宗と並んだ日
深井さんは、最澄が地位を上げようとしたのは自分のためではなく、衆生を救うためだったと念を押します。最澄は、腐敗した都市仏教への対抗勢力を作ろうとしていました。
そして最澄にとって大きな出来事が起こります。天台宗に、年間2人の得度が認められたのです。僧侶は国家公務員で定員があり、国が認めない限り勝手に僧侶にはなれない時代でした。
年間2人の得度が認められたということは、天台宗が南都六宗と並ぶ公認の宗派になったということです。深井さんはこれを、六宗が七宗になったようなものだと説明しています。
一宗派として公認されたんです。お墨付きもらったんや。
長い歴史を持つ6つの宗派の中に、比較的若い天台宗を一気に加えたことについて、樋口さんは「政治力って言っていいのかな」と問いかけます。深井さんは、最澄も空海も純粋でありながら政治力もある人物だったと答えています。
政治力あると思いますよ。2人ともあるんですよ。
次回は再び空海の側に話が移り、空海がなぜ同じ遣唐使の船団に加わることができたのかが語られる予定です。
まとめ
最澄は、エリートコースを捨てて山にこもり、衆生を救うために悟りを目指した堅実な僧侶でした。その純粋さが桓武天皇の目に留まり、入唐、帰国後の密教への対応を経て、天台宗は南都六宗と並ぶ公認の宗派になります。純粋さと政治センスの両方が、仏教を広める力になったことがうかがえます。
- 最澄は空海より7つ年上の先輩で、真面目で堅実、ロジックを積み上げるタイプとして語られている
- 19歳で山にこもった最澄は、悟るまで世に出ず、得たものを独り占めしないという衆生救済の誓いを立てた
- 比叡山で修行する最澄に桓武天皇が注目し、学歴がない最澄に箔をつけるため唐への留学が決まった
- 帰国後、最澄は病の桓武天皇に応えて少しだけ学んだ密教を活かし、日本に最初に密教を持ち込んだ人物になった
- 天台宗に年間2人の得度が認められ、南都六宗と並ぶ一宗派としてお墨付きを得た





