項羽が選んだのは皇帝ではなく「西楚覇王」
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項羽は漢陽を落として秦を滅ぼした後、楚に戻り、いよいよ項羽主導の新国家体制の構築に入ります。今回のエピソードは、その統治フェーズの話です。
項羽はまず、楚の懐王を義帝という皇帝格に格上げし、都を彭城に置きます。自分は皇帝の立場を取らず、あくまで傀儡の皇帝を立てる形にしました。
項羽自身は皇帝にならず、自分の意思で王になります。そのうえで他にもたくさんの王を用意したため、この体制は封建制でした。
これ統治フェーズに行くわけやな、ここから。
項羽が自分の国につけた名は西楚。西の楚と書く国で、彼は「西楚覇王」と名乗ったと史記では伝わっています。
中二病みたいな名前、西楚覇王って名乗るんですけどね。
この西楚覇王は他の王より一段上の立場ですが、皇帝制ではありません。義帝がいることで、名目上の序列はやや複雑な状態になっています。
7つの国が18に増えた分封のからくり
項羽は旧秦の領土を4つに分け、そのうち雍という国を秦の将軍だった章邯に与えます。この分割の意図について、樋口さんは勢力を分裂させて弱めるためかと問います。
もっとちっちゃく分けて弱くしたっていうのもあると思うし、あとやっぱり功労者がたくさんいて、みんなを表彰しないといけないから、多分これでも足んなかったんだと思う。
一緒に戦った者が多くいる以上、彼らに領地を与えなければ自分の権威が保てない事情もありました。細かく分けたのは、弱体化と論功行賞の両面の理由があったと考えられます。
結果として、秦は4つ、魏は2つ、韓は2つ、趙は2つ、燕は2つ、斉は3つ、楚は4つに分けられ、あわせて18の国ができました。戦国七雄が一度秦に統一され、その次に18国へと細分化されたことになります。
七つから一つになったのが、その次十八個になっちゃった。
王18人のうち旧王族はわずか6人
楊さんによれば、18人の王のうち旧王族は6人しかいませんでした。残りは平民出身の部下や、元秦の官僚などで、その数はおよそ12人にのぼります。
深井さんは、封建制の立場を取りながらも、旧七国という体制は実質的にほぼ崩壊していたと指摘します。王公貴族の多くがこれまでの戦争で亡くなり、新しい勢力が台頭していたためです。
項羽自身も、旧六国の王権の世襲の正統性を基本的に認めませんでした。旧王族が王に立てられたのは、秦を討つための一時的な措置にすぎないという考え方です。
旧王族が王に立てられたのは秦を討つためという一時的な措置であり、秦の正統ではないという風に言っちゃって、元王族の王は世襲的な正統性は俺認めんからっていうスタンスなんですよね。
項羽が立てたのは、あくまで軍功による王でした。血筋ではなく戦功で王位を配るという発想です。
「覇王」という名は後世の脚色か
深井さんは、西楚覇王という名を項羽が自称したと史記では伝わるものの、そんな自称をするはずがないと指摘する学者もいると紹介します。
覇王の「覇道」という語には、儒教社会の文脈で否定的なニュアンスがあります。徳を使わず武力だけで制覇するという意味を含み、王道より一段下に置かれる位置づけです。
そういうニュアンスを漢ができた後に名付けたんじゃないかっていうふうに言われてる。
実際には項羽は楚の大王のような名を用いていたのではないか、という指摘もあります。深井さんはこれを一つの説として紹介しています。
中央集権から封建制への「逆戻り」がなぜ大問題なのか
18人の諸侯は項羽のもとで王に封ぜられました。封ぜられるということは封建制であるということで、諸侯が国を世襲的に領有し、それを通じて項羽が間接的に支配する制度へ逆戻りしたことになります。
面白いですね。一回中央集権になったのに。
深井さんは、この逆戻りこそが大問題だったと言います。外的環境も内的環境も変わってしまっており、そもそも逆戻りなど実際にはできなかったからです。
項羽のビジョンの中では古い楚を取り戻す感覚だったと考えられますが、世界はすでに変わっており、古い楚を取り戻すような状況ではなくなっていました。これが後に彼にマイナスとして効いてきます。
「漢」という国名が僻地から生まれた理由
重要な点として、劉邦が漢という国を任せられます。漢字の漢であり、後の漢王朝の名はここから来ています。
ついに出てきたね。
この漢は旧秦王朝の南半分ほどにあたる土地ですが、大部分が僻地でした。項羽は黄門の会で劉邦に敵意がないと認めたものの、後々やはり危険だと感じ、向かってこられないように僻地を任せたと深井さんは見ます。
中国王朝では、皇帝になる直前に支配していた土地の名を王朝名にするのが、この後の慣習になります。宋や唐もそうした例で、漢はその最初の例にあたります。
楚の出身なのにさ、みたいなのはあるんですけど、実はこういう理由で漢っていう名前になるんですよ。
約束と牽制が絡んだ劉邦の領地決定
漢が秦の旧領だったことには、義帝が絡んでいます。義帝は諸侯を封建する際、最初に関中へ入った者をその土地の王にするという当初の約束を守るよう項羽に求めました。
項羽はこれを嫌がっていましたが、劉邦を極端な僻地には飛ばしませんでした。約束を守れと義帝が言ってくることが理由の一つで、義帝としても自分の約束を反故にはしたくなかったのです。
誰も本当に話聞いてくんなくなっちゃうから、それ言ったら。
楊さんは、これが項羽への牽制の意味も持っていたと補足します。巨鹿の戦いの後、項羽は義帝に自分の功を報告し、学者によっては約束を変えてほしい意図があったのではないかと言われています。
その時の夏王の反応としては、いや、約束はそのまま末置きでっていう風に答えたらしいんですよね。
義帝の立場は小さいながらも、約束を盾に項羽に抵抗するものでした。楊さんは、これが後々の悲劇につながっていくと述べています。
項羽が敵視した相手を追いやったはずが裏目に
深井さんによれば、本当に義帝の約束通りにすれば、劉邦にはもう少しよい漢中という土地が与えられるはずでした。しかし項羽は理屈をつけ、より僻地の漢へ劉邦を追いやります。
褒賞を与える時は許したものの、だいぶ敵対視してる状態。
ところが、この僻地に飛ばされたことが、後に劉邦にとってプラスに働きます。漢は戦地から遠く、最も荒廃していなかったためです。
他の土地の多くは戦場となって疲弊していましたが、漢は田舎ゆえに戦火をほとんど受けず、食料や兵員の供給力が高く残っていました。追いやったつもりが裏目に出た形です。
戦地から遠い僻地・流刑地として項羽が劉邦を追いやった土地
戦火を受けず疲弊しておらず、食料・兵員の供給力が最も高い再起の拠点
なぜ楚王ではなく項羽自身の名で封建したのか
本来なら楚の義帝が諸侯を封建するのが普通ですが、実際には項羽が覇王として号令し、義帝にも項羽が領地を与えていました。深井さんはこれを、天皇と将軍のような実力者と名目上の存在の関係にたとえます。
この分封は旧七カ国の枠組みを意識しつつ、それをさらに細分化したものでした。背景には、楚がなぜ盟主として封建の主体になれるのか、という納得感の問題があります。
楚は盟主だけど、何でお前に封建されないといけないんだよみたいな。
楚はかつて戦った国の一つにすぎず、中華ではない野蛮な国とも見なされていました。楚のブランドで他国を封建するのは難しいと項羽も感じていたと考えられます。
そこで項羽は、楚の代わりに自分が実力者として封建する道を選びます。楚じゃなく、もう自分が封建するという発想です。
楚の分権的な国のかたちを天下に広げた項羽
項羽の作った体制が細分化されていた理由の一つは、楚という国の性質にあります。楚はもともと分権性が非常に高く、統一性が最も弱い地域でした。
楚はもともといろんな民族というか、いろんな人種の人を集まっていたっていう話がありますよね。
楚は少しずつ領地を広げていった経緯があり、最も古い体制が残って封建性が強い国でした。国力はあっても中央集権が最も進んでいなかったのが楚の実態です。
項羽はこの楚のかたちを天下全体に当てはめました。直轄支配が行き渡らない地域が多くても、彼にとってはそれが自然でした。子供の頃に暮らした国の体制を、そのまま広げたことになります。
元々封建っぽい作りをしてたから、今も変わんないよねっていう。
都は彭城、現在の江蘇省徐州市あたりに定められました。項羽の故郷から100キロメートルと離れておらず、地元を首都にして自分の国を作った形です。
楚のシステムを復活させた項羽の国家運営
項羽は楚の暦を復活させ、秦の暦に戻っていたものを楚の暦へ戻します。中央には上柱国、令尹、大司馬といった官名を作り、楚の国家システムを蘇らせました。
地方制度は詳しくわかっていませんが、王国の中心部は郡県制、直轄地でない部分は封建制という二本立てのシステムだったと学者から推察されています。細かな記録は残っていません。
一方の劉邦は、漢へ行けと命じられます。項羽は3万人の兵をつけ、さらに自らの意思で従った者が数万人いたとされます。10万いた軍勢の多くを取られ、5万ほどが残った計算です。
桟道を焼いて示した「もう戻らない」という意思
漢陽から200キロメートル離れた秦嶺山脈を越えると、劉邦が任命された土地に近づきます。この山脈は3767メートルの太白山などが連なり、屏風のように立ちはだかる険しい山脈でした。
山の斜面には、垂直の岩壁に穴を開けて丸太を通し、その上に木の板をかけて作った桟道が通っていました。劉邦の一行はこの道を越えた後、これを焼き落とします。
これはどういう意図だったかっていうと、敵も来にくくなるっていうのもあるんですけど、やっぱり項羽にもう僕たちはこれ以降、あなた方の方向に来ませんよという意思を示すため。
もう一つの狙いは、脱走兵を防ぐことでした。劉邦に従う多くは楚の人で、戦乱が終わったなら故郷に帰りたいと願っていたため、脱走兵が多く出ていたのです。
行ったこともね、すんげえ訳分かんないところに飛ばされたから、なんか嫌なんですよ。帰りたいんですよ、みんな。
桟道を焼くことで戻れなくし、脱走を止める。これは張良の策だったとされています。
流刑地・漢が劉邦の再起の拠点になる
楊さんは、この地に封じられることは劉邦にとってリスクを抱えることでもあったと言います。一方で、根拠地を得て後に再起できる側面もありました。閉じこもれる土地だったからです。
漢はもともと秦の時代の流刑地で、犯罪者を流す場所でした。それほどの僻地だったわけです。
人の手が全く入ってないわけじゃないけど、他のところに比べたら荒新地域っていう位置づけですね。
評判最悪の配分が再び戦国時代を呼び戻す
項羽の分封、つまり土地配分はきわめて評判が悪く、配分直後に各地で反乱が起こります。
封建されなかった人が他の王様を殺して自分が王と名乗ったり、あるいはそのすでに封建された王様が他の王様を殺したりとかして、戦国時代再開っていう状況になる。
自分に近い者をよい土地に、身分のよい者を悪い土地に封建するといった配分が、大きな反感を招きました。劉邦も、脱走兵が出るような流刑地に飛ばされ、当然満足していません。
深井さんは、うまい配分はできたはずだと言います。しかし項羽にはその才能がなく、誰にどこを与えるかを考えるブレーンの話も聞かず、本人がそもそも興味を持っていなかったのではないかと見ます。
戦争は強いのに配分ができない項羽の弱点
楊さんは、項羽が自分こそ最も軍功を立てたと思ってしまい、人の功に報いる行動がなかなかできなかったという説を挙げます。
深井さんは、これを人間としては理解できるがトップとしては不十分だと評します。自分の功績をメンバーの功績より強くアピールしたいエゴが、配分をゆがめたという見方です。
国がよく治まれば、自分がどう評価されようと本当はどうだっていいんだけど、そこが自分が評価されないとやっぱり気になってしょうがないっていう。
楊さんは、病気の部下を涙を流しながら見舞う一方で、領土を分ける段になると項羽はひどく逡巡したという描写を紹介します。情に厚い面と、報酬の分配ができない面が同居していたわけです。
病気の部下のもとへ見舞いに行き、涙を流しながらいたわる
領土やボーナスを分ける段になると逡巡し、人の功に十分報いられない
成功体験しかない項羽と「挫折を知る」ということ
楊さんは、この時点の項羽が挫折を経験する機会を持たず、成功体験しか積んでこなかったと指摘します。樋口さんは、この話に耳が痛い人が多いだろうと反応します。
挫折がないために、項羽は自分が誰に支えられてこの地位に至ったのかという間接的な因果をうまく理解できませんでした。自分の力だけで成し遂げたと思い込んでいたのです。
范増のような助言者はまだいましたが、その話を項羽は聞き入れません。楊さんは、項羽が范増をうるさい老人程度にしか思っていなかったかもしれないと述べます。
不満は必ず出る、問題はその後のリアクション
深井さんは、天下を取った後の項羽の処置が不満続出で誰も従わなかった点に注目します。説得の仕方も、配分の変え方も、工夫の余地はあったはずだと言います。
どんな組織でも不満は必ず出るものです。問題は不満そのものではなく、不満が出たときのリアクションをどう吸収するかが何も考えられていなかったことだと深井さんは指摘します。
不満が持ったら独立しちゃうとか、不満を持ったら勝手に動いちゃうみたいなことに対して、何も想定されず何も措置が打たれてないっていう感じなんだよね、見てると。
結果として諸侯は怒るべくして怒り、離反していきます。離反が起これば武力で潰すしかなくなりますが、項羽は自分の国を細かく分けてしまっており、対応の幅を自ら狭めていました。
楊さんは、項羽が不満が出ても武力で潰せばよいと考えていた可能性を挙げます。武力による成功体験から、武力があれば解決できるという認知を獲得してしまっていたためです。
次回に登場する最大のライバル・韓信
不満が噴き出し、諸侯が勝手に動き始める中で、項羽の最大のライバルが現れます。それが劉邦の側についた武将、韓信です。
韓信はもともと項羽についていましたが、項羽はその才能を見抜けず登用できませんでした。彼を大抜擢するのが、この後の劉邦です。
項羽はね、多分人生で初めて、多分最初で最後、自分よりも圧倒的に強い人とまみえてしまって、ボコボコにされて退場するんですよね。
項羽は自分が最強だと思い込んでいたため、自分より強い者がいるという当たり前の想定ができていませんでした。深井さんは、一度収まったはずの天下がなぜ再び戦いへ向かうのか、韓信がどのように劉邦につくのかが次回のテーマだと締めくくります。
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まとめ
秦を滅ぼした項羽は、皇帝ではなく西楚覇王として天下を18の国に分け直しますが、その配分は不満と反乱を招き、再び戦乱を呼び込みます。楚の分権的なかたちを天下に広げた発想と、成功体験しか持たなかった項羽の弱点が、次回登場する韓信との戦いへつながっていきます。
- 項羽は皇帝にならず義帝を立て、自らは西楚覇王として18カ国を封建する体制を作った
- 18人の王のうち旧王族は6人にとどまり、旧七国体制は実質的に崩壊していた
- 劉邦が任された漢は僻地だったが、戦火を受けず疲弊していなかったため後に再起の拠点となった
- 項羽の配分は評判が悪く、直後に各地で反乱が起き、戦国時代のような状況が再開した
- 成功体験しか持たない項羽は人の功に報いられず、次回登場する韓信という強敵を迎えることになる







