王権が強まると、障害は法律で定義され始めた
前回までの障害の歴史編では、宗教が障害を罰や救済のロジックで説明していた様子が語られました。今回はその宗教ロジックが、啓蒙主義 ── 17〜18世紀のヨーロッパで広がった思想運動。人間の理性を重んじ、宗教的権威や迷信を批判して、合理的な社会や知識のあり方を目指しましたの時代にどう変わっていくかがテーマです。
深井さんによると、1517年に宗教改革が始まって以降、キリスト教会が持っていた力の一部を王様が取っていく現象が起こります。この王権の強化によって、障害者の再定義が法律を使ってなされるようになりました。
まあ法律を使ったかどうか、あんまり重要じゃないんだけど、その再定義されるってことが重要ですね。
法律の中では「白痴」と「狂人」という2つの概念が定義されていきます。深井さんは、白痴は現在では放送禁止用語にあたるとしたうえで、歴史の正確性を期すために文献にある言葉をそのまま使うと断っています。
白痴はギリシャ語の「イディオテス」に由来し、もとは「教養のある人々が行う行為に無知な人」という意味だったそうです。16世紀のイングランドの法律家ヘンリー・スウィンバーンは、白痴を「法的な年齢に達したにもかかわらず知恵がなく、20まで数字を数えられず、何歳かを言えず、父親が誰かわからない者」と定義しました。
一方の狂人は一時的な状態を指し、治る可能性のある、精神がはっきりしない状態の人とされました。楊さんは、今でいう知的障害や精神障害がこれらのカテゴリーに入ると考えられている一方で、当時の区分はかなり曖昧だったと補足します。
その白痴とか狂人の中にも、今でいうと他のカテゴリーの、例えば不良だったり犯罪者とかですね、孤児とかも、あと浮浪者とかもですね、そういったものもなんか入っていたっていう風に考えられてて。
財産は国王へ、刑罰は免除へ。法律が決めた障害者の扱い
法律による定義は、障害者の権利にも直接かかわりました。深井さんによると、白痴や狂人とされた人の財産の所有権は国王が奪い、いったん君主のもとに移る仕組みがあったといいます。
所有権っていうのが、まあ君主、国王ですよね、に渡っていってしまうと。正気に戻ったら戻すけどねみたいな感じで、法律の中でこのようなことが決められていくと。
戻してたのかな。
(財産を)戻してない可能性が高そうだけどね。
一方で、13世紀半ばごろからは、障害のある人の刑事訴追を免除する動きもあったそうです。理性的な行いができないとされたことに加え、キリスト教の「障害そのものが罰である」という考えが残っていたため、すでに罰を受けているのだからこれ以上訴追しなくてよい、という発想があったと深井さんは説明します。
王権の時代に移っても、宗教ロジックは消えたわけではありませんでした。法律の中で障害という現象が特定されていく過程には、宗教的な考え方と法的な定義が重なり合っていたことがうかがえます。
資本主義の勃興で、障害は「工場で働けないこと」になった
法律による定義とほぼ同じ時期に、まったく別の流れとして資本主義の勃興が起こります。楊さんは、社会が変わると人間に対する評価基準も変わると指摘します。
楊さんによると、資本主義の時代には、工場で単純労働をするスキルや字が読めるスキルが強く重視されるようになりました。生産する能力という評価軸はそれ以前からあったものの、この時代にはそれが工場労働などに集約され、基準に当てはまらない人は価値が低いとみなされていきます。
深井さんは、この構造が現代の発達障害の捉え方と重なると話します。
これすごく僕はなんか繰り返してるなと思ってて。今の発達障害全く同じ流れですよね。
教室でじっとできないとか、会社勤めができないみたいなのを全部適応障害、発達障害みたいになっていくみたいなのは結構似てる。
深井さんの見立てでは、社会の中で「当然やるべきこと」や理想像が新しく形成されると、その理想像にかなわない人たちが障害として認定されていきます。資本主義の勃興期にも、この現象が起きていたということです。
「労働は信仰の証」。宗教改革が働けない人への目を厳しくした
楊さんは、宗教もこの流れをさらにブーストしたと説明します。宗教改革、とくにプロテスタント ── 16世紀の宗教改革でカトリック教会から分かれたキリスト教の諸派の総称。ルターやカルヴァンらの思想を源流とし、勤勉な職業労働を重んじる考え方が広まりましたの側から、労働とは信仰の証であり、救済につながるという考えが出てきました。
じゃあ労働ができない人は何なのか。彼らはいわば怠惰な人なんだっていう風な烙印を押されるわけですよね。
働けない人は怠惰で劣等な、道徳の欠如した人間とみなされ、治すための強制労働が必要だという流れにつながっていきました。深井さんは、もともと生活とイコールだった「働く」という行為が、生活とは別の、信仰と密接につながった行為として認知されるようになったと補足します。
資本主義の勃興
工場の単純労働や読み書きが評価基準の中心になる
労働観の変化
宗教改革によって、労働が信仰の証とされる
二重のネガティブ評価
工場労働に適応できない人が、宗教的にも価値が低いとみなされる
強制と差別
怠惰で道徳に欠ける人として、治すための強制の対象になる
楊さんは、工場労働に貢献できないことと、労働を重視する価値観に合わないことの2つのネガティブ評価が重なったとまとめます。深井さんは、この感覚も現代とあまり変わらないのではないかと話しています。
その生産性が低いというか、働けない人間って倫理に劣る感覚あるじゃないですか。
ちょっと甘えてるよねとかね。
ただし深井さんは、それがいいか悪いかをこの段階で論じているわけではなく、アナロジーとして現象が近いと考えている、と断っています。
都市にあふれた貧民と、施設への隔離
16世紀以降のイギリスでは、大量の貧民が生まれます。深井さんによると、田舎の領主が羊毛生産にシフトしたことで農地が不要になり、そこで働いていた小作人が放出され、仕事を求めて都市に移動したといいます。
もともと貧民を受け入れていたのはカトリックの修道院でしたが、宗教改革によって修道院は解体されていました。受け皿がないまま貧民が街にあふれるなかで、その中に精神障害者がたくさんいるという認知が社会問題になり、法律の制定と施設への隔離が進んでいきます。
深井さんによると「私立狂人保護院」のような施設も作られましたが、入れたのはお金持ちだけで、貧しい人は街に留まり工場で重労働をするしかなかったと考えられます。その中で仕事ができない人が出てくると、精神障害者とみなされるようになりました。
施設隔離以前は、農村や宗教コミュニティの中で障害者を包摂していたと深井さんは見ています。農業ができる人は農業をし、できない人も宗教の救済ロジックの中で、差別されながらも包摂されようとしていました。
しかし都市化と核家族化によって地域コミュニティがなくなると、工場労働ができない人をどうするかという問題が生まれ、障害者と認定して施設に送る流れになったといいます。
農村や宗教コミュニティの中で、差別されながらも包摂されていた
都市化と核家族化で受け皿がなくなり、工場労働ができない人は施設に隔離された
「施設」は救済ではなかった
深井さんは、ここでいう施設を今の福祉施設と同じように想像してはいけないと強調します。
全く人間扱いされず、カビの生えたベッドとかに放置されてて、そのまま死んでいくかもみたいな状態。
樋口さんは、施設を救済のイメージで捉えていたと率直に話します。楊さんは、これを救済というよりも、社会を合理的で効率のいいものに作り替える力学として捉えたほうがよいと応じます。
だからちょっとイメージ違ってました。それ(施設)。むしろ救済のイメージと捉えちゃったんですけど。
深井さんによると、社会の生産体制が工場での集団生産になると、それに合わない人は社会の一員とみなされなくなりました。障害者と認定されていない人も朝から晩まで働かされるなか、それができない人は施設に隔離され、人権のない状態に置かれていたといいます。
この隔離は、宗教ロジックの時代よりもさらに社会から切り離された状態だった、というのが深井さんの説明です。
悪魔の仕業から病気へ。ジョージ3世が広めた「誰にでも起こる」という認識
もう1つの大きな変化が、障害の説明が宗教ロジックから病気のロジックへ移ったことです。キリスト教では悪魔の仕業や神との契約違反とされていたものが、産業革命以降の近代化の中で病気とみなされていきました。
深井さんは、これが同シリーズの性の歴史編で扱った同性愛の捉え方とまったく同じ流れだと指摘します。同性愛も、悪魔の仕業から病気へと見方が移っていったからです。
病気のロジックには、悪魔の仕業とは違う点があります。悪魔の仕業は前世か今世で悪いことをした罰という理解でしたが、病気は誰にでも起こりうるものとして認知されるようになりました。
その象徴として深井さんが挙げるのが、1738年から1820年まで生きたイギリスのジョージ3世 ── イギリス国王(在位1760〜1820年)。アメリカ独立戦争の時代の君主で、晩年は精神疾患に苦しみ、王太子が摂政として政務を代行しましたです。この王が精神病の一種だったとされ、精神障害という病気が王様にさえ起こりうるという概念が一般大衆に広がったといいます。
前世か今世での悪い行いに対する罰として受けている
生まれつき、または途中でなるもので、誰にでも、王様にさえ起こりうる
ピネルの「狂人の解放」と、変わらなかった理性による管理
18世紀には、障害者を監禁のように扱うことへの非難も上がってきます。楊さんが紹介するのは、フランスの医学者で精神科医のフィリップ・ピネル ── 18〜19世紀フランスの精神科医。パリの病院で鎖につながれていた患者を解放したと伝えられ、近代精神医学の祖の一人とされますです。
ピネルは、狂人が置かれた劣悪な環境を問題視し、博愛と治療の精神に基づいて、田園での共同生活や清潔な保護施設への移送を主張しました。
ただし楊さんは、これで問題が解決したわけではないと続けます。
結局はその理性が理性じゃないものを拘束して管理するっていう構造は別に変わってないんですよね。
ピネルらが作った施設では、狂人は終日監視され、社会的な道徳規範や細かな生活規則を守ることを強いられていたといいます。
深井さんは、宗教改革以降に宗教への対抗として出てきた理性の概念が重要だと話します。理性をどれだけ駆動できるかが工場で働けるかどうかにもつながり、それができないことが病気とみなされるようになりました。
ストーリー理解の構造としては全く一緒なんだけど、そのロジックが入れ替わっててっていう状態になってるってことですね。
深井さんによれば、やっていることで違うのは隔離の点です。隔離して完全に社会から切り離すやり方は、この時代から始まったといいます。
障害者は教育できる。ダ・ヴィンチ、カルダーノと手話の可能性
理性を駆動させた人たちの中からは、障害者を教育すればどうにかなるのではないかと考える人も出てきます。楊さんは、普遍的な取り組みではないものの、芽として現れてきたと説明します。
たとえばレオナルド・ダ・ヴィンチは、生まれたあとに聴力を失った人が、唇の動きを読む読唇術を習得した事例を観察したそうです。障害のある人も知識を身につけ、コミュニケーションができるのではないかという観察が生まれていきました。
16世紀のイタリアの医師カルダーノ ── ジェロラモ・カルダーノ。16世紀イタリアの医師・数学者で、三次方程式の解法を著書で公表したことでも知られますは、手話を使うことで耳の聞こえない人のコミュニケーションの可能性があると主張しました。宗教界からも、聖職者による個別指導や修道院での指導といった動きが出てきます。
なぜ聾唖の教育が進んだのか。上流階級と学者のニーズ
障害者教育の中で、耳が聞こえない、話せない子どもの教育が最も多く試された理由について、楊さんはいくつかのニーズを挙げます。
- 貴族や上流階級が、財産や地位を子どもに継がせるため教育を求めた
- 働く機会が増え、読み書きや言語の必要性が広く高まった
- キリスト教会が、手話を使った教育に比較的受容的だった
- 学者が自説を証明するため、教育を積極的に実践した
楊さんによると、教育を依頼してきたのはほとんどが貴族や上流階級でした。子どもに聖書を理解させ、読み書きやコミュニケーションができるようにして、社会の一員として財産や地位を引き継がせたいというニーズがあったといいます。
深井さんは、差別ロジックが新しくできる一方で、教育の可能性という新しい救済ロジックもできていったとまとめます。その担い手に宗教者が多かったのは、知識人がほぼその領域にしかいなかったことも影響していると考えられます。
「健常者に合わせろ」という前提と、教育史の人物たち
楊さんは、この時代の障害者教育には注意すべき点があると指摘します。根底には、教育すれば健常者と同じようになれる、社会の役に立てるというロジックがあったからです。
あくまで障害者が健常者の社会に合わせていく努力をしろよという、あの構図です。これがこの時代のある意味限界でもあるんですけど。
だから正解が決まってるっていう前提ですよね。
この領域で活躍した人物として、ルソー ── 18世紀フランスの思想家。『社会契約論』や教育論『エミール』で知られ、子どもの自然な発達を重んじる教育思想は後の教育者に大きな影響を与えましたが挙げられます。深井さんによると、ルソーは直接実践したわけではなく、思想の中に障害者教育に役立つ内容があったということです。
実践したのはペスタロッツィ ── 18〜19世紀スイスの教育者。貧しい子どもや孤児の教育に生涯を捧げ、直観や生活に根ざした教育法を実践しましたなどで、障害児を含む貧困の子どもや孤児の教育方法を開発しました。深井さんは、フレーベルやコメニウスなど、同番組の教育の歴史編に出てきた人物たちが、障害者教育にも役立っていたと話しています。
フランス人権宣言は、なぜ障害者を守らなかったのか
その後、フランス革命によって人権の概念が生まれ、資本主義は能力主義へと加速し、人権をもとにした国民国家も生まれていきます。しかし深井さんによると、障害者が差別される構造はあまり変わりませんでした。
1789年のフランス人権宣言は、すべての人間は平等で幸せになる権利があるという考え方を示しました。それでも障害者にはすぐには適用されず、200年以上かけて今も少しずつ進歩しているというのが深井さんの見方です。
楊さんは、その理由を人権宣言の「能力に基づく平等」に見出します。第6条には、すべての市民は法の前で平等であり、各々の能力に従って、徳と才能以外の差別なく、あらゆる地位や公職に就くことが許される、という趣旨が書かれています。
生まれによって制限されず、能力で社会の上に行けるという考え方は、当時の意味でポジティブに働きました。けれども、能力という手段を活用できない人たちは、この平等のメリットを得られなかったと楊さんは指摘します。
だから能力に基づく平等ってめちゃくちゃ平等に聞こえるんだけど。
一部の平等でしかないもんね。
なんかこれでも普通に会社やったら能力主義だみたいな感じってすげえフラットに見えますよね。
国家への奉仕が人権の条件に。明治日本の就学猶予免除
深井さんによると、国民国家が世界大戦に突入していく中で、国に奉仕できるか、国家への義務を果たせるかが人権の条件に加わっていきます。能力があり国に奉仕する人に人権を渡すという考え方が、戦前まで広まっていきました。
楊さんは、この条件付きの人権が明治の日本にもあったと紹介します。1900年にできた就学猶予免除の制度は、白痴とされた子どもを教育制度から除外するものでした。
楊さんによると、その背景には日清・日露戦争の影響があったとされます。軍隊に適用できないため兵役は免除する一方で、公職に就く能力がないから学校教育も必要ないという通念が法律に落とし込まれたといいます。
あからさまですよね。
深井さんは、身分から解放されて平等になったはずが、逆に新しい秩序や階級を生んでいた点が、非常にわかりづらく面白いと話します。
難しくないですか、これを認知するって。これ(能力主義)が不平等かもって思うのって難しいなと思って。
社会が正解を定義し、外れた人を障害とみなす繰り返し
樋口さんは、ここまでの話を、社会が正解を定義し、外れたら障害者とする構造を形を変えて繰り返しているだけだとまとめます。
深井さんもこれに同意し、社会が理想的な生産体制を定義し、それにかなわない人を障害とみなすことを繰り返していると話します。楊さんは、評価基準が1つか2つに収斂していくことが原因の1つだと付け加えます。
深井さんはさらに、国家間の競争も要因だと指摘します。相手より強くならなければならない状況では、役に立たないように見える人への厳しさが増し、余裕がなくなっていくといいます。ただし、競争そのものが悪いとは考えていないとも断っています。
深井さんは、人権の概念が生まれた直後の時代は、障害者とされた人にとってかなりつらい時代だったと振り返ります。兵隊になれること、労働ができること、国家に貢献できることが求められ、宗教ロジックの時代より社会への参与のし方が狭まっていたからです。
善悪を決める前に、構造をメタ認知する
最後に深井さんは、この回の話の受け取り方について補足します。現象がいいか悪いかをこの段階ではあまり考えておらず、話の逆をすべきだと受け取られたくもない、と話しています。
例えば、ヒエラルキー構造を作らないのが大事だとか言ってるつもりもないし、競争しないことが大事だと言ってるつもりもないし、国家に貢献しなくていいって言い切るつもりもない。
深井さんが求めているのは、単純な結論ではなく、構造を知ったうえで自分で判断することです。そこから先の意見を考えてもらえれば、この話をする価値があると締めくくっています。
まとめ
今回の障害の歴史編では、宗教改革以降、王権による法律の定義、資本主義と労働観の変化、都市化と施設隔離、病気のロジック、教育の可能性、そして人権と能力主義という流れの中で、障害の捉え方が次々と再定義されていく様子が語られました。ロジックは変わっても、社会の理想像に合わない人を障害とみなす構造は繰り返されてきたといえそうです。
- 宗教改革後、障害は王権のもとで法律によって白痴と狂人として定義され、財産の没収や刑事訴追の免除が定められた
- 資本主義とプロテスタントの労働観が重なり、工場で働けない人は宗教的にも価値が低いとされ、都市では施設に隔離された
- 障害の説明は悪魔の仕業から誰にでも起こる病気へ移ったが、理性が非理性を管理する構造は変わらなかった
- 教育による救済も生まれたが、健常者の社会に合わせることが前提になっていた
- 能力に基づく平等を掲げた人権や、国家への奉仕を条件とする考え方は、障害者にとって新たな排除を生んだ





