キリスト教の祈りは、自分の願いごとなのか?
後編の最初のテーマは、キリスト教の「祈り」です。千葉遊大さんは、祈りは専門の研究者がいるほど奥深く、自分の知識には限界があると前置きしたうえで、キリスト教において祈りがとても大事であることをまず伝えています。
千葉さんによれば、キリスト教の祈りにはいろいろな形があります。「こうなってほしい」という願いを祈るのも祈りの一つですが、それは本当の祈りではないと言う人もいるそうです。
祈りのセオリーとして千葉さんが紹介したのが、マタイの福音書6章の山上の垂訓 ── マタイの福音書5〜7章に記された、イエスが山の上で弟子や群衆に語った一連の教え。「心の貧しい人々は幸いである」などの言葉で知られていますに含まれる「主の祈り」です。「天にまします我らの神よ」で始まるこの祈りは、模範の祈りとして伝わってきたといいます。
主の祈りの冒頭で「天にまします我らの神」と呼びかけるのは、まず誰に祈るのかを押さえるためだと千葉さんは説明します。千葉さんの理解では、カトリックではマリアや昔の聖人が仲介する祈りがある一方、プロテスタントは神やイエスに直接祈る形が多いそうです。
主の祈りの続きには「御名があがめられますように」という一節があります。千葉さんによると、キリスト教では「神の栄光が地を満たす」ことが大事とされ、栄光という言葉は原語で「重み」に由来します。神という真理の重みを、世界中の人に感じてほしいという思いが込められているといいます。
樋口さんは、神社の家内安全の祈願と比べて、この祈りの違いを確かめました。
(キリスト教では)祈ってる人は神に祈るんですけど、その光の対象は全世界なんですね。
千葉さんはこれに同意し、自分個人ではなく神の意思が遂行されるように祈ることを「本当の祈り」と考える人もいると話しています。厳密には違うものの、瞑想に近い面もあるそうです。
一方で楊さんは、映画でよく見る「お助けください」という祈りを挙げました。千葉さんは、旧約聖書の詩篇には「神は私の砦である」のように助けを求める祈りがたくさんあり、それも祈りとして成立すると答えています。主の祈りにも「日ごとの糧を与えたまえ」という一節があり、生きるためのものを求めるのは人間として当たり前だといいます。
御名があがめられ、神の栄光が世界に広がるよう祈る。自分個人ではなく世界が対象
敵からの救いや日々の食べ物を願う。詩篇にも多く、祈りとして成り立つ
どちらの祈りでも、千葉さんが一番大事なポイントとして挙げたのは、誰に対して祈っているのかを認識していることでした。
偶像崇拝はどこまで許される? マリア像・イコン・聖遺物
誰に祈るかが大事だという話から、楊さんは、創造主でないものに祈るのは「バグっている」ことになるのではと問いかけます。千葉さんは、答えもしない木像や石像に祈ることはイスラエルの伝統からしてもダメなのだと説明しました。
これに対し樋口さんは、キリスト教は偶像崇拝を完全には排除していないのではと指摘します。千葉さんは「本当はしているはず」としつつ、何をもって偶像崇拝と言うかによると答えています。
例として千葉さんが挙げたのが、聖人やキリストを描いたイコン ── キリストや聖母、聖人などを描いた聖画像。特に東方正教会で重視され、礼拝の中で大切に扱われますです。古い公会議でイコンは認められたものの、全員がそれに従っているわけではなく、プロテスタントには「それは偶像崇拝ではないか」という空気もあるそうです。
番組では、マリア像や、傷口が現れるという聖痕 ── 十字架にかけられたイエスと同じ傷が信者の体に現れるとされる現象。中世以来、各地で報告されてきました、マリア像の目から血が流れるといった話、キリストの十字架の一部やロンギヌスの槍などの聖遺物も話題になりました。千葉さんは、こうしたものへの信仰を偶像崇拝だとみなす人も一部には確実にいるだろうと話します。
千葉さんによると、キリスト教徒は非常に人数が多いため、どうしてもいろいろなものが入ってきます。プロテスタントの教会でマリアに祈ろうとは言いませんが、マリアに祈りたいという人に「してもいい」と言う人もいれば、「カトリックの迷信だ」と厳しく言う人もいるかもしれないそうです。偶像崇拝の線引きは、宗派や人によってスタンスが分かれるということです。
神社のお参りとどう違う? 祈りの本気度と縁起
樋口さんは「一般人代表」として、神社で手を合わせるときの自分の感覚を率直に話しました。
本気でこれ(お参り)をやる前とやった後で安全度が変わるとも思ってないんですよ。でもなんかこう、イベントとしてやっとこうみたいなとこもあるし。
家内安全っていうか、商売繁盛っていうか、健康第一っていうかによって、今年とか今月のテーマ何かなを確認するぐらいの感覚で僕(神社に)行ってるんですよ。
では、キリスト教の祈りはどれくらい「ガチ」なのか。千葉さんの答えは、それぐらいの振り幅は余裕であるというものでした。キリスト教文化が根付いた国では、みんなやっているからとりあえずやっておく、という祈りも普通にあるそうです。
ただし千葉さんは、アメリカのプロテスタント文化では少し事情が違うとも話しています。神社のように参拝する場所がプロテスタントの教会にはあまりなく、祈りの部屋に行くのは「ちゃんと祈りに行く」という感覚に近いため、習慣的に祈りに行く傾向は薄れるといいます。
楊さんは、日本人のお守りやゲン担ぎのような「縁起の良さ」の感覚がキリスト教にもあるのかと尋ねました。千葉さんは、カトリックのロザリオ ── カトリックで祈りの回数を数えるために使う数珠状の道具。珠をたどりながら決まった祈りを唱えますは縁起物に見えるものの、本来は祈りのための道具だと断りつつ、プロテスタントにはそもそも物が少ないと説明します。
樋口さんが「縁起そのものを外しているのか、物に縁起を込めることを外しているのか」と聞くと、千葉さんは強いて言えば後者だと答えました。プロテスタントの信仰では見えないもののほうが位が上とされることが多いそうです。ただしこれはアメリカの文化の問題かもしれず、ヨーロッパやメキシコでは全然違うだろうとも付け加えています。
軽んじてはいけない儀式、聖餐式とは?
祈りと同じく儀式にも本気度の違いがある、と千葉さんは話します。例に挙がったのは結婚式で、本気度の振り幅がかなり大きい儀式だといいます。
その中で、軽んじたらまずいと思われがちなのが聖餐式 ── イエスが最後の晩餐でパンとワインを弟子に与えた場面を再現する儀式。パンをキリストの体、ワインを血として受け取りますです。最後の晩餐でイエスはパンを割って「これは私の体です」と弟子に与え、杯を掲げて「これは私の血だ」と言ったとされます。
千葉さんによると、この再現は儀式としてキリスト教の中で一番大事なもので、かなり昔からずっと続けられてきました。儀式を大幅に減らしたプロテスタントでもこれは排除できず、ルターもカルヴァンも聖餐式についてかなりしっかり考えているそうです。
ここで話題は秘跡 ── 英語でサクラメント。教会を目に見えないところで支える特別な儀式で、カトリックでは洗礼・聖体・ゆるし・結婚などが数えられますに移ります。千葉さんは、秘跡とは教会の存在を目に見えないところで保っている儀式で、それがないと教会が成り立たないほどのものだと説明しました。
| 項目 | カトリック | プロテスタント |
|---|---|---|
| 秘跡の数 | 7つ(千葉さんの記憶では) | 3つあるかないか |
| 結婚 | 秘跡の一つ | 大概は秘跡ではないとする |
| 聖餐式 | 行う | 最低限のシンボルとして続ける |
楊さんは、宗教改革のころ秘跡が教会権威の源泉になっていたと振り返ります。懺悔も秘跡の一つで、司祭の前でしかできないため、それをする能力を取り上げられると、キリスト教徒としてのステータスが保てなくなってしまうのだと千葉さんは補足しました。
プロテスタントでは、パンとワインはいらない、やらなくていいという人も出てくるそうです。それでも基本的には、プロテスタント教会でも何らかのシンボルとして聖餐式が続けられているといいます。
修道士は何をしている? 午前3時から始まる祈りの生活
一般の信徒とは別に、修道士はどんな存在なのか。千葉さんによると、修道士はプロテスタントにはほとんどおらず、カトリックか正教系にいる特別な存在です。ドミニコ会などの修道会には長く複雑な入会の手順があり、入った後にも位があるそうです。
千葉さんは修道院を何度か訪ねた程度だと断りながら、修道院では祈りが生活の中心になっていると話します。記憶はあやふやとしつつ、1日を6つか7つほどに分け、それぞれの時間に捧げる祈りが決まっていて、修道士はそれを全部行うといいます。
午前3時ごろ
最初の祈りの時間。暗い中を聖堂へ向かう
日中
決まった時間ごとに祈りを捧げる。1日は6〜7つほどに区切られる
夜8時ごろ
最後の祈りの時間
楊さんは、中世ヨーロッパを再現したゲーム「キングダムカム・デリバランス」で修道士の1日を体験できると紹介しました。朝3時にキャラクターを無理やり起こし、暗い中ロウソクを持って聖堂に行き、食事の前にラテン語の書物を写すといった生活だそうです。
深井さんが「お寺のお坊さんみたいな感じ?」と聞くと、千葉さんは住み込みである点は同じとしつつ、修行とは少し違い、世界のために祈っているぐらいの感覚だと答えました。ゲームの中には、送り込まれた貴族の次男が嫌々過ごす姿もあり、千葉さんも中世では貴族の子弟や女性が修道院に入れられるのはよくあったパターンだと話しています。
修道士は「卒業」して神父になるわけではなく、修道士そのものが職業です。神父の資格を持つ修道士もいて、教会で神父を務める場合もあるため、組織とライフスタイルが違うだけで役割は重なっているといいます。楊さんは、教会と修道院の違いを次のように捉えていました。
なんか僕のイメージは、教会っていうのはやっぱその庶民のためなんだよね。
その、聖と俗の接続点なんですよね。
修道院は聖なんですよ、もう。突き詰めてる、もっと。
修道院はどこから生まれ、今どう開かれているのか?
修道院の起源について千葉さんは、裕福になりすぎた教会への批判から始まり、砂漠にこもる人たちが現れたのがきっかけだと話しています。楊さんは、その時期を500年代ぐらいと補足しました。
楊さんは、十字軍と宗教改革を学んだシリーズを振り返り、世俗化されない純粋な信仰を保っていたのが修道院で、そこからレオ9世のような教皇も出たと話します。千葉さんも、街に出て十字軍を広めたのは修道士だったと応じ、楊さんは各村に「十字軍行こうぜ」とスカウトに回ったのも修道士だったと付け加えました。
では、今の修道士は布教活動をするのか。千葉さんは一概には言えないとしつつ、自分が会った修道士はあまり布教せず、むしろ人のほうが修道院へ向かうと話しています。一般向けのリトリート ── 日常から離れた静かな場所に一定期間滞在し、祈りや内省の時間を持つこと。修道院が一般の人を受け入れて開く催しもありますや勉強会、カウンセリングがあり、収入を得る仕事をしない修道院の工夫でもあるそうです。
千葉さんは、プロテスタントの目線から見ると修道院の祈りこそ「本物」という感じがすると話し、強いリスペクトを口にしました。プロテスタントにも、数十時間から数日単位で祈り続ける祈りの会があり、日本でもリレー形式で一晩中誰かが祈る状態を保つところがそこそこあるといいます。
深井さんが、仏教の念仏のように祈りの中で何か喋るのかと尋ねると、千葉さんは喋るのが基本だが沈黙の祈りもあり、定義は自由だと答えました。一方で修道院では時刻ごとに祈りが決まっていて、懺悔に使われる詩篇51篇のように聖書の言葉をそのまま唱える定型の祈りもあり、念仏に少し近いと話しています。
千葉さんはなぜキリスト教徒になったのか?
深井さんが最後に聞きたいこととして挙げたのが、千葉遊大さん自身がなぜ学生時代にキリスト教に入信したのか、という個人的な問いでした。千葉さんは一言で、他のキリスト教徒を見て自分にないものを感じたことが一番大きかったと答えています。
アメリカに住む千葉さんにとって、キリスト教は身近な存在でした。子どもの頃から敬虔な友人がいて、高校もイエズス会系のカトリックの学校でしたが、ずっと興味はなかったそうです。
転機は大学時代、アメリカにある日本語教会に誘われたことでした。千葉さんは、アメリカでは宗教と政治が絡むのが面倒だというイメージがあったものの、日本語の教会ではそこから距離を置けたことが大きかったと話しています。
日本語教会で千葉さんは牧師とその家族と親しくなり、その愛情の深さに触れます。日本人の子どもたちが毎週集まって歌う場づくりでも、来てくれる子どもへの愛情の深さを感じたことが最初のきっかけになったそうです。
さらに決定的だったのが、母の日の説教でした。ヨハネの福音書で、十字架にかけられたイエスが死の間際に弟子ヨハネへ、そばにいる母マリアを「彼女はあなたの母親です」と託す場面です。千葉さんはこの話が強く刺さり、そこで初めて罪の意識が生まれたと振り返ります。
千葉さんは、明治の文豪たちが聖書を読み、内村鑑三 ── 明治・大正期のキリスト教思想家。教会の制度に頼らない「無教会主義」を唱え、多くの知識人に影響を与えましたら初期のキリスト教徒から学ぶ中で、罪の意識に苛まれた記録が多く残っていることにも触れました。自分はそこまでではなかったかもしれないとしつつ、罪を意識したことで「救われる」ことに意味があると思えたといいます。
身近だが無関心
アメリカで育ち、友人やカトリックの高校を通じて触れるが興味はなかった
日本語教会との出会い
大学時代に誘われ、政治と距離のある場で牧師家族の愛情に触れる
母の日の説教
イエスが母マリアを弟子に託す場面が刺さり、罪の意識が生まれる
救いに意味を感じる
罪を意識したことで、救われることに意味があると思えた
神の存在は、どうやって信じられたのか?
樋口さんはさらに踏み込み、罪の意識や親への申し訳なさはキリスト教でなくても感じられるのでは、と問いかけます。全知全能の神や審判の日といった世界観そのものを、大人になってから同時に信じられたのか、という疑問です。
千葉さんは、神の存在は信じられたと答えました。ロジックを通して信じる人はマイノリティで、多くの場合は神と個人的な関係を持つこと、つまり「神に出会った気がする」体験が信仰の始まりになるといいます。
千葉さんにとってのその感覚は、自分を見てくれている人がいたのだという気づきであり、しかもそれが善良な存在だと気づくことだそうです。樋口さんは、自分の感覚と比べてそのリアリティが想像しにくいと率直に話しました。
なんか悪いことしたら地獄に落ちるかもなとか、仏様っていうのがいて、罰が当たるなとか、なんかあるんですけど、本気で思ってないんですよ。
なんかそう思うことにしといた方が、自分あんまり悪いことせずにいいことするなぐらいの感覚なんですね。
千葉さんは、それが全員の体験ではなく、自分自身もその認識がずっと続くとは限らないと断ります。そのうえで「出会い」という言葉を使う理由を、人と出会うと逆戻りできないのと同じだと説明しました。忘れたり、知らなかったことにしたりはできても、会ったという事実は変わらないという感覚が、千葉さんの中に強く残っているといいます。
深井さんが「はっきり会ったと言うのは、かなりリアリティがある」と受けると、千葉さんはリアリティは重いと答えています。キリスト教徒が「神の栄光」を語るとき、それは冗談ではないのだそうです。
「神の愛」を、キリシタンはなぜ「大切」と訳したのか?
楊さんが番外編で扱いきれなかった「究極の問い」として出したのが、神の愛とは何か、という質問でした。千葉さんは、最近自分が納得した例として、戦国時代のキリシタンの翻訳の話を挙げます。
キリシタンは迫害が始まる前に印刷機を持ち込み、天草版などのキリシタン版 ── 16世紀末から17世紀初めにイエズス会が日本で刊行した印刷物の総称。天草で刷られた天草版などがあり、日本語の宗教書や辞書も含まれますを刷っていました。その中で、そもそも神をどう訳すかが大きな問題になったといいます。
千葉さんによると、ザビエルは最初、大日如来の「大日」を神の訳語にしていましたが、途中でそれがダメだと気づき、最終的にはラテン語の「デウス」に落ち着きました。訳さないという選択をしたわけです。
愛も訳しにくい言葉でした。当時の日葡辞書 ── イエズス会が1603〜04年に長崎で刊行した日本語とポルトガル語の辞書。当時の日本語の発音や意味を知る貴重な資料ですを見ると、日本語の「愛」や「恋」には肉欲的なニュアンスが強かったそうです。試行錯誤の末に落ち着いたのが「大切」という言葉で、デウスを「何よりも大切に敬い奉るべし」と書かれていたといいます。
神は「大日」、愛は肉欲的なニュアンスの強い「愛」「恋」
神は訳さずラテン語の「デウス」、神の愛は「大切」
千葉さんは、神の愛を感じにくいときは現実にあると話し、休憩中に話題になっていた遠藤周作の『沈黙』に触れます。そして、これは完全に持論だと断ったうえで、隠れキリシタンが言葉の意味がわからなくなっても、受け継いだ祈りを命がけで明治の初めごろまで守り続けたことに思いを寄せました。
千葉さんは、この姿をユダヤ教にも重ねています。18〜19世紀ごろまでヘブライ語がわからないユダヤ人がほとんどだったのに、儀式ではヘブライ語を使い続けました。ヴォルテールはそれを皮肉りましたが、千葉さんは、それこそが彼らにとって大切で、自分たちが何者かを形づくるものだったのではないかと話しています。
千葉さんにとって、神と出会ったことは変えられない事実です。そのうえで、神の愛とは「何か大切なもの」だという基本的な認識があるといいます。神からの愛も、神への愛も、どちらも「大切」なのだそうです。
確かにな。なんかラブラブとかじゃないですもんね、全然。
大好きじゃないですもんね、なんか。穏やかな優しさがあるっていう感じかもしれないですね。
儀式を誤ると燃やされる神は、愛と矛盾しないのか?
続いて出たのは、聖書の勉強会で読んだ旧約聖書の場面への疑問です。レビ記には、儀式の手順を誤った人が炎で焼かれる話があり、それでも神は愛なのか、という問いでした。
千葉さんは、旧約と新約は違うものの、違うと言いすぎると「ではなぜこれが聖書なのか」という問題になると話します。レビ記では、2人の兄弟が「異なる火」を捧げたと書かれていて、その正体は誰にもわからないものの、不適切な礼拝をしたという意味だそうです。
千葉さんによれば、キリスト教では神は愛であると同時に、文字通り「聖なる方」であり、なめてはいけない特別な存在だという認識が強くあります。レビ記の場面は、そのことを伝えていると考えられるといいます。
千葉さんは、愛と矛盾しているかと言われれば矛盾しているかもしれず、苦しい理屈かもしれないと認めています。そのうえで、キリスト教的には、彼らが死んだかどうかより、最終的に神を本当の意味で知れたか、神と出会えたかが大事なのだと説明しました。楊さんは、そちらへ導くことこそが神の愛だという感覚なのだと受け止めています。
ただし千葉さんは、死んだ後はどうなるのかという問題は残り、旧約のこうした部分にきれいな答えは出てこないとも話しています。それでも、そこから考え始めるのだそうです。
キリスト教は、今の日本とどうつながっているのか?
収録は3時間ほどに及んだそうです。樋口さんは、話を聞いて改めて自分の理解の浅さに気づいたと振り返りました。
最後に千葉さんは、自分は学者を目指す立場から、キリスト教や聖書を研究対象として見ているため、一般のキリスト教徒とは視点が違うところがあるかもしれないと断りを入れました。
そのうえで千葉さんは、キリスト教は歴史的に良いことも悪いこともたくさんしてきたし、権力と結びついて悪者に見えるときもあると話します。それでも、現代の日本はキリスト教なしには語れないのではないか、と最近は考えているそうです。
千葉さんが根拠に挙げたのは、明治の文豪をはじめ、現代日本の文化をつくった人たちが聖書を読み、好き嫌いを含めて反応してきたことです。キリスト教系の学校に通う人も多く、キリスト教を異物としてではなく、今の日本に関わるものとして認識してほしいと話しています。
キリスト教徒のリスナーに向けて、千葉さんは、伝統や教えを守る大切さを理解したうえで、固まってきた概念にどう挑むのか、世界の歴史の醜い部分とどう向き合うのかを考えていきたいと語りました。樋口さんは、信じる信じないとは別に、知っておいたほうがいいと締めくくっています。
信じる信じない以外にも、知る知らないでいうと(キリスト教は)絶対知っといた方がいいと思うので、その上で選択の自由があるみたいなことだと思うので。
まとめ
後編では、祈りや儀式という具体的な実践から、千葉遊大さん自身の入信体験、そして「神の愛」の意味までが語られました。千葉さんは、神の存在を理屈よりも「出会い」の体験として語り、神の愛をキリシタンが選んだ「大切」という訳語で捉えています。
- キリスト教の祈りには、神の栄光が世界に広がるよう願う祈りと、助けや日々の糧を求める祈りがあり、誰に祈るかの認識が最も大事とされる
- 偶像崇拝の線引きや、聖餐式・秘跡の扱いは、カトリックとプロテスタント、さらに個人によってスタンスが分かれる
- 修道院は1日を祈りの時間で区切る生活を送り、プロテスタントの目線からも「本物の祈り」としてリスペクトされている
- 千葉さんは牧師家族の愛情と母の日の説教をきっかけに入信し、神との出会いを「逆戻りできない事実」と表現した
- キリシタンが神の愛を「大切」と訳したことに、千葉さんは神の愛の本質を見ており、キリスト教は現代日本とも深く関わっていると語った



