神話なのにキャラが立つのはなぜか
前回のエピソードはこちら
ギルガメシュ編第9回は、深井さんの「どのキャラが好きでした?」という問いから始まります。樋口さんは、ギルガメシュとエンキドゥの関係や、大事な場面で出てくる天空神アヌを挙げました。
樋口さんはほかにも、お土産を持たせたウッディの妻、見た目が明らかに人間ではないサソリ人間、森の番人フンババ、知恵の神エアと、次々に名前を挙げていきます。
あとやっぱでも一番印象に残ってるのはサソリ人間かな。
深井さんは、ギルガメシュ叙事詩の登場人物の豊かさを、現代の漫画やアニメにもつなげて語ります。
今でもほら、漫画とかアニメとかでもやっぱいいなって感じたものは、なんかみんなキャラがすごくいいんですよね。なんか適当に作ったキャラがないっていう。
樋口さんは、ギルガメシュ叙事詩のキャラクターは「こいつならこうしそうだ」という行動をとる点で一貫している、とまとめます。怒りをあらわにする女神イシュタルも含め、個性とキャラ立ち、そして行動の必然性があるというのが2人の見立てです。
数千年前の人間の心は、今とどれほど違うのか
シリーズ全体の感想を聞かれた樋口さんが最初に挙げたのは、数千年前の物語がここまで人間の心をきちんと描いていることへの驚きでした。
現代のフィルターというか、フィルタリングで見て補完はしてるとはいえ、なんかそんなに根幹まではいじってないはずじゃないですか。
樋口さんの考えでは、エンキドゥの存在や、エンキドゥの死後にギルガメシュが旅に出る筋書きは、もともとの粘土板にも書かれていたはずです。だとすれば、ストーリーの構成力は現代と比べて劣っていないことになります。
深井さんは、ギルガメシュ叙事詩には特定の1人の作者がいるわけではないと補います。長い年月の中で多くの人の口から語り継がれ、要素が足されたり引かれたり、編集やコラージュをされてきたのだろうと話します。
そこから樋口さんは、「昔の人は迷信を信じていた」という見方そのものを問い直します。
実はあんまり知性ってそんなに変わってなくて、ただ使ってるツールとかスキルとかがたまたま今にマッチしてるだけであって。
同じように怒る時に怒るし、悲しむ時に悲しむし、喜ぶ時に喜ぶし、その元になるのって、なんか自分の名を残したいとか、後世まで語り継ぎたいとかって、なんかあんま変わってない感じがするというか。
深井さんもこれに同意し、物語は人間の心を映す鏡だと語ります。ギルガメシュ叙事詩を読むことで、当時の人の心だけでなく、読んでいる自分自身の心にも気づけるというのです。
自分にはこんな感情があったんだなと、物語を読んで気づくこともありますよね。
解釈の「余白」が物語を長生きさせた
樋口さんは、心は昔から変わらないという感覚と同時に、まったく逆の感覚も持ったと打ち明けます。それは、粘土板に書かれた物語はあくまで素材で、時代ごとに読まれ方が違うのではないかという感覚です。
多分これ千年前の解釈と五百年前の解釈と今の解釈と千年後の解釈って多分全部違うんだろうなっていう。
樋口さんは、ギルガメシュ叙事詩に「今ここ」を大事にする考えを読み取ったのも、現代の日本人が東洋的な「今ここ」の価値観を知っているからかもしれない、と振り返ります。西洋的な価値観や別の時代から読めば、違う読み方になるはずだというのです。
樋口さんの見立てでは、ギルガメシュ叙事詩の筋書きはやや粗く、そのぶん読み手が解釈を足せる余白があります。その余白があったからこそ、長い間面白さを保てたのではないかと話します。
深井さんは、ギルガメシュ叙事詩には生と死という根源的なテーマがあり、どの時代の人も解釈や新しい価値観、ときには反発を引き出せる「粘り強さ」があると応じます。樋口さんはこれを骨と表面の関係にたとえました。
だからめっちゃ強え骨があって、あとは時代に合わせてテクスチャーを変えてるみたいな。
エンキドゥとの友情、友の死、その後の旅という筋書き。生と死という根源的なテーマ
東洋的な「今ここ」、西洋的な価値観など、読む時代や読む人の価値観によって変わる読み方
叙事詩が差し出す5つの生き方とは
深井さんは、ギルガメシュ叙事詩そのものが幅広い解釈に耐える作りになっていると指摘します。その根拠が、物語の中に少なくとも5つの生き方が示されていることです。
| 生き方 | 中身 | 誰に託されているか |
|---|---|---|
| 英雄的な生き方 | 死を恐れず勇猛果敢に戦い、後世に名を残す | ギルガメシュとエンキドゥの冒険 |
| 不死を求める | 死を避けて永遠の命を追う | エンキドゥの死後のギルガメシュ |
| 限りある人生を享受する | 限りあるままに楽しく暮らす | ぶどう酒の店の女主人シルリ |
| 神々に仕える | 神々に仕えることで災いを避け、人生を全うする | ウッディ |
| 王としての務めを果たす | 城壁を築き、国を守り繁栄させる | 王としてのギルガメシュ |
深井さんによると、4つ目の「神々に仕える」生き方は、古代メソポタミアの伝統的な人間観にあたります。5つ目の「王の務め」について、樋口さんは「社会から与えられた責任」と言い換えました。
深井さんが強調するのは、ギルガメシュ叙事詩が5つの生き方のどれが正しいかを強く主張していない点です。
君たちはどう生きるかという問いかけをこの物語は投げかけてるんですよね。どれにすん?みたいな。あなたはどれみたいな。
深井さんは、ギルガメシュ叙事詩に触れた当時の人も、自分の死生観が相対化される体験をしたのではないかと推測します。ギルガメシュ叙事詩は正解ではなく選択肢を示していると読めるというわけです。
深井さんは、この点が「こうしなさい」と示す宗教の聖典との違いだと話します。ギルガメシュ叙事詩は宗教文書ではなく文学作品だからこそ、この描き方ができたという見方です。一方で、まだ見つかっていない粘土板に「この生き方が最善だ」と書かれている可能性もあると断っています。
樋口さんは、言い切ってくれる作品のわかりやすい快感と比べながら、ギルガメシュ叙事詩の「語らない強み」に気づきます。
それがないのとモヤモヤ何が言いたかった?ってなるけど、実はそっちの方が時代のあれに耐えるというか。
現代からのアンサーは黒澤明『生きる』
深井さんは、数千年前から「人は死ぬ運命にある、さあどう生きるのか」と問いかけてくるギルガメシュ叙事詩に、現代人として下手なりに答えたいと切り出します。思い浮かんだ作品は1つだけでした。
一つしか作品が思い浮かばなかったです。これもう黒澤明ですよ。
深井さんが挙げたのは、1952年公開の黒澤明監督の映画『生きる』です。敗戦から7年ほどの日本で発表され、トルストイ ── 19世紀ロシアを代表する作家。『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』などで知られ、晩年は死や生の意味を問う作品も多く書きましたの小説『イワン・イリッチの死』から着想を得たといいます。
深井さんにとって『生きる』は、これまで観た映画の中で「魂を焼かれた」作品です。凡人が死を目前にして初めて生きる意味を真剣に考え、残りの短い人生でもがいて爪痕を残して死んでいく物語だと紹介します。
『生きる』の主人公は、定年間近の市役所で市民課長を務める渡辺さんです。30年間無欠勤で、お金も無駄遣いせず、お酒も飲まない真面目な役人ですが、深井さんは「生きながら死んでいる」人物だと説明します。
映画『生きる』の冒頭では、下水が溜まって蚊が湧き、子どもが皮膚炎になって困っている地域の母親たちが、埋め立てて公園にしてほしいと市民課に陳情に来ます。渡辺さんは「土木課に回して」と素っ気なく対応し、案件は役所中をたらい回しにされます。
母親たちは最後に怒って帰りますが、渡辺さんは何も感じません。職員からつけられたあだ名は「ミイラ」でした。家では妻を早くに亡くし、男手一つで育てた息子の夫婦と同居していますが、疎まれながら退職金を当てにされているといいます。
余命宣告から公園完成、ブランコの夜まで
そんな渡辺さんが胃がんで余命数ヶ月と知るところから、『生きる』は大きく動きます。深井さんは、主演の志村喬さんの鬼気迫る演技にも触れました。
渡辺さんはがんのことを誰にも言わず、職場を無断欠勤して夜の街をうろつきます。酒を飲んでは吐き、パチンコやダンスホールで貯金を使い果たしますが、自分の人生は何だったのかという答えは見つかりませんでした。
転機は、市民課を辞めてウサギのおもちゃを作る工場で働く元同僚の女性、小田切さんとの再会です。仕事は大変でもおもちゃ作りにやりがいを持ち、日本中の子どもとつながった気がすると話す小田切さんに、渡辺さんは強く惹かれていきます。
がんを打ち明けた渡辺さんに、小田切さんは「課長さんも何か作ってみたら?」と言います。役所では何もできないと絶望しかけた渡辺さんは、「遅くはない」と表情を変え、おもちゃを抱いて喫茶店を飛び出しました。
渡辺さんが残りの人生をかけたのは、かつてたらい回しにした公園の陳情でした。事なかれ主義の役所で各課に頭を下げ、助役に侮蔑され、ヤクザに脅されても、治療もせずに悪化する体で奔走します。
彼はですね、渡辺さんは、だから人生の最後で逃げることをやめて生きることを始めたっていう。
公園はついに完成し、母親たちから感謝されます。ある深夜、渡辺さんは自分が作った公園のブランコを揺らしながら「ゴンドラの唄」を楽しそうに口ずさみ、誰にも看取られず静かに亡くなりました。
ミイラの日々
主体性も情熱もなく判子を押し、陳情をたらい回しにする
余命宣告
胃がんで余命数ヶ月と知り、初めて人生の意味を考える
夜の街の彷徨
酒や遊びに貯金を使うが答えは見つからない
小田切さんとの出会い
「何か作ってみたら?」の言葉で公園づくりを決意する
公園の完成
奔走の末に完成させ、公園のブランコで静かに亡くなる
ギルガメシュ王に届けたい映画と漫画
深井さんは、ミイラのようだった人生が色づいていく『生きる』に、ギルガメシュ叙事詩が語り直されたような感覚を持ったと話します。そして、ギルガメシュ王に問いかけてみたいと続けます。
渡辺さんが公園を作ったかのように、あなたも城壁を粛々と築かれたのではないですか?と。
友を失った悲しみや死への恐怖、不死になれなかった落胆を乗り越えて、ギルガメシュ王も頑張ったのではないか。深井さんは、『生きる』をアンサーとして古代の王に届けたいと語ります。
樋口さんも、あらすじは語らずに自分なりのアンサーを1つ挙げます。藤子・F・不二雄 ── 『ドラえもん』などで知られる漫画家。SF(すこし・ふしぎ)と呼ばれる短編作品も数多く残しましたの短編漫画「あのバカは荒野をめざす」です。
樋口さんによると、年老いた主人公が27年前の自分のもとへタイムスリップし、後悔している過ちを正そうとしますが、若い自分はまったく言うことを聞きません。十数ページの短い作品ながら、生きることについて深く考えさせられたといいます。
ほんと物語って素晴らしいですね。もうどんどん作られていってるし。で、同じことで悩んでますね。
子どものハグで「生きていていい」と思えた話
最後に語り手は自分の話をします。『生きる』には泣いたものの、渡辺さんの生き方が唯一の答えだとは今のところ思わず、自分が死に直面したら「ジタバタしそう」だと率直に語ります。
まあ僕は頑張って日々生きてるっていう、まだその段階ですね。
そのうえで語り手が挙げたのは、友人の子どもとアンパンマンのカルタで遊んでいたときの出来事です。ほとんど面識のないその子が、何の前触れもなく手を広げてハグしてくれたといいます。
アンパンマンと思われてたかもしれない。
語り手は子どもの意図はわからないとしつつ、その瞬間に無償の愛のようなものを受け取ったと話します。
そう、僕許されたと思いましたね。僕生きてていいんだと。
樋口さんは「ずっと本当は生きててよかったんだと思いますけどね」と返します。語り手は、自分はネガティブ思考の人間だとしながらも、この出来事が生きることへの感覚を少し変えたと振り返りました。
物語には自分丸ごとで向き合う
ギルガメシュ叙事詩からこの話を思うのは特殊だと言う樋口さんに対し、語り手は物語との向き合い方を語ります。
語り手は、調べた内容をコンテンツとして発信するだけでは味気ないと話します。自分の気持ちを丸ごと使い、樋口さんの言葉を借りれば「腹かっさばいて」、物語や歴史に向き合うほうが意義があるという考えです。
年を重ねていつか気力が切れるかもしれないと語る相手に、樋口さんは「生きてないとそんなコメント出ないですよ」と返します。自分は不老不死になって別府でずっと温泉に入り、ファミコンをしたいと笑いながら、「いろんな生き方あるな」とまとめました。
樋口さんは、事実に近づけて歴史を伝える普段の軸から外れ、文学作品を扱った今回のシリーズを振り返ります。そして、粘土板を解読し、解釈して今に受け継いできた人たちへの感謝で番組を締めくくりました。
最初から読むにはこちら
まとめ
ギルガメシュ編の最終回は、叙事詩が5つの生き方を並べながら正解を示さないことに、時代を超えて読まれ続ける力を見いだす回でした。深井さんたちはその問いに、黒澤明『生きる』や藤子・F・不二雄の短編、自身の体験で答えようとしています。
- ギルガメシュ叙事詩のキャラクターは行動に一貫性と必然性があり、数千年前の人間の心の描き方は現代と変わらないと語られた
- 強い筋書きと解釈の余白があるため、時代ごとに違う読み方ができ、面白さが保たれてきたという見方が示された
- 英雄、不死、享受、神々への奉仕、王の務めという5つの生き方が並べられ、「君たちはどう生きるか」が問われている
- 現代からのアンサーとして、死を前に公園づくりに命を燃やす黒澤明『生きる』が紹介された
- 物語や歴史には自分丸ごとで向き合うほうが意義がある、というのが締めくくりのメッセージだった






