古代叙事詩が投げかける現代への問い──ギルガメシュ、黒澤明、そして私たちの生き方
歴史を面白く学ぶコテンラジオのギルガメシュ編最終回では、深井龍之介さんと樋口聖典さんが、数千年前の叙事詩と現代の私たちをつなぐ「生と死」の問いについて語り合いました。物語を通して人間の心を映し出す力、時代を超えて読み継がれる理由、そして黒澤明の映画『生きる』を引き合いに、古代と現代が交差する瞬間を探ります。その内容をまとめます。
魅力的なキャラクターたち
樋口さんが好きだったキャラクターを振り返ります。ギルガメシュとエンキドゥの関係、大事な場面で登場するアヌ天空神。神々の会長的存在として、重要な決定の場面に登場する。、そして印象的だったサソリ人間。ビジュアル的にも明らかに人間を超えた存在で、ファンタジーの世界を象徴するキャラクターです。
一番印象に残ってるのはサソリ人間かな。
深井さんは「いい物語ってキャラがみんな映える」と指摘します。適当に作ったキャラがなく、こいつならこういうことをしそうだという一貫性がある。イシュタルのように、怒るべきところで怒る。キャラ立ちと必然性が備わっているからこそ、何千年も前の物語が今も魅力的に感じられるのかもしれません。
変わらない人間の心、変わる解釈
樋口さんは、数千年前の物語がこれほど人間の心を描いていることに驚きを隠しません。「昔の人はバカで、教育や知性を獲得して今に至る」という見方がありますが、実は心の作りや根本は変わっていないのではないか、と感じたそうです。
怒る時に怒り、悲しむ時に悲しみ、喜ぶ時に喜ぶ。名を残したい、後世に語り継がれたいという欲求も、現代人と通底しています。深井さんは「共感ポイントがすごく通じ合う」と語ります。物語は人間の心を映す鏡であり、歴史も同じ機能を持っています。
物語を読んで、自分にはこんな感情があったんだなと気づくこともありますよね。
一方で、樋口さんは真逆の感覚も抱いたと言います。粘土板に書かれた素材は同じでも、解釈は時代によって変わる。千年前、五百年前、今、そして千年後の解釈は、すべて異なるはずです。
当時の宗教観・価値観に基づいた理解
心理学・文学理論・東洋思想などを経由した解釈
「今ここ東洋思想、特に禅などで重視される概念。過去や未来にとらわれず、現在の瞬間に集中する生き方を指す。」という概念も、現代日本人が知っているフレームで物語を見るからそう読める。西洋的な価値観や別の時代から見れば、また違う読み方ができる。深井さんは「読み方が価値観によって変わる」と応じます。
五つの生き方と「余白」の力
深井さんは、ギルガメシュ叙事詩の中に少なくとも五つの生き方が提示されていると指摘します。
重要なのは、物語がこの五つの中から「これが正解」とは強く言っていない点です。宗教の聖典のように「こうしなさい」と命じるのではなく、選択肢を提示するだけ。「君たちはどう生きるか」という問いかけを投げかけているのです。
樋口さんは「語らない強み」を感じたと言います。現代の作品は、わかりやすく結論を提示してくれることが多い。それは気持ちいいけれど、余白がないとモヤモヤする。でも、余白があるからこそ時代を超えて読み継がれる。深井さんは「宗教文書じゃないので、この物語はあくまで文学作品」と補足します。だからこそ、いろんな価値観をここから分岐させることができたのかもしれません。
黒澤明『生きる』が紡ぐアンサー
深井さんは、ギルガメシュ叙事詩へのアンサーとして黒澤明の映画『生きる』を挙げます。1952年公開、敗戦から7年しか経っていない時期に発表された作品です。主人公は市役所の市民課長、渡辺さん。30年間無欠勤の真面目な役人ですが、「生きてはいなかった」人物として描かれます。
渡辺さんは仕事に情熱も責任感もなく、ただ判子を押すだけの日々。地域のママたちが公園を作ってほしいと陳情に来ても、たらい回しにして塩対応。職員からのあだ名は「ミイラ」。生きた時間を過ごしておらず、人生の消化試合をしているような男です。
生きてるけれども生きてはいなかったんです。生きながら死んでいる屍のようなおじさんだったんです。
そんな彼に、すさまじい運命が訪れます。胃がんで余命数ヶ月。絶望に打ちひしがれ、人生で初めて「自分の一生は何だったのか」と考えます。夜の街をうろつき、酒を飲んで吐き、パチンコ、ダンスホール、ストリップと、貯めてきた金を使いまくります。でも、夜の街に答えはありませんでした。
元同僚との出会い
そこで渡辺さんは元同僚の小田桐さんと会います。彼女は市民課を辞めて、おもちゃ工場で働いていました。渡辺さんとは真逆で、生き生きと活気を持って生きています。「自分がこのおもちゃを作ることで、日本中の子供たちと繋がった感覚になれる」と語ります。
生きた屍。人生の意味を見失っている。
生き生きと活気を持つ。仕事にやりがいを感じている。
渡辺さんは小田桐さんに問います。「君はどうしてそんなに活気があるのか。私は死ぬまでその一日でも良い、そんな風に一つ生きて死にたい」。小田桐さんはウサギのおもちゃを見せ、「課長さんも何か作ってみたら?」と言います。
その瞬間、渡辺さんの表情が変わります。「遅くはない」。ウサギのおもちゃを胸に抱きしめ、喫茶店から飛び出します。たらい回しにしてきた公園計画を、残りの人生で実現させようと決意したのです。
屍が生き始める
翌日から渡辺さんは猛然と取り組みます。役所中を回り、頭を下げまくります。助役に侮蔑され、ヤクザに脅されながらも、体が悪化していく中で鞭を打ち続けます。周りには意味不明です。あの屍のような人が、なぜ急に動き出すのか。彼はがんのことを誰にも明かしていないからです。
公園は完成します。地域のママたちから感謝されます。そして完成直後のある深夜、渡辺さんは自分が作った公園のブランコに乗り、「ゴンドラの唄大正時代の流行歌。「命短し恋せよ乙女」という歌詞で知られる。人生の儚さと今を楽しむことの大切さを歌った曲。」を口ずさみます。誰にも看取られることなく、静かに死んでいきました。
ギルガメシュ王に聞いてみたいですよね。もしかしてこの渡辺さんって現代のあなたですか?
深井さんは、渡辺さんが公園を作ったように、ギルガメシュ王も城壁を粛々と築いたのではないかと語ります。友人を失った悲しみ、死への恐怖、不死になれなかった落胆を乗り越えて。「あなたの物語は現代でも続いてますよ」と、ギルガメシュ王に届けたいと言います。
物語と向き合う、自分ごととして
深井さんは「自分丸ごとを使って物語を読んでいきましょうよ」と語ります。ただコンテンツとして発信して、面白かったでしょというだけでは味気ない。腹をかっさばいて、気持ち丸ごとを使って物語や歴史と向き合うことの方が、意義が高いはずです。
深井さん自身のエピソードも語られます。友人のお子さんとアンパンマンのカルタで遊んでいた時、突然その子がハグをしてくれました。何の前触れもなく。深井さんは「無償の愛」を感じ、「僕生きてていいんだ」と思えたそうです。
僕許されたと思いましたね。僕生きてていいんだと。
樋口さんは「なんか生きてんじゃないですか、今」と返します。深井さんは基本的にネガティブ思考で、陰キャだと自己分析しますが、それでも「生きる」ということについて、少し違う感覚を及ぼしてくれたストーリーがあったのです。
樋口さんも、藤子不二雄の短編『あのバカは荒野をめざす』を挙げます。27年前の自分にタイムスリップして過ちを正そうとするが、若い自分は言うことを聞かない。後悔と向き合う物語です。物語は、時代や形を変えながら、同じ問いを投げかけ続けているのかもしれません。
まとめ
ギルガメシュ叙事詩は、数千年の時を超えて「君たちはどう生きるか」と問いかけ続けています。正解を押し付けるのではなく、五つの生き方を提示し、読み手に選択を委ねる。そこに余白があるからこそ、時代ごとに異なる解釈が生まれ、現代の私たちも魂を揺さぶられるのです。
黒澤明の『生きる』は、凡人が死と向き合い、人生で初めて「生きる」ことを始める物語でした。屍のような日々から、公園を作るという小さな爪痕を残して死んでいく渡辺さん。その姿は、ギルガメシュ王が城壁を築いた姿と重なります。
物語は人間の心を映す鏡です。歴史も、文学も、芸術も、すべて同じ機能を持っています。だからこそ、私たちは自分の気持ち丸ごとを使って、物語と向き合うべきなのかもしれません。ギルガメシュ叙事詩が投げかける問いは、今も私たちの前にあります。
- ギルガメシュ叙事詩は正解を提示せず、五つの生き方の選択肢を示す
- 時代によって解釈が変わるが、人間の心の根本は変わらない
- 黒澤明『生きる』は、現代版ギルガメシュとして「生と死」を問う
- 物語は読み手に「君たちはどう生きるか」と問いかけ続ける
- 自分の気持ち丸ごとで物語と向き合うことに意義がある

