辞表?西郷が?バグだらけの明治政府β版 ── 征韓論をめぐる亀裂
歴史を面白く学ぶコテンラジオ (COTEN RADIO)の西郷隆盛編第12回では、深井龍之介さん、樋口聖典さん、楊睿之さんが、岩倉遣外使節団の出発後に「留守政府」が断行した改革と、征韓論をめぐって新政府が真っ二つに割れていく過程を解説しています。西郷の死に場所を求めるような朝鮮使節志願、大久保利通との決裂、そして数百名の薩摩勢が東京を去った顛末まで、その内容をまとめます。
スタートアップ1年目で社長が留学?──岩倉遣外使節団の衝撃
廃藩置県1871年(明治4年)に全国の藩を廃止して府県に置き換えた改革。中央集権体制を一気に確立した明治政府最大級の政策転換。からわずか一ヶ月後、新政府の首脳陣が海外視察に旅立ちます。岩倉遣外使節団1871〜73年に岩倉具視を正使として欧米12カ国を歴訪した大規模使節団。約48名の使節に加え、留学生を含む約100名以上が同行した。と呼ばれるこの一行は約48名、しかも期間は一年半にも及びました。
スタートアップ作って一年目で一年半留学しますみたいな話と一緒ぐらいだから。いやいや、潰れるでしょみたいな
目的は大きく三つありました。まず、近代国家の実例を自分の目で見てくること。次に、不平等条約幕末に欧米列強と結んだ通商条約のこと。関税自主権の欠如や領事裁判権(治外法権)の承認など、日本に不利な内容が含まれていた。改正に向けた外交チャンネルの開拓。そして「日本は新しい国になった」と各国に知らせる国際的なお披露目です。
メンバーには岩倉具視公家出身の政治家。明治維新の立役者の一人で、使節団では正使を務めた。、木戸孝允長州藩出身の政治家。「維新の三傑」の一人。使節団に副使として参加した。、大久保利通薩摩藩出身の政治家。「維新の三傑」の一人。使節団に副使として参加し、帰国後は内政の中心を担った。、伊藤博文長州藩出身の政治家。後に初代内閣総理大臣となる。使節団では副使を務めた。らが名を連ね、残された日本には西郷隆盛、大隈重信佐賀藩出身の政治家。後に早稲田大学を創設。留守政府では参議として改革を推進した。、板垣退助土佐藩出身の政治家。後に自由民権運動の中心人物となる。留守政府では参議を務めた。らが「留守政府」として政務を担うことになりました。
「留守政府」が断行した怒涛の改革
岩倉具視たちは出発前に「あまり大きな動きはしないでね」と念を押していました。しかし留守政府が実行した改革は、どれも国家の根幹を揺るがすレベルのものばかりでした。
徴兵令──武士の存在意義を奪った一手
最大のインパクトは徴兵令1873年(明治6年)に公布。満20歳の男子に兵役の義務を課した。国民皆兵の原則を打ち出し、武士の軍事独占を終わらせた。でした。武力はもはや武士だけの特権ではなくなり、国家のルールと目的のもとに一元管理される仕組みが作られたのです。楊さんの言葉を借りれば「武士だけの仕事でなくなった」ということです。武士たちにとっては存在意義そのものを奪われる衝撃的な変化でした。
学制と地租改正──国民国家のインフラ整備
学制1872年(明治5年)に公布された日本初の近代的教育制度に関する法令。フランスの学区制を参考に、全国を学区に分けて小・中・大学校を設置する計画だった。では近代的教育基盤が整えられましたが、初等教育の費用は家庭負担だったため評判は悪かったといいます。当時の民衆にとって子どもは大切な労働力であり、「学校に通わせたうえにお金まで払え」というのは二重の負担でした。それでも寺子屋や私塾が母体となったおかげで、約2万もの小学校を短期間で立ち上げることができました。
地租改正1873年から実施された税制改革。土地の所有権を公認し、各地バラバラだった年貢を地価の3%を金納する方式に統一した。では、全国の土地を測量して地価を決定し、米による現物納を金納に切り替えました。江戸時代に各地でまちまちだった税制が、ようやく統一されたのです。
警察制度と天皇の「軍人君主化」
西郷は警察制度の創設にも尽力しました。川路利良鹿児島出身の警察官僚。日本の近代警察制度の父と呼ばれる。西郷に呼ばれて東京で警察組織の構築にあたった。を鹿児島から呼び寄せ、東京に3,000名の警察官を配置しています。このうち約2,000名が鹿児島出身者だったというのは驚きですが、これには元薩摩藩の下級武士たちに「食い扶持」を与えるという側面もありました。
さらに西郷は、明治天皇を西洋的な軍人君主に育てる宮廷改革にも取り組みました。女官に囲まれて育った若き天皇に、武士のように厳しく接したのです。
明治天皇が落馬して「痛い」ってなった時に、西郷が「痛がるな」って叱った。エンペラーに対して
当時の明治天皇は20歳ほど。この教育係としての関わりが、後に天皇が西郷を深く慕う理由の一つになっていきます。
久光の逆鱗と西郷の消耗
こうした改革の裏で、西郷を精神的に追い詰めていったのが島津久光薩摩藩主・島津忠義の父で藩の実質的な最高権力者だった人物。廃藩置県で自らの権力基盤を失い、新政府の開化政策に強く反発した。との関係でした。
1872年、明治天皇が初めて全国を巡幸して鹿児島を訪れた際、久光は宮内庁の関係者に対して開化政策を批判し、「西郷と大久保はけしからん」と不満をぶつけました。さらに、西郷が鹿児島滞在中に久光のもとへ挨拶に行かなかったことに激怒します。
西郷は久光に謝罪書を提出し「どのような処分でも受ける覚悟でございます」と詫びましたが、久光の怒りは収まりません。十四か条にわたる「罪状書」を突きつけ、こう言い放ちました。
「士族の銃砲を取り上げ、刀を帯びることを禁じ、散髪を勝手にさせるとは前代未聞の乱暴な政策だ」──形の上は新政府批判だけど、完全に西郷への当てつけなんですよね
この問題で西郷は半年近くも東京に戻れず、大久保への手紙には「自分一人が全ての疑惑を背負い、毎日を今日限りと定めて出勤しています」と書いています。
翌1873年4月には、久光が250名の旧家臣を引き連れ、全員に大小の刀を差させた武士の行列で上京するという事件も起きました。廃刀令1876年(明治9年)に正式公布されたが、それ以前から刀の携帯を控えるよう指導されていた。久光はこれを無視し続けた。も髷の禁止も無視する久光の行動は、各地の不平士族を刺激し、久光が「保守的な反政府運動のシンボル」になりかけるほどでした。
西郷は皇居を守る近衛兵で牽制をかけ、警察を動かして動向を探らせるなど対応に追われます。心身のバランスは限界に近づいていました。
征韓論──死に場所を求めた西郷の真意
久光問題で心身を消耗しきった西郷が次に執着したのが、朝鮮への使節派遣でした。
きっかけは二つありました。一つは台湾出兵問題台湾東部に漂着した宮古島民が現地住民に殺害された事件(1871年)を受け、政府内で台湾への出兵が検討されていた。。もう一つは朝鮮からの外交文書です。日本人が朝鮮で密貿易を行っていることへの抗議だったのですが、その文言が「近くの人のなすところを見るに、無法の国というべし。またこれをもって恥となさず」と、冊封体制中国(清)を中心とした東アジアの国際秩序。朝鮮は清の冊封国であり、日本を対等以下に見る意識が残っていた。の上下意識を反映した侮蔑的な内容だったのです。
政府内では軍隊を帯同した大使の派遣案が出されましたが、西郷の主張は微妙に異なりました。彼は「非武装で自分が渡航し、平和的に交渉したい」と訴えたのです。
非武装で渡航し、平和的に朝鮮を説得する
もし殺されれば出兵の大義名分になる。死に場所を見つけたい
この構想の「絶妙さ」について、深井さんはこう指摘します。西郷は以前にも同様の発想──自分が犠牲になることで事態を動かす──を見せたことがあり、今回もそのパターンの繰り返しでした。久光からのストレス、病気の悪化、そして仲間の元武士たちに征韓の実行を約束してしまっていたこと。複数の事情が重なり、西郷は朝鮮行きに異常なまでに執着していきます。
朝鮮使節の派遣が閣議で仮決定された時、西郷は板垣退助への書簡に「生涯の愉快このこと」と書いています。番組で紹介された学者の分析によれば、一種の躁状態だったのではないかとも言われています。
命がけの閣議と岩倉具視の根性
仮決定の段階で岩倉遣外使節団が帰国すると、状況は一変します。海外の現実を見てきた岩倉具視と大久保利通は、「今は戦争をしている場合ではない。まず国力をつけなければ」と派遣延期を主張しました。
しかし西郷の執着は凄まじく、三条実美公家出身の政治家で太政大臣。明治政府の名目上の最高責任者だったが、征韓論争の板挟みでノイローゼに倒れた。太政大臣に対して「中止になるなら自殺する」とまで脅しをかけました。三条にとっては、もし西郷が自決すれば鹿児島の不平士族が暴発するという恐怖があり、圧力に屈して閣議で派遣を決定してしまいます。
西郷隆盛(自ら非武装で渡航を志願)
板垣退助(積極的征韓論)
後藤象二郎・副島種臣
大久保利通(まず富国強兵が先)
岩倉具視(太政大臣代行として阻止)
木戸孝允
ところが大久保と木戸が「なぜ通したんだ」と三条に詰め寄り、辞表を提出。三条はノイローゼで倒れてしまいます。ここで岩倉具視が太政大臣代行に就任し、「天皇に直接判断を仰ぐ」と宣言しました。
この動きを察知した西郷は、桐野利秋薩摩藩出身の軍人。幕末には「人斬り半次郎」の異名で恐れられた剣客。西郷の側近として行動をともにした。ら武闘派を連れて岩倉の自宅に乗り込みます。人斬りとして恐れられた桐野が睨みをきかせる中、岩倉具視はたった一人で立ち向かい、「絶対に天皇陛下の判断を仰ぐ」と一歩も引きませんでした。
岩倉具視が大久保に「マジで怖い」って言ってるんですよね。「マジで怖いけど、ちょっとやるわ」って言ってやってた
岩倉から大久保への返信には「実に恐怖の至りと存じております」と記されていたそうです。それでも折れなかった岩倉の根性と、裏で「お前が耐えればいける」と支えた大久保の連携によって、天皇は朝鮮使節派遣の無期延期を決定しました。
大久保との別れ、そして薩摩勢の大量辞職
天皇の裁定を受けて征韓論は潰えました。西郷は参議・陸軍大将・近衛都督という全ての重要役職の辞表を天皇に提出します。翌日には板垣退助、後藤象二郎、副島種臣ら参議も辞表を提出。征韓論をめぐる政変は、岩倉具視・大久保利通の勝利で幕を閉じました。
しかし最も印象的だったのは、西郷と大久保の最後のやりとりです。鹿児島に帰ることを決めた西郷が大久保のもとを訪れ、「後を頼む」と告げます。大久保の返答は──
大久保が「俺は知らん」って言うんですよ
この場面を伊藤博文が目撃していたといいます。深井さんはこの一言にいろんな意味が込められていると分析します。大久保は西郷を高く評価し、「わかってくれるはずだ」と信じていた。だからこそ「なぜわかってくれないんだ」という怒りと悲しみが、「俺は知らん」という突き放した言葉になったのではないか、と。
西郷と共に鹿児島へ帰郷した薩摩出身者は総数数百名に及びました。近衛局長官の篠原国幹鹿児島出身の軍人。近衛局長官を務めていたが、西郷の辞職に伴い自らも辞表を提出して帰郷した。、桐野利秋、村田新八鹿児島出身の政治家・軍人。西郷の側近として行動をともにし、後に西南戦争に参加した。ら要人もこぞって辞職しました。明治天皇が近衛兵を招集しても「病気」を理由に応じない者が続出し、天皇への忠誠よりも西郷への人徳が勝る状況が露わになったのです。
西郷が去った後、大久保利通は政府の実務を一手に引き受けます。能力の高さゆえにバンバン物事をさばいていきましたが、楊さんが指摘するように「組織基盤が脆弱な段階では権力が属人的に集中する構造になりがち」であり、それが新聞などから「専制政治だ」と批判される原因にもなりました。
まとめ
この回では、明治政府のβ版とも言える混沌の時期が描かれました。留守政府は徴兵令・学制・地租改正と近代国家の根幹をなす改革を矢継ぎ早に実行しましたが、その裏では島津久光との軋轢が西郷を精神的に追い詰めていきます。征韓論をめぐる対立は、自殺をちらつかせる西郷、ノイローゼに倒れる三条、遺書を書いて臨む大久保、人斬りに睨まれながら折れない岩倉と、全員が文字通り命がけのコミュニケーションでした。
深井さんが繰り返し指摘した「情報の非対称性」は、海外を見てきた者と国内に残った者の間に埋めがたい認識のギャップを生み、新政府を分裂させました。数百名の薩摩勢と共に鹿児島に帰った西郷がこの後どうなるのか──次回に続きます。
- 廃藩置県の1ヶ月後、岩倉具視ら首脳陣48名が一年半の海外視察に出発。残された西郷らが「留守政府」として徴兵令・学制・地租改正など近代国家の基盤を一気に整備した
- 島津久光は新政府の開化政策を全面否定し、西郷に十四か条の罪状書を突きつけるなど執拗に攻撃。西郷は半年近く東京に戻れず、心身を消耗していった
- 西郷の朝鮮使節志願は「死に場所を求めた」側面が強い。板垣退助への手紙に「生涯の愉快」と書くほど仮決定を喜んだ
- 帰国した大久保・岩倉は「今は戦争より富国強兵が先」と反対。全員が命がけの攻防の末、天皇の裁定で派遣は無期延期に
- 西郷は全役職の辞表を提出し、数百名の薩摩出身者と共に鹿児島へ帰郷。旧士族の不満が一気に高まり、政府は新たな危機を迎える

