監禁室のゴッホは、なぜ絵を描き続けたのか?
ゴッホ編第4回は、ゴッホが自分の耳を切り落として女性に送り、アルルの私立病院に監禁されたところから始まります。楊さんは、ここからゴッホが亡くなるまでを一気に語ると前置きしました。
アルルの病院での監禁は、牢屋に近いものだったといいます。ゴッホは皮紐で金属製のベッドに縛り付けられたまま放置され、光はベッド側の壁の上にある小さな鉄格子の窓から差し込むだけでした。
監禁後のゴッホの症状は悪化の一途をたどります。文献には、錯乱、思考回路の喪失、過剰な興奮、幻覚、幻聴、毒殺される妄想、不安、発作、精神疲労といった症状が記録されています。石炭を入れるバケツで顔を洗うといった奇行もあったそうです。
毒殺されるっていう妄想があるんだ。
ただ、ゴッホの発作はずっと続いていたわけではありません。正気でいられる時間があり、その間のゴッホはむしろ頭脳明晰で、作品を描いていました。
ゴッホ本人にも仕事をしたいという強い欲求がありました。弟テオへの手紙では「自分がおかしいのであれば精神病院に閉じ込められても抵抗はしないが、力の限り仕事を続けさせてくれ」と頼んでいます。この時期に描かれたのが、包帯を巻いた有名な自画像です。
(ゴッホが絵を描きたかったのは)クリエイティビティが爆発してっていうよりは、なんか社会との接点が欲しかったみたいな感じなのか。
深井さんのこの問いに対し、楊さんは学者の説として、ゴッホは自分の病気に抗うために描いていた面があると答えます。もともとゴッホが芸術に向かったのは、自分が救われるためでした。正気でいられる時間だけは、その「自分を救う行動」ができたので、そこに全振りしていたのではないかという解釈です。
ゴッホはよく「狂気の画家」「情熱の画家」と呼ばれます。しかし楊さんが紹介した近年の解釈では、狂気はゴッホにとって苦しみの根源であり、狂いながら描いたのではなく、狂気でない時間に、生きるために描き続けたとされています。
狂気の画家、情熱の画家。狂気の中で描いたというイメージ
狂気は苦しみの根源。正気の時間に、自分が救われるために描き続けた
なんかゴッホの印象が全然違いますね。
普通の生活に戻れないゴッホと、見守る弟テオ
楊さんによれば、ゴッホは通常の生活に戻ろうと必死に努力していました。常にメンタルがやられている状態や発作の状態を、ゴッホ自身も良くないと認識していたからです。
しかしゴッホの回復は簡単ではありませんでした。一度退院しても病院に戻されることを繰り返し、家に戻っても徘徊したり、意味不明なことを口にしたりして警察に通報されています。
ゴッホの家で雇われていたお手伝いの女性をめぐる、ぞっとするエピソードも残っています。お手伝いさんが洗濯物を干していると、ゴッホが無言で階段を降りてきて洗濯紐を引っ張り、洗濯物を床に落としました。怖くなって後ずさるお手伝いさんに近づき、ゴッホは「他の人の耳を切り落とさなくてよかった」と言ったそうです。
怖い怖い怖い。ちょっとこわ。
パリにいたテオは兄の状態を把握し、見舞いに来たり入院の手はずを整えたりしていました。テオは婚約者のヨーへの手紙に、兄は悲しみがこみ上げても泣けないようで、その苦しみを見ているとかわいそうだと書いています。さらに、兄はもはや自分の一部であり、兄がいなくなれば自分の魂は抜け殻のようになるだろうとも記しました。
愛していたんですね。テオはやっぱり。
ユートピアの夢はなぜ崩れ、アルルはゴッホを拒んだのか
テオ自身も難しい立場に置かれていました。近く正式に婚約して子どもを持つ予定があり、以前から負担だった兄への出費が、ライフステージの変化によってさらに重くなっていきます。楊さんは、この事情が後の出来事につながると予告しています。
楊さんはここで、アルルでの芸術家のユートピアの失敗がゴッホにとって何を意味したのかを整理します。ゴッホは、自分を否定した父親の古いキリスト教から逃げ出し、その代わりを芸術や自然の中に探していました。アルルで作ろうとしたのは、教会に代わる疑似宗教的な共同体だったといいます。
父の信仰からの逃避
自分を否定した父親の古いキリスト教から離れ、代わりの救いを探す
芸術と自然への希望
芸術と自然に救いを見出し、アルルで芸術家の共同体を目指す
共同体の失敗
神のように崇拝した自然からも救いが得られず、落胆が募る
精神の限界
希望から絶望までを数年で一気に体験し、ストレスが極限に達する
楊さんが特にしんどいと話すのは、この希望から絶望までのプロセスを、ゴッホがわずか数年のうちに一気に体験したことです。心理的な安全性が崩れ、自分にはよるべがないという絶望も突きつけられたのではないかと楊さんは推測しています。
結局ゴッホは、黄色い家に芸術家の共同体を作るという夢を捨てます。テオへの手紙には、あんな事件を起こした後に画家仲間を呼び寄せようとは思わない、自分のように頭がおかしくなる恐れがあるから、と書かれていました。
だから自覚してたんですね。なんか自分がおかしくなっちゃってることを。
アルルの町も、ゴッホにとって居づらい場所になっていきます。野次馬や新聞によってゴッホは「狂気の人」として扱われ、おかしくなったオランダ人画家を一目見ようと、子どもだけでなく大人までが黄色い家の周りに群がり、窓によじ登ってきたそうです。
さらにアルルの一部の住民は、この危険なオランダ人画家を家族のもとへ送還するか精神病院に引き渡すよう、市長に嘆願書を出しました。誰にも危害を加えたことがないゴッホは、初めて自分の家を持ち自由に創作できると感じた土地から拒絶され、深い悲しみに打ちひしがれます。
サン・レミの療養院で生まれた「星月夜」
ゴッホは自分の意思でアルルを去り、近くの町サン・レミの療養院に移ります。医師から、ある程度行動の自由があり絵も描ける民間施設への転院を勧められたからでした。ゴッホはたった一人で馬車に揺られ、イーゼルと絵の具を抱えて修道院付属の療養院の門をくぐり、鉄格子のついた部屋に入ります。
サン・レミでもゴッホの病気は良くなりませんでした。絵の具のチューブを食べようとして泡を吹いて倒れたり、毒性の強いテレピン油 ── 油絵の具を溶いたり薄めたりするのに使う、松やになどから作られる溶剤。揮発性があり、飲めば健康に深刻な害を及ぼしますを飲んで自殺を図ったり、自分の体をひどく殴りつけたりしたといいます。
それでも、発作の合間に描かれた作品の質は落ちないどころか、さらに迫力を増していきました。サン・レミでの1年間は、ゴッホの全作品の中で最も優れた作品が生まれた時期とされ、名作「星月夜」もここで描かれています。
ちょっとなんかここまでの話聞いて、これ(星月夜)見ると、この空の渦巻きの描き方がなんかゾワってくるんですけど。
星月夜の夜空の渦巻きについては、発作の時の視界の変容をそのまま描いたのではないかという説があると楊さんは紹介します。深井さんは、漫画『グラップラー刃牙』で殴られた瞬間に視界がグニャっと歪む描写にたとえていました。
星月夜の手前に黒く炎のように描かれているのはイトスギです。楊さんによれば、学者によってはキリスト教のシンボルの中で死を意味するのではないかと考察されていますが、番組ではこの絵のさまざまな解釈には深入りしませんでした。
楊さんは、ゴッホを天才と呼ぶなら、それは絵のスキルではなく、生きづらさに耐え、極限まで追い詰められながら、残された絵という道に全てを注ぎ込んだ生命力と努力だと話します。ゴッホ自身も手紙に、全精力を傾けて仕事に格闘しており、それがうまくいけば病気に対する最良の避雷針になると自分に言い聞かせている、と書いていました。
テオの支えと、生前に始まっていた評価
楊さんは、このつらい時期のゴッホにとって唯一の幸運は、描いた絵を送り、見てくれる相手がいたことだと言います。それが弟のテオです。
ちょっとテオ、たまらん気持ちになってきた。マジで。
テオはこの状態の兄に仕送りを続け、手紙で励まし、引っ越しや医者探しの段取りを全て引き受けました。やがてテオに息子が生まれると、テオはその子に兄と同じフィンセント・ウィレムという名前をつけます。
一方で、テオの結婚と子どもの誕生はゴッホの発作の原因になったとも言われています。援助が減る心配だけでなく、自分がテオの家庭の精神的・経済的な負担になっているという自覚と罪悪感が、ゴッホの中でどんどん大きくなっていきました。楊さんは、ゴッホは金をもらって当たり前とは思っておらず、申し訳なく思いながらも「またお金ちょうだい」と頼むのが兄弟の関係だったと説明しています。
意外なことに、この頃ゴッホの作品は評価され始めていました。「狂人の作品」と陰口を言われる一方で、ゴッホの絵を不思議な魅力と緊張感に満ちた情熱的な作品だと褒める批評家が現れ、展覧会では「赤いぶどう畑」が売れます。これは生前に売れたことが確認されている唯一の作品です。
しかしゴッホ本人は評価を喜びませんでした。自分の絵は一文の価値もなく単なる苦悩の叫びだと言い、好意的な記事を書いた批評家に、これ以上記事にしないよう頼んでほしいとテオに伝えています。世間の注目に耐えられず、自分の絵の噂を聞くと苦しかったといいます。
オーヴェルでの最晩年とガシェ博士との出会い
病状が良くならないこともあり、ゴッホはテオの勧めで南フランスを離れ、パリ郊外のオーヴェル=シュル=オワーズという村に移ります。小さな宿ラヴー亭の3階の屋根裏部屋を借り、ここで最晩年の2ヶ月を過ごしました。
この頃のゴッホはテオへの手紙に、自分はダメな人間のような気がすると書いています。今や世界的に尊敬される画家が当時そう感じていたことに、楊さんは悲哀を感じると話しました。
それでもオーヴェルには良い出会いがありました。ゴッホを診た医師のガシェ博士です。ゴッホは最初、ガシェ博士を「自分以上に病気じゃないか」と警戒していましたが、美術好きで画家のパトロンやコレクターもしていた博士とすぐに仲良くなり、少なくとも孤独からは救われたと言われています。このガシェ博士を見つけたのもテオでした。
うわ、ちょっと全部テオやん。
ゴッホはガシェ博士をモデルに「医師ガシェの肖像」を描いています。この絵は1990年のオークションで日本人によって約124億円で落札され、ゴッホ作品の最高落札額を記録しました。さらにこの時期、テオとヨーが赤ん坊を連れてゴッホを訪れ、ゴッホは甥っ子との対面をとても喜んだそうです。
最後まで和解できなかった母アンナ
楊さんは、ゴッホの母アンナが最後までゴッホに冷たかったことを語ります。母アンナは、ゴッホがわざと両親に苦痛を与えていると考え、ゴッホの宗教的・芸術的な情熱を「根無し草」と一蹴したといいます。
母アンナは、ゴッホが実家に残した絵を塵のように捨て、子どもの頃の思い出の品も全て処分しました。ゴッホの死後に評価が高まっても、息子の絵は馬鹿げたものだと思っていたそうです。入院中のゴッホに他の家族は頻繁に会いに行きましたが、母アンナは一度も面会に来ませんでした。
ゴッホは母アンナを愛を忘れた頑なな女だと怒る一方で、自分は半ば厄介者で、利益より害をもたらす存在だと自分を責めました。楊さんは、保守的なクリスチャンだった母アンナにとって、ゴッホの存在はなかなか受け入れられなかったのだろうと話しています。
受け入れられなかったんだね、息子のことが。
テオの家への訪問と、カラスの飛ぶ麦畑
最後の2ヶ月間、ゴッホは取りつかれたように絵を量産しました。2〜3日に1枚のペースで描き続け、2ヶ月で70点ほどの作品を仕上げたといいます。
亡くなる3週間前、ゴッホはパリのテオの家に3泊ほど泊まります。当時、赤ん坊が重い病気を患い、テオとヨーは看病で疲れていました。そんな中でゴッホは、自分が贈った絵の飾り場所が気に入らないと文句を言い、ヨーを苛立たせてしまいます。後の手紙から、口論になったのではないかと推測されています。
楊さんは、ヨーの立場に立てば無理もないと話します。ヨーはゴッホを嫌っていたわけではなく、支えるべき兄がいることも承知でテオと結婚しました。それでも夫の収入の多くが仕送りに回り、赤ん坊の病み上がりに世話の必要な義兄が来て、絵の飾り方にまで文句を言われたら怒るのも当然だというのです。
テオの家から戻ったゴッホは、自分がテオの家庭の重荷になっていると改めて確信し、メンタルダウンします。子どもが生まれて出費が増える中で自分を養わせていること、そして同じ名前の可愛い甥にとっても自分は邪魔者になるのではないかという思いが、ゴッホを追い詰めていったと考えられています。
泣いちゃった。
この話の途中で、樋口さんは涙をこらえきれなくなりました。筆さえうまく握れないほどの精神状態で描かれたのが「カラスの飛ぶ麦畑」です。ゴッホは、この絵で極度の孤独を表現しようとしたと書いており、熟れた麦畑が死の象徴であることから、自らの死を意識して描いたのではないかと考察する学者もいます。
楊さんは、テオの家への訪問がトリガーとなり、ゴッホはピストルを腹に撃ち込んで自殺したと説明します。一方で他殺説もあり、日頃ゴッホをいじめていた子どもたちがカラスを脅すためのピストルを冗談半分で突きつけ、空砲だと思ったゴッホが「やれるものならやってみろ」と言い返したところ、実弾が入っていたというものです。
まあでも(他殺説は)事故的な他殺ってことだね。
ゴッホは即死せず、自力で宿まで戻ります。手術は無理と判断され、翌日パリから駆けつけたテオに看取られながら、37歳で息を引き取りました。最後までパイプを手放さず、自分は意図的にこの行為に及び、その時は完全に正気だったと語り、最後の言葉は「こんな風に死にたかった」だったそうです。
慎ましい葬儀と、後を追ったテオ
楊さんは、せめて5年生き延びていれば、ゴッホは画家として自立し、成功を目の当たりにしたかもしれないと話します。ゴッホの葬儀は最後に過ごした宿で行われました。キリスト教では自殺が罪とされるため、教会では葬儀をしてもらえなかったのです。
葬儀の一切はテオが仕切り、パリなどから友人8人が集まる慎ましいものでした。テオは棺のある部屋に兄の絵をかけ、床にはゴッホのイーゼルと折りたたみ椅子と絵筆を置き、棺には兄が好きだったひまわりをたくさん手向けます。埋葬でテオは人目をはばからず泣き崩れました。
テオも長くは生きられませんでした。葬儀の翌日、テオは手紙に、どこもかしこも虚ろで何を見ても兄が浮かぶと書いています。兄のための展覧会を企画しますが、神経衰弱と脳梅毒 ── 梅毒の病原体が脳や神経に及ぶことで起こる病気。精神症状や認知機能の低下を引き起こし、当時は有効な治療法がありませんでしたを発症して精神病院に入れられ、ゴッホの死から半年後に後を追うように亡くなりました。
すぐじゃん。
楊さんは「これは二人の物語なんですよね」とまとめました。さらに、画家として活動したのはわずか10年間で、その間に描いた作品は2000点にのぼると明かします。樋口さんの予想は100〜200点で、桁違いの数でした。
誰にも真似できない強烈な色彩の絵を描いた期間は、3年にも満たないといいます。楊さんは、短い生涯の全てを作品に注ぎ込んだ一瞬の輝きを、今の私たちは見ているのだと語りました。
ゴッホを世界に広めたテオの妻ヨー
ゴッホの名声が世界的になったのは、死から20年ほど経ってからです。その立役者は、テオの妻ヨーでした。ヨーはゴッホを絶対に有名にしようと奔走したといいます。
楊さんは学者の考察として、ヨーの動機をいくつか挙げます。ゴッホの才能を信じる気持ち、テオの願いを叶えたい思い、そして夫を亡くした後の生計のためです。ヨーは日記に、フィンセントの絵を好きになってもらうまで諦めないと書いていました。
もう一つの動機として、ゴッホへの深い自責の念があったかもしれないと楊さんは言います。ヨーはゴッホの死後、手紙に、家に来てもらった時にもっと優しくしてあげればよかった、あんなにイライラしていたことをどれほど申し訳なく思っているか伝えたかった、と書いています。自分がもう少し寛容であれば、ゴッホもテオも早く亡くならずに済んだかもしれないと考えたのではないかという解釈です。
前衛的で理解されにくいゴッホの絵を伝えるには、人間ゴッホの人生の物語を知ってもらう必要がある。そう考えたヨーは、作品と一緒に手紙を美術評論家に売り込み、四半世紀をかけて手紙を収集・整理して書簡全集を刊行しました。
ゴッホの手紙は約900通が現存し、そのうちテオ宛ては600通以上です。手紙は世界中で翻訳され、ゴッホがひまわりや星空をどんな思いで描いたか、日本をどう思っていたか、病気に抗って描き続けたことを、後世の人々が知る手がかりになりました。現在はゴッホ美術館がすべてウェブで公開しています。
毎回読んでふんふんつって返信してたから(ゴッホは手紙を)書いてたんですね。
ヨーは最後に、オランダにあったテオの墓を掘り起こし、フランスのゴッホの墓の隣に移しました。二人の墓は、ゴッホが自分を撃ったとされる麦畑の近くに、同じ形で肩を並べて建っています。
それでも楊さんは、どれほどゴッホが有名になり高値がついても、本人にとってはどうしようもないと言います。晩年のゴッホはテオへの手紙で、いつかどこかのカフェで個展が開けるようになると思うと夢を語りましたが、その夢は叶いませんでした。
今や世界中でゴッホ展が恐らくやられてるのに。
「感想が言えない」回に残ったもの
エンディングで、楊さんは、ゴッホの絵を好きで家に飾っていたのに全然わかっていなかったと振り返ります。映画や小説で「狂気と情熱の画家」とエモく演出されがちなゴッホですが、楊さんは、本人は苦労などしたくなかったし、もっと愛され、世界に受け入れられたかったのだろうと感じたそうです。
同時に楊さんは、自分がゴッホと同じ時代にいたら支えられたかというと難しいと認めます。時代の離れた他人の苦労だから美化できるだけで、ゴッホの痛々しい生き方のおかげで世界が豊かになったことに「ありがとう」と思いつつ、本人の前では言えないという凄まじい葛藤を抱いたと話しました。
深井さんは、ゴッホに身近な尖った人たちを重ねてしまったと言い、何より弟テオにずっと寄り添ってくれてありがとうと感じたと話します。テオはゴッホのために生きて死んだように見え、それを引き継いだヨーの動きにも強く心を動かされたといいます。
樋口さんにとっては、今までで一番つらいエピソードでした。聞いてすぐ消化してリアクションしてはいけない人生だと感じ、初めて「感想が言えない」と思ったそうです。
だって(ゴッホの絵が)売れても彼に1円も入ってないからね。
絵が売れることと愛されることはまったく違う、という感覚を出演者たちは共有していました。最後は、一人でこの重いテーマを調べ上げた楊さんへの感謝で締めくくられ、今までにない終わり方の回になりました。
まとめ
ゴッホ編第4回は、耳の事件後の監禁から37歳での死、そして弟テオの死と妻ヨーの奔走までを描いた回でした。狂気の中で描いたのではなく、狂気に抗うために描き続けたゴッホ像と、兄弟を後世に伝えたヨーの存在が浮かび上がります。
- 近年の解釈では、ゴッホは狂気の中ではなく、正気の時間に、救われるために絵を描いていた
- サン・レミでの1年間に、星月夜など最も優れた作品が生まれた
- テオの家庭の重荷になっているという自責が、ゴッホを最期へ追い詰めたと考えられている
- テオは兄の死から半年後に亡くなり、妻ヨーが書簡全集や展覧会でゴッホの名を世界に広めた
- 出演者たちは、死後の名声では本人は報われないという葛藤から、軽々しく感想を言えないと語った



