近代化を進めた皇帝が、育てた人材を弾圧する?
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この回はまず、タンジマートを進めたアブデュルメジト1世の次の皇帝、アブデュルアジズの話から始まります。深井さんによると、アブデュルアジズは専制的な方向へ政治を動かしていこうとした皇帝です。
深井さんは、この動きには皇帝の立場から見れば理解できる面もあると話します。改革を進めるには中央に権力を集める必要がある一方で、近代化とは本来、専制をしないことを意味するからです。
実際皇帝の気持ちになるとわからんでもないんだけど、やっぱ改革するにしてもどうせ専制しないといけないんだよね。
まあね、動かしたいからね、ガッとね。
タンジマートの影響で、オスマン帝国には自由・祖国・立憲・平等といったフランス思想的な価値観を学んだ知識人や官僚が育っていました。深井さんは、彼らが新オスマン人 ── 19世紀後半のオスマン帝国で、立憲制や祖国愛を唱えた知識人グループ。タンジマート期の教育や出版の広がりを背景に登場しましたと呼ばれていると紹介します。
ただし新オスマン人は、西洋思想に染まりきった人たちではありません。平等の価値を認めながらも、イスラームを「OS」として持ち、非ムスリムに特権を与えることは多数派ムスリムへの不当な扱いだと感じる面もある、過渡期の存在だったと語られています。
アブデュルアジズは、この新オスマン人を専制の強化とともに弾圧していきます。深井さんが「すごく複雑な状態」と呼ぶのは、国家自身が育てた人材を国家が潰しているという構図です。
樋口さんと深井さんは、この矛盾を会社にたとえます。社内でIT人材を育てたのに、彼らが業務効率化を言い出すと煙たがる。あるいは、クラウド化を任された部署が、クラウド化で自分の部署が不要になると気づいて抵抗する、という構図です。
そのために我々(IT人材)呼ばれたんじゃないですかってなりますわな。
改革のための専制
皇帝が権力を集めてタンジマートなどの西洋化を進める
新しい人材の登場
改革の中で、自由や立憲を掲げる新オスマン人が育つ
弾圧
専制を強めたアブデュルアジズが、その人材を押さえつける
弾圧を受けた新オスマン人は、一時的に海外への亡命を余儀なくされます。背景には、1860年代ごろから世界的に出版が活発になり、マルクスが登場し、パリで革命が繰り返されるなど、君主に対抗する知識人が各地で声を上げていた時代状況がありました。
深井さんは、その出版の広がりを支えていたのもタンジマートの改革だったと指摘します。オスマン帝国の近代化は、あちこちで自らの矛盾を生み出していたことになります。
クーデター、皇帝の自殺、そして強気の新皇帝
1870年代に入ると、押さえつけられてきた国民の不満が頂点に達します。1875年の財政破綻も重なり、1876年にクーデターが起こって、アブデュルアジズは退位に追い込まれました。
深井さんが強調するのは、この退位劇の主役たちを育てたのが皇帝自身だったという点です。退位したアブデュルアジズは、失意のうちに自殺したと語られています。
次に即位したムラト5世は、ロシアの侵攻、イギリスやフランスの思惑、混乱する内政、待ったなしの改革という状況の中で精神的に追い詰められ、わずか3ヶ月で退位します。
クーデターを起こした勢力の狙いは立憲君主制でした。立憲君主制はタンジマートの時点で宣言されていたのに実行されない、という不満があり、彼らはついに憲法の草案を作ります。
その憲法案が提出されたのが、新たに即位したアブデュルハミト2世です。深井さんによると、この皇帝は実は強い専制を志向する人物で、前の2人の皇帝の末路を見ても怯まない「メンタルの強さ」があったのではないかと話されています。
アブデュルハミト2世は、憲法を認める代わりに、国家にとって危険だと見なした人物を追放する権限をスルタンに与えるよう求めました。スケジュールに追われていた起草者はこれを渋々受け入れますが、深井さんはそれが失敗だったと話します。
アブデュルハミト2世はこの権限を乱用し、まず憲法を作った本人を国外に追放しました。起草者はその後有罪となり、5〜6年後に殺害されたと語られています。
しぶしぶいいっすよつったら、いいつったなお前。じゃあお前どっか行って。え?ってなりますね。漫画やな。
「オスマン人」という括りで、多民族帝国をまとめられるか
アブデュルハミト2世のもとで作られた憲法は、ムスリムも非ムスリムも含めて、オスマン帝国の民は全員が自由で平等だとうたっていました。深井さんは、この考え方をオスマン主義 ── 宗教や民族の違いを越えて、帝国の住民すべてを「オスマン人」として一つにまとめようとした考え方。帝国の分裂を防ぐ狙いがありましたと紹介します。
この時代の後、世界は民族主義へ向かっていきます。トルコ人、クルド人など、帝国内のそれぞれの民族が自分の国を持とうとする動きです。多民族国家のオスマン帝国は民族で分かれれば壊れてしまうため、全員を「オスマン人」とする枠組みを打ち出したと深井さんは説明します。
楊さんは、それまでの人々は「あなたはトルコ人か」と聞かれても「私はクリスチャンです」「私はムスリムです」としか答えなかったと補足します。「民族」という区分で自分を捉えること自体が、この時代に新しく生まれたものでした。
深井さんは、オスマン主義の試みは「失敗するんですけどね」と先に明かしています。
もう一つの柱が議会でした。憲法によって上院と下院が設けられ、オスマン帝国に議会制度がもたらされます。一方で、大宰相や国務大臣といった行政はスルタンが任命する仕組みで、三権分立はまだ整っていませんでした。
深井さんは、議会があることと民主主義的であることは別物だと話します。樋口さんも、以前の回で民主主義には「いろんなグラデーション」があるという話があったと振り返っています。
露土戦争が立憲制を30年止めた?
憲法が発布されると帝国議会が召集され、非ムスリムにも4割ほどの議席が割り当てられました。ようやく立憲君主制が始まるかに見えましたが、この体制はすぐに崩れます。
崩壊のきっかけは、ロシアの宣戦布告による露土戦争 ── ロシアとオスマン帝国のあいだで繰り返された戦争の総称。ここで語られるのは狭義の露土戦争で、1877年に始まったものを指しますでした。アブデュルハミト2世はこれを非常事態として議会を停止し、そのまま30年間止め続けます。
三十年?止めすぎでしょ。
深井さんは、イギリスの歴史で国王が議会を開かず、議会がそれと闘った話を思い出させます。樋口さんは、スルタンにはまず開きたくない気持ちがあり、戦争を口実にしたのではないかと受け止めています。
なんかだから(スルタンは議会を)開きたくないが先にあって、議会を開かない理由としてうまいことチャンスだみたいな感じでやってんすね。
露土戦争でオスマン帝国は大敗し、サン・ステファノ条約 ── 露土戦争の講和条約。広大なブルガリア公国の成立などロシアに有利な内容で、列強の反発を招きましたを結ばされます。深井さんによると、時期は明治維新の約10年後です。
この条約により、現在のブルガリア、北マケドニア、ギリシャ北東部にあたる広大な地域がブルガリア公国となり、ロシアの影響下に置かれました。バルカン半島の広い領土を失ったことになります。
ところが、ロシアが強くなりすぎることをドイツ、イギリス、フランスなどの列強は嫌いました。そのバランスを取っていたのが、プロイセンおよびドイツ帝国の宰相ビスマルク ── 19世紀後半のプロイセン・ドイツ帝国の宰相。巧みな外交で列強間の勢力均衡を保ったことで知られますです。
広大なブルガリア公国が成立し、バルカン半島の広い領土がロシアの影響下に入る
ビスマルクの調停で結び直される。マケドニアは返還されるが、モンテネグロ・セルビア・ルーマニアが独立し、ボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリアの占領下に
ベルリン条約でオスマン帝国の失地は少し回復し、マケドニア地方はいったん返還されました。ただしマケドニアは、その後も不安定な地域であり続けたと語られています。
楊さんは、オスマン帝国の衰退に乗じて列強が介入するこの状況を、ヨーロッパ側が東方問題 ── 19世紀、衰退するオスマン帝国の領土や影響圏をめぐってヨーロッパ列強が争った国際問題の呼び名と呼んだと説明します。当時のヨーロッパでは、オスマン帝国は「ヨーロッパの病人」とまで言われていました。
「民族」という新しい括りが帝国を揺さぶる
深井さんはここで民族主義の話に戻ります。唐や漢帝国がそうだったように、中世以前の広大な帝国はほぼすべて多民族国家で、オスマン帝国も例外ではありませんでした。
それまで人々をくくっていたのは宗教や住む地域でした。そこへ、同じ言語と文化を持つ人々が国民主権のもとで自分たちのことを決めるべきだという考えがヨーロッパから広がり、1860年代には多くの人が唱えるようになり、新聞や雑誌の台頭がそれを加速させます。
深井さんは、この流れの先に第一次世界大戦で王国がほぼ消える未来があり、話題の1880年代のオスマン帝国はその約40年前、まさに渦中にあったと位置づけます。
多くの民族が暮らすバルカン半島では、それぞれの民族が自分の国を求め始めます。深井さんによると、オスマン帝国は比較的寛容な統治で反乱が頻発していたわけでもないのに、「我々はオスマンに虐げられてきた」という物語が語られるようになりました。
列強はその物語を利用し、キリスト教徒の仲間を守るという名目で戦争を起こし、土地を奪っていきます。ベルリン条約で返還された土地も、深井さんの言葉では「常にとられるためのレディ状態」でした。
戦争さえせずに領土を取られるフェーズ
露土戦争に敗れたオスマン帝国は、列強に対してほとんど何も言えない立場に陥ります。深井さんは、ここから「ケーキのように切り取られるフェーズ」に入ったと話します。
まずフランスが、北アフリカのチュニジアを勝手に保護国化します。深井さんは、ハンニバルの回で登場した地域だと振り返りつつ、戦争さえせずに取られたことを強調します。
| 地域 | 取った側 | 経緯 |
|---|---|---|
| チュニジア | フランス | 戦争をせずに保護国化 |
| エジプト | イギリス | 革命が起こったところを軍事占領 |
| テッサリア地方 | ギリシア | 列強が認めて獲得 |
深井さんは、戦争に負けて取られる段階と、戦争すらできずに取られる段階があり、このときは後者だったと整理します。
それでも深井さんは、この段階はまだ末期ではないと話します。取られているのはバルカン半島の一部やエジプトなど帝国の中心から見た辺境で、中心部が奪われるのは第一次世界大戦のときだからです。
アブデュルハミト2世は敗戦以降、列強に文句を言わなくなり、国内の反乱を恐れて軍事訓練をさせないといった策も取りました。その結果、軍の戦闘能力は低下してしまいます。
アブデュルハミト2世はどう権威を高めたか
アブデュルハミト2世は議会を止めたまま、大宰相府から決定権を奪い、権力の中心を宮廷へ移しました。深井さんは、行政も立法も皇帝が牛耳る状態になったと説明します。
さらに、忠誠を示す者を厚遇してそうでない者を冷遇し、巨大な密偵網で人々を監視しました。深井さんはこれを、以前のシリーズで取り上げた密告社会の構図に重ねています。
権威付けに使われたのがイスラームです。アブデュルハミト2世は金曜礼拝に顔を出すなどして、イスラーム全体の指導者であるカリフ ── イスラーム共同体の最高指導者の称号。オスマン帝国のスルタンがこの称号を名乗り、帝国の外のムスリムにも権威を示そうとしましたとしての自分を強調しました。
深井さんは、アブデュルハミト2世が帝国領内を指す「オスマン人」と、アラブやインドのムスリムまで含む「イスラーム」という2つの仲間意識のあいだで右往左往していたと話します。
日本にエルトゥールル号 ── オスマン帝国の軍艦。日本への使節派遣の帰途、和歌山県沖で遭難し、地元住民が乗組員を救助しましたが送られたのも、この権威の表明の一環だったと語られます。深井さんは、和歌山県の人々が乗組員を助けたことがトルコの親日感情に今も影響しているとして、「助けるってすごい重要なんだな」と語っています。
西洋は「たまたま」優れているだけ?知識人の世界観と学ぶ先の変化
楊さんは、オスマン末期の知識人たちがイスラームを非常に大切にしていたと紹介します。西洋が進歩の最先端にいることは認めつつも、西洋に強いコンプレックスを抱いていたわけではないという説があるそうです。
楊さんによると、当時の知識人には、イスラームはユダヤ教やキリスト教の後に出てきた最もきちんとした教えであり、西洋の知識ももとはイスラームから学んだものだ、という見方がありました。その世界観では、ヨーロッパはイスラーム文明の周縁の存在だったことになります。
この見方を全否定したのが、後に登場するケマルだと楊さんは話します。深井さんは、それが正しいかは別であり、現在のトルコではその揺り戻しも起きていると付け加えています。
深井さんが「チップス」として挙げたのが、学ぶ先の変化です。オスマン帝国は軍事顧問などをフランスから招いていましたが、ビスマルクのもとでドイツが強くなると、学ぶ先をドイツへ切り替えていきました。
軍事顧問などをフランスから招き、フランスに学ぶ
ビスマルクのもとで強くなったドイツに学ぶ。ケマルもドイツから多くを学ぶ
深井さんは、ケマルがドイツから多くを学んだ背景には、ビスマルクの存在が間接的に影響していると見ています。シリコンバレーやデトロイト、日本の製造業のように、学ぶ先が時代で移ることは今も同じだと話されています。
次回は時代背景編のラストです。深井さんは、ここまで掘り下げておけば、ケマルがなぜあの時あの行動をとったのかが全部わかっていくと語り、この回を「ケマルが見てきた世界」のセットアップと位置づけています。
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まとめ
アブデュルハミト2世期のオスマン帝国は、近代化と専制の矛盾を抱えたまま立憲制を短期間で失い、露土戦争の敗北を機に戦争さえせずに領土を奪われる段階へ入りました。民族主義という新しい括りとイスラームによる権威付けのあいだで揺れるこの時代が、ケマル登場の土台になっていきます。
- 改革のために専制を強めた皇帝が、改革で育った新オスマン人を弾圧するという矛盾が生まれた
- 1876年のクーデター後に憲法ができたが、アブデュルハミト2世は露土戦争を理由に議会を30年間停止した
- サン・ステファノ条約はビスマルクの調停でベルリン条約に改められたが、バルカン半島は不安定なまま残った
- 敗戦後は、チュニジアやエジプトなどを戦争すらせずに列強に取られるフェーズに入った
- 皇帝はカリフとしての権威を強調し、学ぶ先はフランスからドイツへと移っていった







