ゴッホは本当に感性だけの天才だったのか
前回、ゴッホは画家の道に進むと決めました。ただし楊さんによれば、この時点のゴッホは画家として生活できていたわけではなく、最後まで弟テオの支えを受けて生きることになります。
第2回のテーマは、画家になったゴッホがどう活動し、どうステップアップしていったかです。楊さん自身、ゴッホには「感性と勢いに任せ、精神を狂わせながら描く人」という先入観を持っていたそうです。
しかし調べてみると実像は違い、ゴッホは体系的な方法でスキルアップに取り組んだ努力家だった、と楊さんは話します。
ゴッホがまず取り組んだのは、尊敬する巨匠たちの作品の模写でした。対象はレンブラント、ドラクロワ、ミレーといった画家たちです。
楊さんによれば、ゴッホは最初から絵が上手かったわけではありません。初期のデッサンは形が狂っていたり、ぎこちなかったりしますが、しつこいほど繰り返すうちに描けるようになっていったといいます。
途中で一度、ゴッホは「これぐらいでいいか」と油絵を始めます。ところが自分にはまだ早かったと悟り、もう一度デッサンに戻ったそうです。
ゴッホ自身も、素描(デッサン)は一切の根っこであり、素描に費やした時間はすべて有益だった、という趣旨の言葉を残しています。楊さんがこの言葉を紹介すると、深井さんは意外そうに反応しました。
なんかね、まともなこと言ってますね。
ゴッホは描くだけでなく、最新の色彩理論や補色 ── 色相環で向かい合う位置にある色どうしの関係。赤と緑、青とオレンジなどで、並べると互いを引き立て合う効果がありますの使い方、遠近法、解剖学の本も読んで独学していました。
楊さんが面白いと感じたのは、ゴッホが色を研究するためにピアノのレッスンを受け始めた話です。「この音はイエローだよね」と音と色を比べていたところ、ピアノの先生は怖くなってレッスンを辞めてしまったといいます。
(ピアノの先生は)理解ができなかったんだろうね。でもいるよね、音と色が繋がるタイプの人って。
初期の自信作「ジャガイモを食べる人たち」はなぜ酷評された?
こうした努力の中で生まれたのが、初期の傑作とされる「ジャガイモを食べる人たち」です。ゴッホは練習作を何枚も描いたうえで完成作に仕上げ、これが油絵による最初の本格的な完成作とされています。
楊さんによれば、この頃のゴッホは尊敬するミレーを真似て、暗い色調を使っていました。リアルな農民の姿を描き、彼らに心を寄せたいという気持ちもあったのだろう、と楊さんは推し量ります。
ゴッホはこの作品を最も成功した作品だと考えていました。ところが友人から「もっとうまく描けるのに、どうしてすべてを表面的に見て、表面的に描くことしかできないのか」と酷評されます。
ゴッホは怒り、「僕の作品をあんな侮辱した口調で断罪する権利はお前にはない」と反発して、その友人との関係を断ちました。楊さんはこれを「キレてブロック」と表現しています。
やっぱリスペクトを感じないですもん、このコメント。
人が頑張って作ったやつをさ、こう酷評するって、こういう反発を食らう覚悟がないとダメだよね。
ゴッホは短期間、ベルギーの美術学校で正規の美術教育も受けたようです。ただ、先生の言うことはまったく聞かなかったといいます。
楊さんは、ゴッホの中にはすでに完成像があったのだろうと話し、樋口さんは、納得できることを言ってくれる先生に出会えていたら違っていたかもしれない、と応じました。
この時期のゴッホは、栄養失調かアルコール中毒のせいか歯を失った本数本失い、発語障害が残ったという記述もあるそうです。かなり無茶な生活を送っていたことがうかがえます。
ゴッホ、予告なしで弟テオのいるパリへ
各地を転々としながら猛烈に絵を描いていたゴッホは、ある日突然、芸術の都パリへ向かいます。パリでは弟テオがすでにやり手の画商として働いていました。
テオのもとには、ある日いきなり速達の手紙が届きます。突然来たことを怒らないでほしい、もうパリに来ていて先にルーブル美術館にいるから何時に来られるか返事をしてほしい、という内容でした。
なんかやっぱこう、相手との歩調の合わせなさすごいよね。
樋口さんは、携帯もない手紙の時代に、もしテオが行けなかったらどうするつもりだったのか、とツッコみます。楊さんは、テオなら受け入れてくれるとゴッホは思っていたのだろうと話しました。
もともとゴッホは、少し前から芸術の中心地であるパリに行きたがっていました。テオは大きなアパートに引っ越すまで待ってほしいと伝えていましたが、ゴッホは待ちきれなかったようです。
こうして兄弟の共同生活が始まり、ゴッホは生活も仕事もすべてテオのアパートに持ち込んで、そこをアトリエにしました。
パリは芸術のシリコンバレー。印象派はアカデミーへのアンチテーゼだった
楊さんによれば、ゴッホはパリで「確変」します。後年の明るい色彩と独特のタッチの種を、パリでインストールしたというのです。
当時のパリを、楊さんはITビジネスでいう「シリコンバレー」にたとえます。あらゆる新しい試みと伝統的な絵画の権威が入り乱れ、渦巻いている状態でした。
その中でゴッホが受けた影響は、主に2つあります。印象派という絵画の潮流と、日本の浮世絵です。
印象派を理解するには、当時のフランス画壇の仕組みを知る必要があります。フランス芸術アカデミーが芸術界の権威となっており、そこに認められて展示されない限り、本来は画家になれませんでした。
樋口さんが「認証機関みたいになってるんだ」と驚くと、楊さんはそのとおりだと答えます。画家の卵たちは10代からアカデミーに認められるために四苦八苦していました。
これに対するアンチテーゼとして登場したのが印象派です。アカデミーに落選した若手画家たちが集まり、自分たちで会場を借りて作品を持ち寄り、展示を行っていました。
アカデミーの画家は、黄金比に基づいて構図をしっかり作り込み、キリスト教や神話、歴史をテーマに描きました。絵は教養と知識を総動員して読み解くもの、とされていたのです。
一方の印象派は、構図が曖昧で人物と背景の境界もぼやけています。自分にこう見えたという印象を主観的に描くことと、何が描かれているかより、どう描かれているかを重視しました。
黄金比に基づく構図を作り込み、宗教・神話・歴史を題材にする。絵は教養で読み解くもの
構図や輪郭は曖昧でもよく、見えた印象を主観的に描く。身近な自然や人、近代社会を感覚で描く
アカデミー側の画家や批評家から見ると、印象派の絵は落書きのように映りました。楊さんによれば、描き方の作法とテーマの両方でアカデミーと衝突していたのです。
印象派の明るさを生んだのは、チューブ入り絵の具だった
楊さんが余談として紹介したのは、印象派が明るい色彩や大胆なタッチを大事にした背景に、絵の具のイノベーションがあったという話です。
それまで絵は工房などの室内で描かれていました。野外でスケッチしたあと室内に戻り、記憶を頼りに絵の具を練っていたのです。絵の具は高価で乾きやすく、その都度調合する必要がありました。
チューブ入りの絵の具が登場したことで、画家は初めて野外で描けるようになります。太陽の光が注ぐ風景を、その場でキャンバスに写せるようになったのです。
以前
絵の具はその都度調合が必要で乾きやすく、絵は室内で記憶を頼りに描いた
チューブ入り絵の具の登場
持ち運べる絵の具で、野外で描けるようになった
光をその場で写す
太陽に照らされた自然の輝きをリアルタイムで描けるようになった
明るい色彩への注目
印象派をはじめ、明るい色彩がフォーカスされるようになった
印象派は、色をなるべく混ぜないことも大事にしていました。色は混ぜるほど暗くなるからです。
そこで印象派は、原色をそのままタッチで置き、見る人の網膜の上で色が混ざって見えるように工夫しました。楊さんが読んだ本には「パレットの上ではなく、人の網膜の上で色を混ぜる」という趣旨の表現があったそうです。
楊さんはさらに、鉄道の普及で画家たちの行動範囲が一気に広がったことも背景にあると付け加えます。ゴッホも印象派の流れに位置づけられる画家で、その衝撃を自分の創作に取り込んでいきました。
ただしゴッホは、完全に印象派の画家になったわけではありません。考え方や技法を取り込みながら、独自のオリジナリティを練り上げていき、その傾向はパリ時代のあとに顕著になっていきます。
筆の跡が見えるのは、当時パンクだった
樋口さんは、テレビのレオナルド・ダ・ヴィンチ特集で見た話を持ち出しました。ダ・ヴィンチの絵は、筆の動きがわからない描き方をされているというのです。
いや、なんかダヴィンチの特番で見たんだけど、テレビで。相当何個も重ねてるみたいで。もう何百何千って。
それで筆の動きがわからないらしいんだよね、モナリザとかって。
楊さんによれば、伝統的な宗教画ではむしろタッチが残ることはNGでした。樋口さんは、印象派の時代には描く人の人間味がより入り、主語が自分になっていったのだと受け止めます。
明るい色彩やタッチは、今の価値観では珍しく見えません。しかし楊さんは、当時の価値観では革新的で、印象派は「パンク」だったと話します。
実際、「印象派」という名前ももともとは批判的な意味を含んでおり、批評家が「こいつらは印象で描いているんでしょ」と揶揄したことに由来するそうです。
樋口さんは、新しいものが出てきたときに批判されるのは今も同じだとして、TikTokへの批判を例に挙げました。
TikTok出てきた時、やっぱ文章じゃないからバカになるとか言って批判してる人いたもんね。
浮世絵が西洋に与えた衝撃とは
ゴッホが受けたもう1つの影響が、日本の浮世絵です。当時の西洋ではジャポニスム ── 19世紀後半のヨーロッパで起きた日本美術・工芸品のブーム。印象派をはじめ、多くの画家やデザイナーに影響を与えましたと呼ばれる日本ブームが起きていました。
開国した日本の美術品や工芸品、文化が、パリの万国博覧会をきっかけに西洋へ紹介され、大きな話題になりました。流行の主役は浮世絵で、版画なので大量生産でき、かさばらないため拡散しやすかったといいます。
浮世絵はヨーロッパの人々に衝撃を与えました。西洋絵画は何世紀にもわたって、2次元の画面に3次元を表す技術を磨いてきたのに、浮世絵は輪郭線が太く、遠近法を無視し、影もない、奇抜な画面構成だったからです。
特に意味不明だと受け止められたのが、雨を直線で描く表現でした。楊さんは、日本の漫画は浮世絵の延長線上にあると話します。
確かに。ほんとだ。当たり前すぎて気づかなかったけど。
浮世絵の自由さは、伝統から離れようとしていた印象派に大きなインスピレーションを与えました。楊さんの言葉を借りれば、パンクをやっていた印象派にとって「波長が合う」ものだったのです。
ゴッホとテオの兄弟も浮世絵を大量に集めて研究し、ゴッホは模写もしています。花魁の絵を模写し、背景に竹林や蓮の花、鶴などを描き込むコラージュのような作品も残しました。
印象派と浮世絵という2つの起爆剤によって、ゴッホの絵はパリで徐々に明るくなっていきます。
2年間の同居で、ゴッホとテオはどうなった?
パリで同居していたゴッホとテオは、もともと小さい頃から仲の良い兄弟でした。しかし2年間の共同生活で、2人とも限界を迎えます。
テオは兄を心から愛し、兄が自分で選んだ道を進む手助けをしたいと本気で考えていました。自分の給料から惜しみなく援助し、画商としての人脈を使って、ギャラリーや画家とゴッホをつないでいたそうです。
樋口さんに、これほど支援されてゴッホはどう感じていたのかと聞かれた楊さんは、罪悪感はあったと答えます。ただ、自分の絵は売れないから仕方がない、売れる絵を描きたくても描けない、というスタンスだったそうです。
楊さんによれば、この時点でゴッホの名声を確信していたのは、世界でテオただ1人でした。テオは手紙に、兄は信じられないほど多くのことを知り、世界に明快な視線を向けている、あと何年か生きられればきっと名声を得るだろう、と書いています。
一方でテオは家族への手紙で、兄は勉強を続けていて才能もあるが、性格に大きな問題があり、いつまでも仲良くはやっていけない、とも書いていました。兄こそ一番の親友だと思っていた時期は、もう昔のことだと記しています。
兄弟はたびたび喧嘩し、ときには汚い言葉で罵り合ったそうです。テオはもともと体が丈夫ではなく、やつれて病人のように見えるほどになっていました。
パリに来てもゴッホの絵は売れませんでした。2枚は売れたとする文献もあるものの、楊さんは画家として自立できず、パリに受け入れられていない状態だったと説明します。
テオは画商として、絵の具を厚く盛りすぎず、急いで描き飛ばさずにゆっくり描いたほうが好まれるのでは、と粘り強く提案しました。しかしゴッホは「他にどうしようもないじゃないか」と喧嘩腰に反論したといいます。
楊さんは、兄の絵に売れてほしい気持ちと、兄のポリシーを曲げさせたくない気持ちの間で、テオにも葛藤があったのではないか、と個人的な想像を語りました。
パリに幻滅したゴッホは、なぜ南フランスを目指したのか
パリでのゴッホは疎外感を覚えていきます。周りの画家仲間は成功しているのに、自分は2年経っても絵が売れません。ハイソサエティな社交の場にも違和感を覚え、芸術の都での生活に幻滅していきました。
そこでゴッホは、パリを出て新たな場所で一からやり直すと決めます。行き先は南フランスでした。
楊さんによれば、ゴッホは明るい色彩の魅力に取りつかれ、明るい太陽に憧れていました。その根っこには自然崇拝思想があり、太陽の下でのびのびと理想の絵を描きたいと考えたのです。
楊さんは、ゴッホにとって芸術は自分を救う術を探す旅でもあったと繰り返します。南フランス行きは一時の気の迷いではなく、切実な選択でした。
移住先は南フランスの自然豊かな町アルルです。なぜアルルだったのかは不明で、衝動的に思い立ったのではないかと言われています。
出発の日、テオは険悪な仲にもかかわらず駅まで兄を見送りました。1人でアパートに帰り扉を開けると、ゴッホが描いた色鮮やかな絵が何十枚も並べられていたそうです。
ゴッホは出発の数時間前に、置き土産として絵を並べていったのです。その理由はわからない、と楊さんは断っています。
アルルの春が、ゴッホの色彩を覚醒させた
ゴッホがアルルに着いたのは、まだ冬の2月でした。やがて訪れた春に、ゴッホは強く興奮します。
楊さんが紹介した本の表現によれば、ゴッホは「色が満月夜のように絶えず変わる」と感じていました。アーモンドの木が一夜で花に包まれ、桃の赤い花、杏や梨の真っ白な花が次々と咲き、朝も夕方も柔らかく温かな金色の光が満ちていたといいます。
理想郷となったアルルで、ゴッホは誰にも真似できない強烈な色彩と独特のタッチを確立していきます。楊さんは、ここで今の私たちが知るゴッホになったと話します。
ゴッホは目の前のものをそのまま描くのではなく、自分の思いや感情、情念を表すために色を使ったと楊さんは説明します。そのため、自然な色をある種無視しました。
同じ「種をまく人」で比べる、ゴッホの変化
その変化を示す例として、楊さんは台本に2枚の絵を載せて紹介しました。どちらも、ゴッホが尊敬するミレーの「種をまく人」をもとに描いた作品です。1枚は画家を始めた当初のもの、もう1枚はアルルで描いたものです。
楊さんが驚いたのは、アルルの絵で麦畑と思われる穀物畑に青が使われていることでした。太陽の明るさも際立っています。
一方、初期の絵はほぼモノクロで、黒か焦げ茶ほどしか使われていないように見えます。細かく描き込まれていますが、どんよりした印象だと出演者は話します。
構図の違いも指摘されました。初期の絵は人物が真ん中に大きく描かれていますが、アルルの絵では真ん中にいるのは太陽です。人物はむしろ、解剖学を学んだ割に初期のほうが正確に描かれている、と楊さんは話します。
画家を始めた当初の作品。ほぼモノクロで黒や焦げ茶が中心。細かく描き込まれ、人物が画面の中心にいる
アルルで描いた作品。畑に青を使うなど自然な色にとらわれず、太陽の明るさが際立つ。画面の中心は人物ではなく太陽
楊さんによれば、この太陽こそが主役であり、神とイエスを表しているとされます。ゴッホは神やイエスを直接描きませんでした。
神やイエスを直接描くことは、自分を否定した父の古いキリスト教を描くことと同じで、自己否定になってしまうからです。そこでゴッホは、自然崇拝思想と宗教心を結びつけ、神やイエス、教会を太陽などに置き換える表現を重視していきました。
アルルのゴッホは、弟の仕送りで幸せに暮らしていた
アルルでは、画家がやってきたというニュースがすぐに住民の間に広まりました。背が高く赤ひげの外国人が、農民や鉄道労働者が暮らす貧しいエリアに住んでいたため、目立つよそ者として見られていたようです。
それでもゴッホは地元の人たちと顔見知りになり、仲良くなっていきます。お気に入りのカフェに通って友達を作り、モデルになってもらうこともありました。
アルルにいたデンマークの画家ペーターセンとも、一緒に出かけて絵を描く仲になります。ただしゴッホはテオへの手紙で、頭が良く礼儀も申し分ないが絵はお粗末だ、と書いていたそうです。
楊さんによれば、アルル時代はゴッホの短い生涯で最も安定した幸せな時期でした。海岸や麦畑、トウモロコシ畑から刺激を受け、取りつかれたように描き続けます。
下宿先のホテルで食事をし、部屋でテオに手紙を書き、新聞や本を読み、パイプをふかす生活でした。週末にお金が残っていれば風俗にも通っていたといいます。
これはどこからお金をもらってんだろう、この人は。
楊さんの答えは弟でした。テオは、ゴッホが亡くなるまでずっと仕送りを続けます。さらにゴッホから届く大量の手紙にも、すべて返信していたそうです。
(テオは)LINE返すんやちゃんと。
ホテルを追い出され、たどり着いた「黄色い家」
アルルでしばらく暮らすうちに、ゴッホは下宿先のホテルを追い出されます。部屋にキャンバスがあふれて共用スペースまで占領し、油絵に使うテレピン油 ── 松やにから採れる精油で、油絵の具を溶いたり筆を洗ったりするのに使われます。独特の強いにおいがありますの悪臭も迷惑だったからです。
ホテルの経営者は追加料金を求めましたが、ゴッホは払いませんでした。所持品の差し押さえや裁判所への訴えにまで発展し、ゴッホはホテルを出ていきます。
その後ゴッホは、テオの経済的な支援を受けて部屋を借り、アトリエ兼住居にしました。ゴッホがこの建物を「黄色い家」というタイトルの作品に残したことから、この建物も黄色い家と呼ばれています。
黄色い家でゴッホは自分の居場所を得た安心感を覚え、最高傑作となる作品を次々と生み出していきます。一方で、一等地で複数の部屋を借りたうえ、家具や装飾品にこだわったため、支出は劇的に増えました。
ゴッホはテオに何度もお金を求め、テオが大金を送ると翌日に全部使ってしまうこともあったそうです。
楊さんによれば、ゴッホはこの黄色い家を拠点に、心の中で温めてきた夢を実現しようとします。それがいい金パレットと呼ばれる構想で、画家たちが集まり、支え合いながら絵を描く場を作るというものでした。
深井さんは、ゴッホに孤独で孤高の画家というイメージを持っていたと驚きます。楊さんは、ゴッホは仲間を欲しがっていたと答えました。
全然イメージなくて、僕、なんか孤高の画家みたいな。
楊さんによれば、黄色い家には結婚したい、家族や子どもを持ちたいという夢も込められていました。この構想は単なる思いつきではなく、ゴッホなりの思想が落とし込まれているといい、その中身は次回で語られます。
まとめ
第2回では、感性だけの画家というイメージとは異なる、努力家としてのゴッホの姿が描かれました。巨匠の模写とデッサンの反復で基礎を固めたゴッホは、パリで印象派と浮世絵に出会って絵を明るくし、アルルの太陽の下で、感情を色に込める独自の表現にたどり着きます。その歩みを最後まで支えたのが、弟テオでした。
- ゴッホは巨匠の模写とデッサンを執拗に繰り返し、色彩理論や解剖学も独学した努力家だった
- パリでは、アカデミーに対抗した印象派と、ジャポニスムで流行した浮世絵が起爆剤になった
- テオとの2年間の同居は限界を迎えたが、テオは生涯仕送りを続け、兄の名声を信じていた
- アルルでゴッホは自然な色にとらわれず、太陽を神やイエスに見立てるなど、情念を色で表すようになった
- 黄色い家では、画家たちが集い支え合う拠点を作る夢を抱いていた




