「頭がいい」という多義的な言葉
この回のきっかけは、番組にゲスト出演を控えている勅使川原真衣組織開発を専門とする著述家。組織や人材評価に関する著書を多数持ち、この回の少し前に新刊「頭がいいとは何か」を刊行したと紹介されています。さんの新刊タイトルでした。木原さんは「本を読まずに、目次だけを見て好き勝手に語る」という無責任な設定を提案します。
本のタイトルだけで喋るのいいですね。無責任すぎていいっすよね。
目次には「勤勉さと真面目は似て非なるもの」といった気になる項目が並びます。木原さんは、会話の相手の発言や言葉のチョイスに「頭がいいな」と感じる機会が多いと話します。そこには喋る能力も含まれている感覚があるといいます。「地頭がいい」という言葉も、意味がよくわからないまま日常的に使ってしまうと二人は認めます。
IQや学歴で人は測れるのか
小笠原さんはIQ知能指数。約100年前に登場した知能を数値化する指標で、もともとは軍隊での適性検査(アーミーテスト)などに用いられました。の話を持ち出します。小笠原さん自身はIQを「割とクソだと思っている」としつつ、人を「IQという単位」で定量化しようと定義したこと自体はすごい発想だと評価します。テストの結果は特定の狭い領域で、ある一定期間に学んだことの確認にすぎない、というのが二人の共通認識です。
話は学歴社会にも及びます。木原さんは、企業が効率的に人を評価するために学歴を見るのは一般化していると指摘します。ただし問題は、それが「何を学んできたか」まで見ずに、単なるフィルターとして使われている点だといいます。
「難関校かどうか」だけで振り分ける。企業とのマッチングは見えにくい。
何を学び、どんな環境で努力してきたかを踏まえる。より深いマッチングが可能。
小笠原さんは、難関校に入れるほど学習を習慣化できた人たち、そういう環境で学んだ人たちとして学歴を見るのは悪くない、と整理します。木原さんもそれを効率的な評価として肯定します。ただし「それを頭がいいと呼ぶのは違和感がある」という点でも二人は一致しました。
さらに複雑なのは、頭がいい人が仕事で成果を出せるかもイコールではないという点です。木原さんは、営業職を例に、考えすぎる人ほど動くことのコストを気にして動かず、がむしゃらな人のほうが成果を上げることがあると自身の体験を語ります。学歴・頭の良さ・仕事の成果、この三つのつながりを考えるのは面白いと話します。
東洋思想が示す「わかりすぎる」ことの弊害
ここで小笠原さんが東洋思想の話を持ち出します。仏教でいう「世智弁才(世知弁才)」という言葉です。字面だけ見ると頭が良さそうですが、実は八難仏教で、仏の教えに出会い悟りに至ることを妨げる八つの困難のこと。頭の良さ(世智弁才)もそのひとつに数えられるとされます。のひとつとされ、悟りに至るには邪魔になるものと位置づけられている、と小笠原さんは説明します。
「バカになれ」という言葉も、頭が悪いという意味ではなく、愚直にやる時に使われる、と小笠原さんは指摘します。あらゆることを知っているがゆえに、それが行動の邪魔になる——という文脈です。
小笠原さんは禅の世界の言葉として「チゲの病」にも触れます。知識的・概念的な理解にとどまってしまい、会得したり体得したりするところまで進めない状態を指すといいます。頭で知りすぎると動けなくなる、という点で世智弁才と通じる話です。
頭では知りすぎると動けないみたいなことは禅の世界でも言いますよね。
小笠原さんは、近代社会は「ものが分かっていること」を良しとして基準の軸をそちらに定めてきた、と分析します。その背景には産業・工業があり、経済社会における「頭がいい」という軸の話ではないか、というのがこの回の一つの視点です。
頭の良さは信仰か、それとも権力か
小笠原さんは「頭がいいという話はもはや信仰だ」と語ります。頭がいいことが良いことだ、という価値観を宗教のように信じている、という意味です。IQ登場以前から「頭がいい」という考えはありましたが、それを測る形にはなっていなかったのではないか、と二人は考えます。
そして小笠原さんは、能力を単位化することに「権力性」を感じると述べます。例として挙げたのが、戦国時代にそれぞれの国が銭を発行していたことです。お金という単位を暴力装置を基盤として、みんなが信じ合えるものとして提供していた——これが権力だ、というのです。
人の能力みたいなのを単位化するっていうのは、僕は権力性を感じる。それですぐクソみたいって言っちゃう。
木原さんは、人からの評価・企業からの評価という軸が、この10年ほどで変わるタイミングだと考えていると話します。学歴が残っても、その人が何を学び、組織でどうパフォーマンスを発揮するかがある程度見えた状態で採用できる未来が来るのではないか、という期待です。「あの人は頭がいいから採用しよう」ではなくなるかもしれない、という前向きな見立てを示しました。
AI時代の組織と個人
小笠原さんは「あえての話」として、AIが広がっても大きい組織が強いという見方を提示します。理由は生産性の総量です。一人で100体のAIエージェント人間の指示を受けて自律的にタスクを実行するAIプログラム。一人が複数のエージェントを同時に使うことで生産性を大きく高められると期待されています。を使う場合と、1万人が一人あたり30体使う場合とでは、総生産性がまったく違う、というわけです。
木原さんは、大きい組織ならではの動きにくさや、テクノロジー・AI導入の障壁の高さもあると反論します。小笠原さんもそれを認めつつ、能力の一部がAIで代替されると、組織をうまく回せる人が集まることで硬直性はむしろ減るのではないかと語ります。
一方で小笠原さんは、一人ですごいサービスを作る人が出てくる未来も信じたいと述べます。木原さんが「そっちを信じる方が美しさがある」と応じると、小笠原さんは「どっちもいい」と返します。組織として大きく集約する力と、個人が輝く姿が両立する世界がいい、というのがこの部分の着地です。
組織として大きく集約する力と、個人がなんだか輝けるみたいな話とが両立する世界ならいいですよね。
頭の良さは関係性の中にある?
組織の話をしているうちに、小笠原さんは「頭がいいって結局は個人の能力じゃない気がしてきた」と、喋りながら考えを変えていきます。組織においてということは、関係性の中で良いということなのではないか——という自己解決です。
頭の良さ=個人が持つ能力。IQや学歴で測れるもの。
頭の良さ=関係性の中で発揮されるもの。組織や他者とのつながりの中で見えてくる。
木原さんは「政治力があってずる賢さを発揮するのは頭がいいのか」と問います。小笠原さんは、政治力はエゴの発露なので頭がいいとは考えにくい、と答えます。木原さんはなお「政治をハックして自分のプロジェクトを推進するのは頭いい気がする」と食い下がりますが、この辺りは踏み込みすぎると誰かを批判しかねないため、二人は「勅使川原さんに聞きましょう」と話を締めました。
まとめ
「頭がいい」という言葉は、日常的に使われながらも実に多義的です。この回では、IQや学歴といった「測れる指標」への違和感から出発し、東洋思想が示す「わかりすぎることの弊害」、能力を単位化することに潜む権力性、そしてAI時代の組織と個人の関係へと話が広がりました。
最終的に小笠原さんは、頭の良さは個人が単独で持つ能力ではなく、組織や他者との「関係性の中で」発揮されるものではないか、という視点に自らたどり着きます。本を読まずに目次だけで語る、という無責任な設定から始まった対話は、次回ゲストの勅使川原真衣さんへの問いを残して幕を閉じました。答えは、その回に持ち越されます。
- IQや学歴は特定領域の学習確認にすぎず、それを「頭がいい」と呼ぶことには違和感がある
- 仏教の「世智弁才」や禅の「チゲの病」のように、東洋思想では「わかりすぎる」ことがかえって行動を妨げるとされる
- 能力を単位化することには権力性が潜んでいる、という視点
- AI時代には大組織の総生産性と、個人が一人で活躍する未来の両立が期待される
- 頭の良さは個人の能力ではなく、組織や他者との「関係性の中で」発揮されるものかもしれない
