肩書きはマーケット・自我・関係性のどこで決まるのか
シリーズ2回目の冒頭で、室越龍之介さんは前回の感想として「中二病だと言われたのが恥ずかしい、そうかもしれない」と率直に振り返ります。
そうですね、中二病だって言われたのは恥ずかしさの一端です。恥ずかしい。そうかもって思ってます。
渡邉康太郎さんは前回の議論を整理します。住友商事や弁護士のような知られた肩書きは語り手にも聞き手にも信頼感を与えますが、肩書きは「どう名乗り、誰に承認されるか」をセットで引き受けるものだ、という話でした。
渡邉さんによれば、承認がうまくいかないと自己紹介が嫌になり、タグを並べすぎると「結局何をしてくれるの?」と思われてしまいます。前回はモース ── フランスの社会学者・人類学者マルセル・モース。贈与論で知られ、「人格(ペルソナ)」の概念が社会や歴史によってどう形づくられてきたかも論じましたの人格論にも話が及びました。
室越さんも渡邉さんも、「人類学者です」と言えばコミュニケーションコストは下がるとわかっていながら、そう簡単には名乗れない自意識を抱えています。渡邉さんは、わかりにくく名乗ることも別の中二病を生むと話します。
例えば僕だったらコンテクストデザイナーってのがもうすごい中二の極みみたいになっちゃうわけなんですけれども、それをどう引き受けながら進んでいくのかみたいなのが一個テーマの端緒かなと思っていますが。
これを受けて荒木博行さんは、自分をどう名乗るかには3つの方向があると整理しました。
| 方向 | 中身 |
|---|---|
| マーケット | 市場にオーソライズされているか、市場からわかりやすいか |
| 個人の自我 | こういう人でありたいという願望を含む、個人としての発露 |
| 関係性 | あなたと私の間でこういう関係でありたい、という中間の視点 |
荒木さんは、この3つがぴったり重なると分かりやすい名前になるものの、実際にはよくずれると話します。室越さんの場合も、マーケット的には文化人類学者と名乗るほうがよくても、自我や対話の関係性がそれを邪魔することがあるといいます。
なんかもうトヨタに勤めてたらもうトヨタですって言ってるのがみんな楽みたいな。
荒木さんの見立てでは、記号の力が大きすぎるとこうしたバランスをもう考えなくなります。3人とも記号の力が弱い場所にいるからこそ、名乗り方に悩むのだろうという指摘です。
ビジネスは「共時的」、学問は「通時的」?
室越さんは荒木さんと渡邉さんの話を聞いて、肩書きを「今ここ」で使う人と、何らかの系譜の中で使う人がいるのではないかと考えます。前者を共時的、後者を通時的と呼んでいます。
なので、例えばビジネスっていうのはすごく共時的なものだと思うんですよ。
室越さんによれば、ビジネスでは「今ここであなたが何ができるか」が大切です。実際に室越さんは、現場で最終クライアントに会うときには文化人類学者と名乗っているといいます。
(現場のお客さんと会う時は)現場で混乱を起こさないことが一番大事かなと思っているので、そういうふうにしているんですけど。
一方で室越さんは、学問はおよそすべて「学統的」なものだと考えています。文系の人が物理学を学ぶときに入門書ではなくニュートンの『プリンキピア』を読もうとする、という通俗的な例を挙げ、系譜をたどることが学問のアプローチだと説明しました。
今ここで何ができるかが大事。チームの役割を伝えるため、人類学者と名乗ることに抵抗は少ない
誰から何を習い、どんな影響を受けてきたかが大事。一人前の弟子ではないという自意識が名乗りを邪魔する
人文学の世界では師匠と弟子の系譜が重みを持つため、そこで人類学者を名乗るのは気が引ける。室越さんは、自分が対外的に名乗りたくない理由をそう言葉にしました。
肩書きより「名前のない遊び」がその人を語る?
渡邉さんは文系・理系の話から枝分かれして、隠岐さや香さんの新書『文系と理系はなぜ分かれたのか』を紹介します。渡邉さんによれば、この本は文系・理系の区別が自然に生まれたのではなく、制度的に生まれたと論じているそうです。
渡邉さんが印象に残っているのは、学問には「人間をバイアスの源と捉える側」と「人間を価値の源と捉える側」がある、というあとがきの一節です。理系は観察者の主観をなるべく取り除きたく、文系は人間の経験や解釈こそを研究の核にする、という態度の違いだと説明しています。
渡邉さんはこの違いが肩書きにも関わると考え、手話通訳者の和田夏実さんの話を紹介しました。和田さんは通訳の前に登壇者の自己紹介を聞いても、所属や肩書きだけではどんな人かわからないため、ある問いかけをするといいます。
その問いかけが、「あなたが小さい頃していた名前のない遊びは何ですか?」って問いかけをすると、みんななんかこう喜々として笑顔で身振り手振りを交えながらいろいろ答えてくれるっていうんだよね。
渡邉さんは、この問いが面白い理由をいくつか挙げます。遊びは身体を伴うので語るときに手や体が動き出すこと、所属を語る社会的な自分とは別の表情が出ること、弁護士の六法全書のような決まった正解がないことです。
さらに、ケンケンパや鬼ごっこのような名前のある遊びではなく「名前のない遊び」だからこそ、その人だけのまだ言語化されていない経験が呼び出される、と渡邉さんは話します。
本来だったら、それ(社会的な仮面を外した個人)を我々はやりとりしたいんだけど、めちゃくちゃコミュニケーションコストが高いので、毎回それをやってられず。
渡邉さんの整理では、社会的に認められたタグとしての肩書きは、そのコストを避けるために便宜的に必要とされているものです。
続く議論では、求める関係性によって自己紹介の形が変わるという話になります。1時間のセミナーなら、会場が求めるのは文化人類学者や経営戦略の専門家としての知見であり、機能を果たせば匿名でもよいくらいだ、という例が挙がりました。
荒木さんは、組織で一緒に働く場合は話が違うと続けます。機能から入りつつも機能以上の人間として付き合いたいという合意があるので、その人の「ノイズ」の部分を知るための自己紹介が大事になる、という指摘です。
機能だけじゃないよね、僕らの人間関係ってみたいな話があるから、そのノイズみたいなところをどんどん教えてくださいみたいな話としての自己紹介みたいなことって結構大事になってくる気がする。
「何かの仲間」になりたいのか、なれないのか
室越さんは、肩書きのテーマで本当に聞きたかったのは、荒木さんと渡邉さんが自分を「one of us」、つまり何かの仲間だと思っているかどうかだったと明かします。
(なぜ聞きたいかというと)僕あんまり仲間を作るのが、なんか得意じゃないっぽいっていうことに、やっぱしばらく生きてきて思い至りまして。
室越さんは、仲間になりたいという欲求が自分にあるのかはよくわからないものの、多くのホモサピエンスは仲間を持っているので、持てない自分はそれでよいのか、という迷いを語ります。
荒木さんはこの悩みに強く共感しつつ、自分の場合ははっきりしていると答えます。所属意識は持ちたいけれど、1つではなくたくさんの所属を持っていたい、というものです。
ネコ科って言った瞬間、猫のヒエラルキーに縛られるみたいな。なんかそういうの嫌なんですよ。
荒木さんは、ある組織に一定以上いると距離を保ちたくなり、別のコミュニティに顔を出して相対化する、という挙動を昔から繰り返してきたといいます。渡邉さんが「卵を1つのかごに盛らない」ような経済的な理由かと尋ねると、荒木さんは小学校の頃からそうだったと答えました。
少年野球に入っていた頃の荒木さんは、同じチームではなく敵チームの子どもとよく遊んでいたそうです。大学のラグビー部では副キャプテンを務めながらも、食事や飲み会、合コンからは距離を置き、「ドライな奴」と言われ続けたといいます。
室越さんは、マージナルな存在はかえって母集団に過剰適応しがちではないかと問いかけます。荒木さんの答えは、何かを絶対化しそうだと感じたら危険だと考える、というものでした。
渡邉さんは、学校でサッカー部、ギャル、漫画好きなど日替わりで違うグループとお昼を食べられる人のことかと尋ね、荒木さんは「そういう感じ」と認めます。荒木さんは一人でいたいわけではなく、集団にいたい願望はありつつ1つに過度に帰属したくないのだと話しています。
どこにいても端っこ。ホームを失った人類学者
渡邉さんは、過度に所属したくないと自覚したことはないものの、どんな場所にいても自分はマージナルだという自意識を持ち続けていると話します。
渡邉さんはTakram ── 東京とロンドンなどに拠点を持つデザイン・イノベーション・ファーム。デザインとエンジニアリングを横断したプロジェクトで知られますに創業数か月でジョインし、代表の田川さんや竹澤さんとともに役員を務める古株です。話だけ聞けば中心人物ですが、引っ張る存在だという思いと、何かを代表している感覚はないという思いを両方持っているといいます。
なんか端っこにいる存在とか、コウモリ的な存在に過ぎないっていう自己認識が根本にあるかもしれないな。
渡邉さんは、それが単に心地よいのかもしれないとし、荒木さんと少し似ているのかもしれないと話します。そして人類学になぞらえ、大学がホームでキューバのような調査地がフィールドだとして、どちらもホームと呼びたいのにどちらもホームではない感覚に近い、と表現しました。
室越さんはこれを受け、人類学者には3つのパターンがあると整理します。
| パターン | 状態 |
|---|---|
| フィールドとホーム | 調査地はフィールド、帰る場所はホームのまま |
| ホームとホーム | 調査地も含めて、両方がホームになる |
| フィールドとフィールド | 元の帰属集団から相対化され、どちらもフィールドになる |
室越さん自身は「フィールドとフィールド」のタイプだといいます。キューバから帰国して大分市役所に入ったとき、スペイン語も話せてキューバ社会もわかったと思い上がっていたのに、市役所のことは何もわからなかったそうです。
市役所の人ってみんなこう、バリバリの大分弁で喋るから、僕の理解度が7割か8割ぐらいなんですよ、まず第一に。
キューバのほうが若干わかったくらいだと感じた室越さんは、日本社会をわかっていたつもりで何もわかっていなかったと気づきます。自分の帰属集団を帰属集団だと思えない経験の連続だったかもしれない、と振り返りました。
荒木さんも「ホームレス意識はあるかもね」と応じます。室越さんは、ホモサピエンスのつまはじきばかりが集まってしまい、問いを間違えたかもしれないと笑いました。
名乗りと帰属は分けられる。そして次回の「役柄」へ
渡邉さんは3人の話から、名乗りと帰属は分離していると言える可能性を指摘します。肩書きイコール帰属意識と思いがちですが、実は別物かもしれないという見方です。
例えば自分が弁護士だよっていう時に、弁護士の会合に行って、同業者だらけなんだけど、誰とも繋がりを感じれないみたいな可能性は全然あり得るし。
逆に、肩書きはなくても同族意識や帰属意識を持てる仲間がいることもある、と渡邉さんは続けます。肩書きが同じでも仲間とは限らず、肩書きがなくても仲間はつくれるという整理です。
室越さんは、肩書きと帰属集団が分かれうるのは近代的な資本主義社会だからこそ可能になったことではないか、と考えます。例として挙げたのが、本名を知らないままハンドルネームで毎晩集まる仲間をつくれるクラブハウス ── 2021年ごろ日本で一時的に流行した音声SNS「Clubhouse」。ルームに集まり、リアルタイムで音声会話をする仕組みですでした。
最後に渡邉さんは、肩書きはある種の役柄であり、役柄を演じるうちに役柄自体が自分を作り変えていく、という論点を提示します。室越さんも「ありますね」と同意し、この話は次回に持ち越されました。
まとめ
この回では、肩書きの使い分けから出発し、3人とも「どこか端っこにいる」という感覚を共有するなかで、名乗りと帰属が別のものでありうるという見方にたどり着きました。
- 名乗りはマーケット・自我・関係性の3方向で決まり、記号の力が弱い人ほどそのバランスに悩む
- 室越さんは、今ここの機能が問われるビジネスでは人類学者と名乗れても、系譜が重い人文学の場では名乗りにくいと話した
- 「小さい頃の名前のない遊び」を尋ねる問いは、肩書きよりもその人らしさを引き出すという例が紹介された
- 荒木さんは複数の所属に等距離でいたい、渡邉さんはどこでもマージナル、室越さんはホームを失ったと、3人それぞれの帰属のかたちが語られた
- 肩書きと帰属意識は分離しうるという視点から、次回は「役柄が自分を作り変える」話へ続く




