一度は断られた礼拝見学、追いかけてきた青年
イスタンブール滞在中の3人は、観光客向けではない住宅街の普通のモスクを訪ねました。イスタンブールでは、そうした街中のモスクでもかなり大きいといいます。
モスクの入口で礼拝してもよいかと尋ねたところ、居合わせた男性からは「ムスリムなのか」「ムスリムになる気はあるのか」と聞かれました。中に入るのはよいが、ムスリムでなければ礼拝はしてはいけない、話を聞きたければイマーム ── イスラム教の礼拝を先導する宗教指導者。モスクでコーランの朗誦や礼拝の指揮を担いますがいる、という反応だったそうです。
なんか冷やかしだったらやめろよみたいな感じだったね。
真面目に礼拝している人たちの中で、観光客が見よう見まねで動くのは無礼にあたるかもしれません。一行は、きちんと案内してくれる人がいるなら別だと話し合い、いったんその場を離れました。
そこへ追いかけてきたのが、30代の男性アフメトさんアハメト/アフメドでした。寒い中を半袖で、お清めの途中だったにもかかわらず、イスラムを誤解してほしくない、よければ自分が説明すると申し出てくれたといいます。
(アフメトさんは)勘違いしてほしくないって言ってた。
冷水で手から足まで、ウドゥの作法
アフメトさんが最初に教えてくれたのは、礼拝前に必ず行うウドゥ ── イスラム教で礼拝の前に行う、水で体の決まった部位を洗い清める作法です。モスクの中庭にある野外の水道で、順番どおりに体を洗いました。
このウドゥの順番は、3人の会話から次のように整理できます。
寒い中、屋外の冷水で行うウドゥはなかなか大変だったようです。それでも荒木さんは、この手順が礼拝の場に入るための準備として働いていたと振り返ります。
でもさ、すごいいいオンボーディングというかさ、なんかレディネスが高まるというかさ。
深井さんも、見学するだけの立場であっても、その場へのリスペクトを持つ準備がどんどん高まっていく感覚があったと話しています。
礼拝中の警官と、耳の後ろにかざす手
ちょうど午後の礼拝の直前だったため、一行はそのまま中へ案内され、後方で控えながら、アフメトさんの小さな声での解説を聞きました。礼拝では、ある段階から全員が肩と肩を隙間なく寄せて一緒に祈り、イスラム教ではその一体感をとても大事にしているそうです。
印象的だったのは、拳銃を携帯した制服姿の警官が3人ほど、勤務の途中で礼拝に来ていたことです。シフトを組んで順番に来ているのだと聞き、深井さんは礼拝の時間に町の警備が手薄にならないかと冗談まじりに心配していました。
もう1つ印象に残ったのが、ラカ ── イスラム教の礼拝を構成する一連の決まった動作の単位。立つ、お辞儀する、ひれ伏すなどの所作を繰り返しますの中の所作です。立った状態から座る前に、両手を耳の後ろにかざすポーズがあり、これは背負っているものをすべて後ろに置き、神との対話だけに集中する合図だと教わりました。
深井さんは、この所作が茶室に入るときの作法に近いと感じたといいます。にじり口 ── 茶室の小さな出入口。身をかがめなければ入れず、身分に関係なく謙虚に入ることを促すといわれますをくぐる武士が刀を下ろすことは、アイデンティティを一度解き、誰もが平等になる儀式だという見方です。
両手を耳の後ろにかざし、背負うものをすべて後ろに置いて神との対話に集中する
にじり口で身をかがめ、武士は刀を下ろして属性を忘れ、平等な場に入る
口を清める作法も含め、日本に伝わる作法と連綿とつながっているものがあるのだろう、と深井さんは感じています。
祈りの最中は何を考えている?
祈りの最中に心の中で何を思っているのかも、一行が気になった点です。アフメトさんによれば、神との対話に集中するのが前提でも、雑念が入ることは基本的に避けられないそうです。
また、神は全知全能なので、祈りの最後には願いを込めてよく、人間が思いつくような願いならアッラーが叶えてくれるはずだ、と話していました。
でもすごい、ある種規律的になるというか。規則正しくなるし。なんか身体的だからさ。
ウドゥを省くことはないのかという質問には、アフメトさんは「ありえない」と答えました。病気のときにベッドの中で祈るといった例外は理由があるから許されるのであって、戒律を自分に課すこと自体が祈りの本質だという考え方です。
この質問の背景には、モスクの中の人数に比べてウドゥをしている人が少なく見えたことがありました。素通りしている人もいるのではと尋ねると「そんなことはない」という答えでしたが、3人は実際のところが気になったままだったようです。
神のより良い計画と、惜しみないもてなし
荒木さんにとって新鮮だったのは、心からではなく体から整えるという発想です。体を動かすことで精神を安定させ、動揺しないためのルーティンになっているとアフメトさんは話していました。
つらいことが起きたときの受け止め方も語られました。企業に受からなかった、試験に落ちたといったときも、神はより良い計画を持っているという意味だと受け入れ、1つのことにこだわって生活が後ろ向きになるのを避けるのがムスリム的な考え方だといいます。
実はアフメトさんは、ロンドンからトルコに来て会うはずだった人に会えず、プライベートな理由で落ち込んでいる時期でした。それでも、一行に会えたことも神のプランだったと解釈していたそうです。
アフメトさんは結局、礼拝のあとも長い時間一緒に過ごし、対岸へ渡るフェリーの往復運賃や喫茶店の代金まで全員分を払ってくれました。荒木さんは、ツアーなら1人1万円ほどかかってもおかしくないと驚いています。
いや、なんかこれは神のためっていうイメージもあるから全然大丈夫だよみたいなこと言ってたし。
「理性の宗教」と、教えの分岐
イスラムがこれだけ広まり、信者が多いことにも納得がいったという話から、イスラムを普段から勉強しているという話者は、学んできた教義と違う点もあったと指摘します。地域差なのか個人差なのか、分岐があることが学びになったといいます。
例として挙げられたのが、祈りの中で願い事をしてよいという話です。願ってもよいが、ご利益を求める感覚で神を見ているわけではないはずなので、そこには解釈の分かれ目がありそうだと語られました。
コーランで禁じられていることの扱いも同様です。酩酊しなければお酒を飲んでよいのか、一切飲んではいけないのかといった分岐がある、という見方が示されました。
紛争が続く世界も神の思し召しなのか
報道機関で働くアフメトさんに、一行は「シリアスな質問がある」と切り出しました。多くの人が亡くなる紛争が続く今の状況も神のプランだとすれば、どう受け止めているのか、という問いです。
五分くらいのスピーチ始まったよね。
アフメトさんは、世界中の特派員から各地の惨状の映像が毎日届く立場にあり、幼い子が巻き込まれて亡くなることは看過できないと話しました。クリスチャンでもムスリムでもユダヤ人でも、同じ人間の子どもが死んではいけないという立場です。
そのうえでの結論は、1人ひとりが自らの領分でできることの限界を攻め続けるしかない、というものでした。前提にあるのは、人間には自由意志が与えられ、行動は人間に任されていて、神が責任を持つのは結果のほうだという考えです。
自由意志
人間は自分で考え行動する力を神から与えられている
人間の責任
何をするかは人間に任されており、過ちは人間の過ちである
神の責任
神が責任を持つのは結果のほうである
結論
1人ひとりが自分の領分でできることの限界を攻め続ける
この答えに対し、イスラムを学んできた話者は、キリスト教にもイスラムにも共通する自由意志の考え方を補足しました。神の指示に従って機能を果たすだけの天使と違い、人間には神に近づくか遠ざかるかを選ぶ意志が与えられた、という理解です。
その話者が師事するイスラムの先生は、イスラムを「理性の宗教」と呼び、理由がきちんと説明できる教えだと話していたそうです。日本人の一般的なイスラム観とはだいぶ乖離していると感じていたところ、トルコの敬虔なムスリムの言葉がそれと重なった、と語られました。
数十億人のうちごく一部で決めつけられるイメージ
アフメトさんは、非ムスリムが抱くムスリムのイメージの悪さも嘆いていました。特に9.11以降は爆破テロのイメージばかりが先行するが、数十億人いるムスリムのうち、そうした人はほんのわずかな割合にすぎない、という訴えです。
深井さんにも思い当たる経験があります。去年から密にドバイの人たちと仕事をし、30〜40人を東京のオフィスに招いたこともある中で、彼らがカンデューラ ── アラブの男性が着る白い長衣の正装。頭から白い布を垂らして身につけることが多い姿で並ぶ写真を友人に見せると、怖いという反応が多かったそうです。
それで異文化に対して自分と知らない遠いものを怖いと思うってこと自体も、まあ動物として自然なのかもわかんないけれども。
仲介者のいない祈りと、99を数える数珠
3人の中でイスラムへの解像度が一番低かったという話者は、礼拝体験とレクチャーに大きなインパクトを受けたといいます。知らないとわからないことが多く、実際には普通に合理的なことをしているという感覚だったそうです。
方角さえ合っていれば、オフィスの中でもきれいな場所とマットがあればどこでも礼拝できるという話も、その合理性を感じさせるものでした。モスクでなくてもよいということは、個人と神のあいだに仲介者がいないということです。
個人と神のつながりが大事。
荒木さんは、だからこそこれだけ分散的に広がっていけるのだろうと受け止めています。旅の最中は1日5回の祈りを省略してよいなど、柔軟なルールがあることも聞いたそうです。
数を数えて祈るミスバハ ── イスラム教徒が祈りの言葉を唱える回数を数えるのに使う数珠。99の名を持つとされる神にちなみ、99個の珠で構成されることが多いも話題になりました。珠は99あり、数珠がないときは指の関節を親指などで順に触って数えることで、3×5の15を繰り返して数えられるといいます。
キリスト教のロザリオのように、何回唱えるかを数える道具は多くの宗教にあるという話も出ました。数を意識すると他のことがすべて後ろに退き、強制的に集中する仕組みになる、と2人は語っています。死後の世界で最初に問われるのはどれだけ祈ったかだ、とアフメトさんは話していたそうです。
イマームの数珠も公共物という感覚
トルコのモスクで面白かったのは、礼拝が終わったあと、アフメトさんがイマームの使っていた数珠を壇上から平気で持ってきたことです。
え?公共のもの?みたいな。だから公共のものなんだなと思った。
日本なら、お坊さんが使う木魚などは触ってはいけないと思いがちです。モスクではその場にあるものは基本的にすべて公共物という感覚なのだと感じられた、と語られています。
お坊さんが使う木魚などは、勝手に触ってはいけないと思いがち
イマームの数珠もその場の公共物として、信者が手に取って見せてくれる
礼拝を終えた人の中には、ニコニコしながら一行のところへ来て握手だけして去っていく人や、香水をつけてくれる人もいました。旅人を迎え入れる空気がありがたかったと、3人は振り返っています。
小学校の隣に小学校があるような、どこにでもあるモスク
一行はその後、2〜3のモスクを巡りました。屋根の高さなど外側の違いはあっても、構成要素や装飾はほぼ同じだったといいます。
決まったモスクに行く必要はなく、最寄りに行けばよいという話も印象的でした。イスタンブールでは大きなモスクのすぐ隣にまた大きなモスクがあり、小学校の隣に小学校があるような感覚だと例えられています。
いろいろな外国のモスクを訪ねてきたという話者は、毎回アフメトさんのように教えてくれる人に出会ってきたといいます。旅人を歓迎し、興味を持つ人に教えることはよいことだという感覚があるのだろう、という見方です。
日本のモスクは特殊な存在で肩身が狭いかもしれないのに対し、イスラム教国のモスクは教えが良いものとしてある町の中にあります。国によってあまり違いがないとわかってきたことから、地域性はゼロではないものの、かなりユニバーサルな宗教なのだという実感が語られました。
旅の醍醐味は、自分の意見が揺らぐ会話
話は、その日の夜に3人で交わした芸術の話へ移ります。長年変わらなかった観念が変わりそうになった、とても超相対性理論的な会話だったといいます。
普段は何か言われても言い返せてしまうところ、確かにそうだと思わされたのが面白かったそうです。自分の意見が間違っているかもしれないと気づくことが一番好きだ、と語られています。
旅の醍醐味はローカリティに触れることだけでなく、そこから派生した、現地とは関係のない楽しい会話にもある、という締めくくりです。ずっと一緒にいて、くだらない話が一通り終わったからこそ真面目な話ができる、という実感も添えられました。
最後は、この日の予定として地下宮殿やシーシャ、トルコ式の浴場ハマム ── トルコの伝統的な公衆浴場。蒸気で温まり、あかすりやマッサージを受けるスタイルが知られますの候補が挙がります。アヤソフィアは素晴らしかったものの観光は観光だと感じたため、トプカプより会話の時間を大切にしたいという話になり、次回へ続きます。
まとめ
イスタンブールの街のモスクでの礼拝見学は、一度断られたところから、アフメトさんという敬虔で親切なムスリムとの出会いによって、作法の意味や信仰の考え方まで深く知る体験になりました。冷水のお清めや数を数える祈りといった身体的な規律、自由意志と神の計画をめぐる理詰めの説明は、日本で抱かれがちなイスラムのイメージとは違う姿を3人に見せています。
- 礼拝前のウドゥは手から足まで決まった順に冷水で清める作法で、場に臨む準備を高める役割があった
- 耳の後ろに手をかざす所作は、背負うものを置いて神との対話に集中する合図で、茶室のにじり口にも通じると語られた
- アフメトさんは、人間には自由意志があり、1人ひとりが自分の領分でできることの限界を攻め続けるしかないと答えた
- 方角とマットがあればどこでも祈れ、モスクのものは公共物という感覚が、仲介者のいない分散的な宗教の姿として映った
- 旅の醍醐味として、現地体験から派生して自分の意見が揺らぐ会話の楽しさも語られた



