デストロイとビルド、そして対話の翻訳可能性とは?
品川皓亮さんを迎えた4回シリーズの最終回は、渡邉康太郎さんによる前回までの振り返りから始まります。テーマは一貫して「哲学・思想は企業経営の役に立つのか」です。
2回目の終わりには、思想家には世界を解体する「デストロイヤー」と、世界を作り直す「ビルダー」がいるかもしれない、という話が出ていました。品川さんはこれを広げ、西洋の典型的なデストロイヤーをヒューム ── 18世紀スコットランドの哲学者。因果関係や自己の存在といった前提を経験の観点から疑い、徹底した懐疑論で知られますとするなら、東洋では空や縁起の思想が、その約2000年前に究極のデストロイを行っていたのではないかと語りました。
仏教の般若心経にある色即是空 ── 「形あるものはすべて実体を持たない空である」という般若心経の一節。続く「空即是色」は、空であるからこそ形あるものが現れる、という意味で対になります、空即是色のように、一度すべてを解体した先に何かが現れてくるという考え方を、品川さんは第三のパターンとして示していました。
そこへ荒木さんが、デカルトの「我思うゆえに我あり」も徹底したデストロイだが、その後に神が出てくるのはビルドだと付け足します。品川さんは、ヒュームに言わせれば「デカルトさん、デストロイの度合いが甘い」という感じではないか、と応じて議論が盛り上がりました。
ただ、議論は「役に立つのか」という問いへ引き戻されます。渡邉さんは、有用性という1つの尺度だけで学問を評価すること自体を問い直したいと提起しました。文系・理系の区分けも自然なものではなく、政治的・歴史的に決められてきたものだといいます。
さらに渡邉さんは、学問には人間をバイアスの源と捉える立場と、価値の源泉と捉える立場があり、問題は2つの文化があることではなく、両者が対話できていないことだという見方を紹介しています。
人間の判断を、偏りを生むものとして扱う立場
人間を、価値を生み出す存在として扱う立場
品川さんはそこから、対話における翻訳可能性を考えたいと話していました。高校生の時に最もビビッときたという現象学 ── 20世紀初頭にフッサールが始めた哲学。客観的な世界を前提にせず、意識に現れる経験そのものから物事を捉え直そうとしますの発想では、唯一絶対の客観的な世界があるのではなく、複数の主観が重なり合ったものが世界だといいます。
「したり顔」を越えて、最終回はどこへ向かう?
振り返りを受けた荒木博行さんは、広げに広げてきた議論を最終回で固めるのかと笑いつつ、「無理に畳まなくていい」と話します。渡邉さんは、荒木さんのアプローチが変わってきたと指摘しました。
荒木さんが最終回の問いとして示したのは、VUCAと呼ばれる大きな変化の時代に、哲学がどんな意味を持つのかという話です。AIの存在も、その変化の一つとして挙げられました。
(哲学のような)思想が今の時代だからこそ役に立ちますよねみたいな話があって、いやそうですよねみたいな、したり顔で語るみたいなことは僕もひとしきりしちゃってるから、ちょっと違う方向性とかも見出したい。
荒木さんは、この手の話がメディア受けしやすいことを自覚したうえで、ありがちな答えとは違う方向を探したいという意欲を語っています。品川さんはそれを「野心的な」と受け止め、自分から議論を蹴り出すと名乗り出ました。
嵐の時代に効く「最強の文鎮」としての思想
品川皓亮さんは、哲学や人文知、思想を、外の世界が大嵐であるほど効果を発揮する「錨」のようなものだと考えています。自分を「ここから動かない」という場所に押しとどめてくれる、最強の文鎮のようなイメージだといいます。
(錨は)大嵐であるほど効果を発揮する。で、大嵐じゃなければそんなにいらないかもしれないと思っています。
品川さんによれば、世界が平和で人生も順風満帆なら、錨は不要かもしれません。けれど、普通に立っていると飛ばされるような風が吹き荒れる時には、そこに立ち続けるために思想が役に立つと話しています。
具体例として品川さんが挙げたのがAIです。AIでキャリアがどうなるのかと不安になった時も、「人間とはこういうものだ」という考えを1つ持っていれば、動かされずにいられる時があるといいます。
品川さん自身の場合、その根本にあるのは陽明学 ── 中国・明代の王陽明が説いた儒学の一派。人は生まれながらに善い心である「良知」を持つとし、知ることと行うことの一致を重んじますです。人間は良知という素晴らしい心を持っていて、悪いことをするのはそれが汚れているからにすぎない、という性善説的な解釈をしていると話しています。
だからこそ汚れを日々磨いていけば、自分の良いものが出てくる。品川さんは、この考えを根本に持っていれば、いろいろな出来事に吹き荒らされても最後はそこへ立ち戻れると語ります。
もう1つの例は、SNSのアンチコメントです。へこみそうな時、品川さんはガンディーの「獄中からの手紙」と非暴力不服従 ── インド独立運動でガンディーが掲げた抵抗の方法。暴力は使わずに、不当な支配や命令には従わない姿勢を貫きますを思い出し、言い返さないけれど服従もしない、と考えることで心をかき乱されずにいられるといいます。
品川さんが強調するのは、思想史を網羅的に学ぶことではありません。錨になる言葉を1つでも2つでも持っていることが大切で、いろいろ知っているほど自分に合うものを選びやすくなる、という見方です。
錨になるのは偉人の言葉か、自分の「業」か?
品川さんの話を受けて、荒木博行さんは別の考えを思いついたと話します。錨になるものは、陽明学やガンディーのような偉人の思想ではないのではないか、という問題提起です。
荒木さんが哲学から学べることとして挙げるのは、「本当にそうなのか」と疑い続ける姿勢です。そうして問い詰めていった先に、経営の文脈で言えば、経営者自身の業やカルマのようなものが見えてくるといいます。
なぜか俺はこういうことを繰り返してしまうのはなぜかみたいな、そういう問いに行き着いて、あ、俺はこういう欲求を持って、こういうふうに生まれてきたから、こういう生き方しかできないんだみたいな。
荒木さんは、何人かの経営者を見ていて、ミーハーな経営者に出会うことがあると話します。新しいテクノロジーが出たから、流行っているプロダクトがあるから、と波に乗って失敗するのは、その人自身の業にたどり着いていないからではないか、と考えるようになったそうです。
一方で、自分の業をわかっている人は時代とうまく付き合っているように見えると荒木さんは言います。そうした人は哲学的ではあるものの、それは知識の話ではなく、シンプルに常に問いを立てているということだと説明しました。
陽明学の良知やガンディーの非暴力不服従など、先人の思想を自分の拠り所にする
「本当にそうなのか」と疑い続け、自分の執着や原体験にたどり着く
品川さんはこれを、知識や情報ではなく、探し求め続ける態度や姿勢そのものが錨になっているという話かと確認します。荒木さんは、行き着いたもの自体は変わりうるが、それが軸になっていく感覚だと答えています。
陳腐な結論でも、たどり着く過程に意味がある?
渡邉康太郎さんは、荒木さんの話を「失敗するか成功するか」という価値軸で語ると違う気がすると指摘します。流行りに乗り、自分の業に向き合っていなくても、売れるものは売れてしまうだろうというのが渡邉さんの見方です。
そのうえで渡邉さんが注目したのは、出演者全員が「陳腐になっちゃうけど」と前置きしながら話している姿勢でした。渡邉さんは、陳腐な結論でもよく、むしろ考えた末にそこへ戻ってくるプロセスが大事だと話します。
正直陳腐な結論でもいいんじゃないかなと個人的には思うんですけど。ただ陳腐なものに納得するプロセスが大事っていうか。
渡邉さんが例に挙げたのは、AIには身体がないから人間の身体性が大事だ、という誰もがする話です。これを現象学のメルロ=ポンティ ── 20世紀フランスの哲学者。知覚を身体を通じた世界への関わりとして捉え、身体を単なる物ではなく経験の主体として論じましたと重ね合わせると、見え方が変わるといいます。
メルロ=ポンティの考えでは、知覚は単なる情報処理ではありません。ブドウを見る時も目だけでなく、足がテーブルに近づき、首が向きを変えるように、体全体で世界に主体的に関わっているという捉え方が紹介されました。
体の間で相互作用が生まれるという間身体性 ── メルロ=ポンティの概念。他者の身体との関わりの中で、知覚や意味が共有されて生まれるという考え方ですの発想と重ねると、一見凡庸な「体の大事さ」がフレッシュに見つめ直せる、という話も出ています。結論は浅いものと変わらなくても、たどり着く過程で納得度や喜びが増すことが大事だという指摘です。
さらに、プロンプトの問答でパッと得られた答えよりも、自分の中で意味を持つものがあるなら、それは知を得たプロセスによるのかもしれない、という見方も示されました。
西洋は身体を軽んじ、東洋は身体を重んじた?
品川皓亮さんは、身体性の話を思想史と重ねると、また違う発見があると応じます。品川さんによれば、西洋哲学では古代から中世、近代まで、身体がほとんど主役として出てこなかったといいます。
(身体が)出てきたとしても、欲望に負けるものみたいな。それを理性で抑えるみたいな感じで、2000年くらいずっと言ってて。
品川さんの見立てでは、西洋で身体から物事を考えるようになったのは、ようやく現象学が登場し、メルロ=ポンティらが出てきてからです。それまでの長い間、身体はある意味で下位のものとして扱われてきました。
一方で東洋思想、インド哲学や仏教では、身体性がものすごく大事にされてきたと品川さんは話します。ヨガや密教のように、身体性と真理を切り離せないものとして考えてきた伝統があるといいます。
身体は欲望に負けるものとして理性で抑える対象。現象学以降に身体から考える流れが生まれる
ヨガや密教のように、身体性と真理を切り離せないものとして考え続けてきた
こうした思想史を知ったうえで「AI時代は身体性が大事」という言説を見ると、同じ言葉でも驚きや新鮮さが変わる、と品川さんは語ります。荒木さんはこれを「めっちゃいい」と受け止めました。
先人の言葉が、1の錨を10にも100にもする
荒木博行さんは、ここまでの話をセンスメイキング ── 組織論の概念で、人や組織が出来事に意味づけを行い「腹落ち」するプロセスのこと。経営学者カール・ワイクの研究で知られます、つまり腹落ちの話としてつなげます。わずか数十年しか生きられない人間が壮大な問いに答えるには、過去の偉人たちの辞書を参照することが大事だといいます。
僕らが出せる答えって、すごい陳腐でありきたりのことかもしれないんだけど、結局組織が動くのって、そこに腹落ちがあった時、やっぱり動くわけですよね。
品川皓亮さんは、ここで自分の中では結論っぽくなったと話します。荒木さんの「問い続ける探求が錨になる」という話と、自身の「先人の言葉が力強い錨になる」という話は、対立ではなく一つのプロセスとしてつながるといいます。
品川さんによれば、問い続けた結果、人生経験の中で「ここが錨だ」と思える場面はあり、それはそれで素晴らしい錨です。ただ、それだけでは吹き飛ばされそうな嵐がある時、思想家の言葉が錨を重くしてくれるといいます。
図書館に行って開いたこの文字、言葉があるだけで、それ(自分の錨)が10等にも100等にもなるみたいな。
問い続ける
自分の経験の中で「ここが錨だ」と思えるものに行き着く
先人の言葉と重ねる
思想家の言葉が、その錨を何倍にも重くする
腹落ちする
経営者自身がセンスメイキングできている状態になる
周囲に伝わる
経営陣や社員に、その重みや迫力が伝わる
会社を経営していると、自分の経験だけの錨では重さが足りないこともある、と品川さんは話します。錨が重くなり、社長自身が腹落ちしていれば、その重みや迫力が周りの経営陣や社員に伝わるのかもしれない、という見方です。
荒木さんはこれを、品川さんの著書『資本主義と生きていく』の話と結びつけます。対談で品川さんは、構造主義から実存主義へ至る流れの中でのサルトルの役割に、本の意味づけを重ねていたといいます。
大きな物語で構造的に捉える一方で、「俺は何のために生きているのか」という小さな物語に回帰する。荒木さんは、先人の知恵を借りることで、一人ひとりの浅い考えでも錨を大きなものにできると語りました。
品川さんは、形や言葉が同じでも重みは違うのだと応じます。自分たちが何度も「陳腐だけど」と言ってしまう理由は、言葉が同じだからこそ、その違いを伝えたいからかもしれないと話しています。
結論に意味がないなら、何に意味が宿るのか?
荒木博行さんが、今日の放送だけで「陳腐なんだけど」が何回出てきたのかと笑うと、渡邉康太郎さんは、それこそが本質だと返します。結論は箇条書きで抽出できても、箇条書きを読んだだけでは何とも思わないからです。
でも4週分聞いた人だけが至れる喜びってあるじゃん。
渡邉さんは、プロセスを経て至った箇条書きにやっと意味が宿ると話します。初見の人にはただの便利な箇条書きでも、全部聞いてきた人には「そうそう」と自分のニューロンがピカピカ光る感じがある、という表現です。
品川皓亮さんはこれを「密度」という言葉でまとめます。自身の本で注釈を大量に書き、マルクスやスミスの言葉を載せているのも密度のためだといいます。
結論として資本主義との距離感が大事ですよねって。まあそりゃそうじゃんみたいな。
品川さんによれば、同じ結論でも、外側だけそう言っているのか、ギュッと詰まった密度があるのかで、自分にとっての自信が違ってきます。密度を濃くすると錨は重くなるという役割を、思想が果たしているのかもしれないと話しています。
品川さんは、「愛が大事」のような結論は誰でも言えるとしつつ、そこに至るには問い続けることが前提として必要で、それが大きなハードルだと付け加えました。
AIが箇条書きをくれる時代に、どれだけバカができるか
荒木博行さんは、今の時代はAIに聞けば全部を箇条書きで出してくれるため、ますます結論そのものの価値がなくなると指摘します。
渡邉康太郎さんは、わかった気になれてしまうからこそ、時間をかけて本を読む、人と議論する、儲かるかわからないビジネスの一手を打つ、といった「ナンセンス」がやりづらくなると話します。意味があるのかと疑った時点で手が止まってしまうからです。
自分を半ば騙しながら一回やっちゃおうみたいな。ちょっと騙されたと思ってやっちゃおうみたいな。
渡邉さんは、こうした「頭の悪い行為」をどれだけできるかで後の楽しみが変わり、たとえ失敗しても、その積み重ねに意味があると話します。どれだけバカができるかがテーマになる可能性がある、という見方です。
結論や要点を得ること自体に価値があった
AIが箇条書きで結論を出すため、時間をかけたプロセスや「バカになる」行為に価値が移る
品川皓亮さんは、密度はプロセスからしか生まれないとわかっていれば、自信を持ってバカになれ、プロセスを味わえると応じました。荒木さんは、まだ4回ぐらい行けそうだと笑いながら、議論を締めくくりに向かわせます。
対話は、どんな像が出るかわからない彫刻
議論を終えた品川皓亮さんは「こういう感じになるのか」と驚きを口にします。荒木博行さんは、途中で「どこへ行くんだ」と不安になるでしょうと笑い、渡邉康太郎さんも必ず不安になると応じました。
荒木さんは改めて、品川さんの著書『歴史と思想で解き明かす 構造的しんどさの正体 資本主義と生きていく』を紹介しました。COTENの深井龍之介さんも特別解説で登場しているといいます。
最後に品川さんは、結論を出すことが目的ではないにせよ、自分の中でつながった感じがあったことに感謝を述べ、対話を彫刻にたとえました。
僕のイメージは彫刻刀でどんな像があるかわかんないけど、彫ってる感じなんですよ。言葉をこう彫ってる感じで。
対話していくと、その角度から彫るんだみたいな感じで、全然違う想像してなかった像が現れてくるみたいな感じで。
品川さんは、一人で考えていてはわからないことが対話でわかるとして、番組の趣旨に強く賛同したと語りました。全4回のシリーズは、こうして締めくくられています。
まとめ
哲学・思想は企業経営に役立つのかという問いに対し、この回では、思想は嵐の時代に人を支える錨であり、その重みは結論ではなく、問い続けるプロセスと先人の言葉が生む密度から来る、という見方が浮かび上がりました。
- 品川さんは、哲学や思想を大嵐であるほど効果を発揮する「錨」と捉え、陽明学やガンディーの言葉を例に挙げた
- 荒木さんは、疑い続ける姿勢の先に見える経営者自身の業こそが、時代に振り回されない軸になると語った
- 身体性のような陳腐に見える結論も、思想史と重ねることで新鮮さと重みが変わると話された
- 結論は同じでも、プロセスから生まれる「密度」が言葉の重みや組織への伝わり方を左右する
- AIが箇条書きで答えを出す時代には、時間をかけた読書や議論など「バカになる」行為の価値が増すかもしれない


