経営に効く哲学は「両極の間」にあるのか?
品川皓亮さんを迎えた「哲学・思想は企業経営に役立つのか」の対談は、この回で3週目に入ります。冒頭で渡邉さんが今の気分を尋ねると、品川さんは、この手の話を直球で話せる機会は少ないと答えています。
こういう話をこの直球ストレートで話せることってあんまり少ないので、ちょっと今かかっちゃってる感じで、すいません。
続いて渡邉さんが、前回までの議論を振り返ります。品川さんの問題設定は、哲学や歴史を経営に役立てる方法について、2つの極の間に何かがありそうだという直感でした。
品川さんが挙げた2つの極は、偉大な経営者や儒教、織田信長に直接学ぶようなわかりやすいアプローチと、主観と客観、社会と人間といったそもそも論まで遡る抽象的なアプローチです。
偉大な経営者、儒教、織田信長に学ぶ。わかりやすいが、わかりやすすぎるという難点がある
主観と客観、社会と人間を考える。意味はあるが、経営者にはトゥーマッチになり得る
品川さんは経営思想についても仮説を示していました。社是やミッション、パーパスはパブリックで綺麗な言葉に終始しがちですが、実際の経営判断ではもっと私的で非言語的な思想が意味を持っているのではないか、という仮説です。
品川さんによれば、その私的な思想を鍛え直すところに、哲学や思想ができることがあるのかもしれません。
哲学は「原液」か、それとも役立てたくないものか
前回の振り返りで、渡邉さんは足場の確認として、アリストテレスのフロネーシス ── アリストテレスが論じた「実践知」。個別の状況で何をなすべきかを適切に判断する知恵のことで、経営学者の野中郁次郎も重視した概念ですを取り上げていました。個別の状況で今何をすべきかを判断する力は、経営者に最も直接響く思考のOSになり得ます。
一方で渡邉さんは、哲学をツール化・道具化することには批判もあり、それでは「哲学風コンサル」になってしまうとも話していました。
これに対して品川さんが示したのが、哲学や思想は人生にも経営にも加工できる「生の原液」だという見方です。渡邉さんはこの見方を、個人的にすごく面白かったと振り返っています。
品川さんによれば、哲学は原液のまま知を愛し求めるために楽しむこともでき、薄めて他の用途に生かすこともできます。その懐の深さが面白いのではないか、という指摘です。
反対に、哲学を役立てたくない派の考え方も確認されました。哲学は有用性に回収されないからこそ、政府や市場やイデオロギーに動員されない独立性を持つという考え方で、東浩紀さんの議論も紹介されています。
荒木さんは前回、「どれだけ疑うか」が問題だと話していました。荒木さんによれば、会社の方向性を疑う問いはその瞬間には役に立たなくても、結果的に役立つことがあります。ただし、ノイズに終わる可能性もあります。
品川さんは、哲学は短期・中期の業績には役立たなくても、経営者の幸せな人生には役立つのではないかと話していました。哲学が小難しいのは人間への興味、ひいては人間への愛の表れではないか、という見方です。
前回の終盤では、品川さんが思想家には既存の考えを壊す「デストロイヤー」と新しいあり方を作る「ビルダー」がいると提起しました。荒木さんは、そもそも壊すからこそ作れるのではないかと問い返し、議論は次の論点へ持ち越されていました。
すべてを否定した先に何が立ち現れるのか?
品川さんは、荒木さんの「デストロイしなければビルドできないのではないか」という問いが引っかかっていたといいます。前回はヒュームを典型的なデストロイヤーとして話しましたが、品川さんはインド・中国・日本といった広い意味での東洋には、また違う視点があると切り出します。
品川さんが挙げたのは、東洋の空の思想 ── あらゆるものには固定的な実体がないとする仏教の考え方。インドの龍樹(ナーガールジュナ)が体系化したことで知られますや縁起の思想です。品川さんは、これをヒュームより2000年ほど前に語られていた究極のデストロイかもしれない、と評しています。
もう全ては空であるっていう、全てを否定して、ま、何もないもないみたいな。どういうこと?みたいな。
品川さんは、ある仏教研究者の指摘を紹介します。古代の仏教では空の否定性が強調されていましたが、龍樹を経て中国、日本へ渡るうちに、すべてを否定したあとに出てくる温かさや人間味のほうへ強調点が移っていった、という指摘です。
品川さんは日本人にはこの感覚がよくわかるとして、般若心経の「色即是空、空即是色」を例に挙げます。品川さんの説明では、色は日々の生活や感覚のことで、前段ではそれがすべて空だと言い、後段ではその空から私たちの感覚が現れてくると言っています。
色即是空
日々の生活や感覚はすべて空であり、一切ないと否定する
空即是色
何もないはずの空から、私たちの感覚が立ち現れてくる
日本の仏教
否定よりも「有」の方、生き方の方に強調が置かれる
品川さんによれば、空海や最澄、法然、親鸞、一遍、道元、日蓮といった日本の仏教者は、無を強く強調した人たちではありません。特に鎌倉仏教は、生きよう、精進しよう、南無阿弥陀仏と唱えれば慈悲が立ち現れる、といった「有」の方に重心がありました。
品川さんは、西洋哲学とは違って、東洋思想では否定のあとに立ち現れるものが生き方につながっていき、日本人はそちらに親和性があると感じています。
デカルトは疑いが甘かったのか?
空の思想の話を受けて、荒木さんは西洋のデカルトも似た構造を持っているのではないかと品川さんに尋ねます。
まあ、「我思うゆえに我あり」みたいな。まあ徹底的に初めデストロイするじゃないですか。
で、その先になんか急に神みたいのが出てきて。
品川さんも同じ認識だと答えます。品川さんによれば、デカルトは私という精神を実在として確かめたあと、神を持ち出してきたため、ヒュームから見れば疑いが甘いということになるだろうといいます。
(デカルトは)そこまで疑えなかったっていう感じだと思うので、多分徹底度とか完遂度でいうと、ヒュームよりかは浅いということになるんじゃなかろうかと。
ただし品川さんは、デカルトの疑いはそもそも方法的懐疑 ── 確実な知識に到達するために、疑いうるものをすべて一度疑ってみるデカルトの方法。疑うこと自体が目的ではありませんであり、目的はビルドの方にあったと補足します。神学やスコラ哲学を一度解体し、新しい哲学体系を立ち上げようとした人物だ、という評価です。
あの、絶対こうビルドしたかった人ですよね。スコラじゃないものを、哲学体系を立ち上げるぞって言ってやった人なんで。
荒木さんはいろいろ感想があるとしつつも、話が収拾つかなくなりそうだとして、渡邉さんに話を振ります。
文系・理系の区分は誰がつくったのか?
渡邉さんは、今の話も面白いがテーマから外れるとして、「役に立つ・役に立たない」という枠組み自体を問い直す論点に戻します。渡邉さんによれば、有用性は1つの価値軸にすぎず、それが全てである必要はない、と考えること自体が哲学的です。
渡邉さんがここで紹介したのが、隠岐さや香さんの2018年ごろの本『文系と理系はなぜ分かれたのか』です。この本は、文系・理系という区分が自然に生まれたのではなく、歴史的・政治的に構築されたことを明らかにしているといいます。
渡邉さんが紹介した内容によると、日本で文理の区別が生まれた経緯は次のような段階に整理されています。
渡邉さんは象徴的な例として、1960年に当時の松田竹千代文部大臣が、国立大の人文系学部を全廃し、理工系一本槍とせよと発言したことを挙げています。この発言は実現しませんでした。
渡邉さんが面白いと感じたのは、学問には人間をバイアスの源と捉える傾向と、人間を価値の源泉と捉える傾向がある、という指摘です。本の中では、問題は2つの文化の存在ではなく、その間で対話が足りていないことだと論じられているといいます。
渡邉さんは、この断絶は企業経営における部門間の断絶や、産業間の対話の問題にも重なるかもしれないと話します。荒木さんは、それぞれの土俵を絶対視するからおかしくなるので、対話的なものにしていけばいい、と受けています。
渡邉さんはもう1冊、東京大学出版会の『役に立たない科学が役に立つ』も紹介します。プリンストン高等研究所の昔の所長フレックスナーと、現所長ダイクラーフによる、時代をまたいだ共著という位置づけの本です。
渡邉さんによれば、フレックスナーは研究は役に立つからやるのではなく、研究すること自体が人間性の発露だと述べています。それを受けたダイクラーフは、役に立つ知識と役に立たない知識の間に境界を無理に引くのはやめよう、その境界は人為的すぎてほとんど意味がない、と語っているといいます。
おもろいけどむずいね、それ(役に立つ立たないの解体)ね。
分断は「翻訳がうまくいっていない状態」なのか
品川さんは、組織間の断絶の話と、役に立つ・立たないの区別の話こそ、哲学が大きな力を持てる場だと考えています。品川さんのキーワードは「翻訳可能性」です。
僕のイメージで言うと、翻訳可能性っていうイメージなんですね。えっと、単に対話じゃなくて、多分翻訳しないと対話が成り立たないくらいの。
品川さんは個人的な経験も語ります。中学生のころ『ソフィーの世界』で哲学を面白いと思い、高校生で竹田青嗣先生の現象学 ── フッサールが創始した哲学。客観的世界を前提とせず、意識に現れる経験そのものから世界の成り立ちを考えますの本に出会って、大学で哲学を学びたいと強く思ったといいます。
品川さんは「不正確なイメージですが」と断ったうえで、現象学を説明します。絶対的な客観世界を主観で見ているのではなく、一人一人がそれぞれの主観で違う世界を見ていて、その複数の主観が重なり合ってできたものが世界だ、という捉え方です。品川さんは、これを間主観性 ── 複数の主観のあいだで共有されることで成り立つ性質。客観性を、主観同士の重なり合いから捉え直す考え方ですと呼ぶこともあると話しています。
品川さんによれば、世界が一人一人別々でも、私たちは日常的に会話し、協力して何かを成し遂げています。それは、世界は別々でも翻訳が成り立っているからだ、という見方です。
品川さんはよく出される例として、自分が見ている緑と他人が見ている緑の感じ方が違っても、2人とも緑と呼んでいれば一旦成り立っている、という話を挙げます。
なんかその対立とか分断っていうものを絶対的な断絶として見なさず、翻訳がうまくいってないっていう風に捉え直すと、まさに問いの立て方が変わるというか。
品川さんの話では、分断の捉え方が変わると、組織について考えるときの問いの立て方も変わります。
対立や分断を、絶対的な断絶として見る。分かり合おう、対話しようだけではどうにもならない
翻訳がうまくいっていない状態と捉え直す。どうやったら翻訳できるかという問いに変わる
品川さんは、組織の断絶を翻訳するプロトコルがあればすごくいいと考えています。この見方は会社経営にもSNS論にも関わり、哲学が本領を発揮できそうな場だと品川さんは話しています。
荒木さんは、現象学という補助線があると、他人に見えている世界を見たくなるモチベーションにもなると応じます。「そっちの世界どう?」と相手の世界に関心を向けられる、という効用です。
激変する時代に、哲学はどんな意味を持つのか?
最後に渡邉さんが、次回の論点を提示します。戦争が起き、AIのニュースが日々絶えない中で、企業経営も形を変えていく可能性があり、そういう時代に哲学がどんな意味を持ちうるのか、という問いです。
いや、むしろだからこそすごく大事だと思うが、それ(哲学の意味)をこう言葉にしたいんだよなぁ。
荒木さんは、この文脈でよく語られる「VUCAの時代」や「前提を疑うことが重要」といった答えはそのとおりだとしつつ、ありきたりな答えにはしたくないと話します。次回が最終回となり、議論はそこへ持ち越されました。
まとめ
品川皓亮さんを迎えた対談の3回目は、破壊と創造の関係から、役に立つ・立たないという枠組みの問い直しへと進みました。最後は、分断を翻訳の問題として捉え直す現象学の視点が、組織や経営にも生きる可能性が示されています。
- 品川さんは、東洋の空の思想ではすべてを否定したあとに温かさや人間味が立ち現れ、生き方につながっていったと指摘しています
- 荒木さんと品川さんは、デカルトを、徹底的に疑ったうえで神を持ち出して哲学体系をビルドした人物として捉えています
- 渡邉さんは、文系・理系の区分や有用性という尺度自体が歴史的に構築されたものだという本を紹介し、役に立つ・立たないの枠組みを問い直しました
- 品川さんは、分断を絶対的な断絶ではなく翻訳がうまくいっていない状態と捉え直すことが、組織を考えるうえで哲学の力になると話しています
- 次回の最終回では、激変する時代に哲学がどんな意味を持つのかが語られる予定です


