リーダーシップ研究150年は、どこにたどり着いたのか
黒川公晴さんを迎えた超相対性理論の対話は、2回目に入りました。冒頭で渡邉康太郎さんは、自分自身もリーダーシップを取る場面が多いのに、良いリーダーでいられているのか常に自問自答していると打ち明けます。
渡邉さんは、自信のないまま「リーダーシップを語りきれるのか」という悩みごと議論に乗せていけばいい、と話の構えを示しました。
(僕は)リーダーシップを取らなきゃいけない場面が多いわりに、良いリーダーたり得ているのかって常に自問自答しているところがあり、全く自信を持って振る舞えているのかわからない。
続いて渡邉さんが前回を振り返ります。黒川さんはランナーズランナーという会社で組織人材開発に約10年携わり、その前は外務省の外交官として12年、アメリカやイスラエル・パレスチナ、霞が関で国家レベルのリーダーたちの通訳をしてきました。
黒川さんはリーダーシップを「他者や世界に対して及ぼす前向きな影響力」と捉えています。ただ、誰もが主体的にリーダーシップを取る社会はやかましすぎないか、影響を受け取る側の結果まで含めると個人の能力はどこまでを数えればいいのか、という難しさが前回から残っていました。
前回はさらに、岸田外務大臣が駐日米国大使に抗議する場面での通訳の話が出ていました。黒川さんは黒子に徹するのではなく、感情も含めて伝える通訳を選び、一言一句の変換というより「一枚の絵を再現する」ようなイメージで臨んだといいます。
荒木博行さんはそこから、リーダーシップも通訳も、関係性の中で立ち上がる「現象」なのではないかと応じました。黒川さんによれば、リーダーシップ研究の150年の歴史も、まさにその方向へ移ってきているそうです。
前回紹介されたリーダーシップ研究の変遷を、流れとして整理すると次のようになります。
特性理論
リーダーシップは生まれつきの特性だとする出発点
行動理論
何をするかという行動に注目する考え方へ移る
状況適合・類型論
状況への適合や、カリスマ型・サーバント型・変革型などの型で捉える
関係理論
関係の中で立ち現れる現象として捉える最新の見方
リーダーシップが関係の中の現象だとすると、「リーダーシップ開発とは何か」「再現性を高めるとはどういうことか」という問いが新たに立ち上がります。2回目の議論は、この問いの延長から始まりました。
「世界をどう捉えるか」から始める理由
渡邉さんはまず、リーダーシップの持ち主を大まかに分けてみせます。リーダー個人のスキルとする見方、影響を受ける集団のものとする見方、リーダーを含めた全体のものとする見方、そして事後的に評価されて決まるものとする見方です。
これを受けて荒木さんは、自身が話題にしてきたミネルヴァのプログラムに立ち返ります。荒木さんがそのプログラムで良いと感じているのは、最初のセッションがシステム思考 ── 物事を個別の要素ではなく、要素同士のつながりや相互作用の全体として捉える考え方。原因と結果が一対一で対応しない現象を理解するのに使われますから入る点だといいます。
世界をどう捉えるかっていうところから始めようっていうことなんですよ。
荒木さんによれば、機械論的な世界観に立つと、リーダーシップは個人の行為になります。予測可能な世界で原因と結果が一対一で対応しているなら、成果が出ればその人の手柄、出なければその人の責任という、わかりやすい因果で語れるからです。
一方でミネルヴァのプログラムが最初に示すのは、「世の中は創発である」という見方です。予想がつかず、結果からしか説明できない世界を深く認識すると、リーダーシップも相互作用の結果として浮かび上がるものとしか捉えられなくなる、と荒木さんは話します。
原因と結果が一対一。リーダーシップは個人の行為で、成果も責任も個人に帰属する
予測がつかず結果からしか説明できない。リーダーシップは相互作用の結果として浮かび上がる
荒木さんは、この世界観の転換こそがプログラムで最も難しい部分だと言います。転換できないとうまく伝わらない概念になり、認識できれば一段深い世界に入れる感覚があるそうです。
「創発だから」は責任放棄なのか
ここで渡邉さんが質問を投げかけます。創発的な世界観を言葉としては理解できても、それが受け入れにくいとしたら、どんな反応が起きるのかという問いです。
渡邉さんは2つのパターンを想定しました。結果を出してきた人が「俺のスキルはどうなるんだ」と反発するパターンと、リーダーシップが苦手な人が「自分のスキルの問題じゃなくていいんだ」と思考停止に陥るパターンです。
どっちでもないような気がするわけですけど、ここで目指していくべき方向性は、これどう捉えたらいいんだっけ?
黒川さんは、難しさが生じる背景を現場の事情から説明します。リーダーシップ研修と称して実際に行われているのは、多くの場合、幹部候補を育てる「リーダー育成」だというのです。
要はリーダーシップ研修とかと称して実際行ってるのってリーダー育成なんですよね。
幹部候補としてスキルを鍛えることを期待されて送られた人に、その前提をぼかすような思考の転換を求めれば、難しさが生じて当然だと黒川さんは話します。
さらに黒川さんは、リーダーシップを同じ目線で語る人が少ないことにも気づいたといいます。実績を残した人が自分の功績として語るか、第三者として「あのリーダーはダメだ」と批評するか、そのどちらかに偏っているというのです。
黒川さんは、リーダーシップを全員が発揮し得る特性だと前提を置けば、自分の触れられる範囲でどんな影響や世界をつくっているかを、我が事として語り合えるはずだと話しました。
荒木さんはこれを受けて、幹部候補育成には「結果をコントロールしなさい」という強いメッセージが込められていると指摘します。だからこそ「世界は創発だ」と言われると、責任放棄のように受け取られてしまうわけです。
だから世界は創発だなんて言ったら責任放棄じゃねえかみたいな話に感じ取られるわけですよね。
荒木さんは、黒川さんの考えを「意図した通りにはならないけれど、働きかける意味はある」という認知をつくることだとまとめます。黒川さんも同意し、結局はバランスなのだと答えました。
黒川さんがこの考えを仕事の文脈を超えて大事だと感じるのは、人生の充足感の土台になると思っているからです。結果はわからなくても、意図を持って選び、働きかける行為を重ねることが充実につながる、と黒川さんは話します。
どうなるかわかんないけど、自分はこれがいいと思っていて、だからやっぱり意図を持って選択して、こうやって働きかけるんだっていうふうな行為を連続していくことが充実につながるんじゃないかなって思っているんですよね。
黒川さんには子どもが3人いて、どんな持ち場に行っても充足して生きていってほしいと純粋に思っているそうです。そのうえで、リーダーシップは世界にどんな変化が現れたかまで含める考え方であり、その視点も重要だと付け加えました。
荒木さんは、このバランスの中身をさらに言葉にします。自分は力を及ぼせるかもしれないと信じつつ、その力の行使が本当に正しいのかを疑い続けることが、過信と放棄の間にある中庸だというのです。
荒木さんは、疑いのバランスがなければ過信に行き、疑いすぎるとニヒリズム ── 物事の価値や意味を否定し、何をしても無意味だとみなす考え方。「虚無主義」とも訳されますに陥ると話します。疑いの成分比率をどれくらいにするかという問いは、語りづらいけれど核心的な部分だといいます。
渡邉さんは、荒木さんの最近刊行された成長についての本ともつながると指摘しました。数字を達成するには問題を単純化してスキルを使うことが必要ですが、行き過ぎれば過信になり、世の中を単純化しすぎない知恵も同時に求められる、という話です。
渡邉さんはさらに、行為の影響は自分が生きている時間軸の中では感じ取れないかもしれないと加えます。荒木さんも、環境問題で正しいと思ったことが100年後に大きなしっぺ返しを受けるかもしれないと応じ、人間の知性の限界に触れました。
正しい決定はなくても、良い決定はある
黒川さんは、知的謙虚さと確信のバランスをどう取るかが大事であり、そのための自分なりの尺度を持つことが必要だと話します。これはミネルヴァでも伝えている要素の一つだそうです。
黒川さんは、大学院時代に教授から教わった意思決定の考え方を紹介しました。
黒川さんによれば、良い決定とは、自分の認知の範囲でできる限りの情報や声を拾い、熟慮を重ねて決めることです。そのうえで、その決定が正しかったと言えるように、決定後の行動を自分で重ねていくしかないといいます。
荒木さんはこれを「プロセスと結果の話」と整理します。プロセスとして良い決定でも、結果が正しいかどうかはどの尺度で切り取るかによって見え方が変わり、今正しいと思えても100年後に非難される可能性も、その逆もあるという指摘です。
だから常にそれ(評価が変わること)を受け入れる覚悟を持つってことだよね。
渡邉さんはここで、ハンナ・アーレント ── 20世紀のドイツ出身の政治哲学者。全体主義の研究で知られ、著書『人間の条件』では人間の活動を労働・仕事・行為に分けて論じましたの『人間の条件』にある「怖い発言」を思い浮かべたといいます。人は自分の人生という物語の主人公ではあっても、著者ではない、という言葉です。
(行為を)始めたのは自分、被るのも自分。でも書いているのは実は自分ではないっていうような。
渡邉さんの説明では、人の行為は必ず他人たちの間に落ちていきます。アーレントが「人間関係の網の目」と呼ぶ関係の中で糸を1本引くと、自分の知らないところで全体の形が変わるため、何かを始めた人は自分が何を始めたのかを最後まで知る術がないというのです。
そのため、行為した人が誰であったかは本人には見えず、他人からしか見えません。しかも、後から語られることでしか定まらない構図だと渡邉さんは話します。
渡邉さんはもう一つ、アーレントによる権力と暴力の区別を紹介しました。黒川さんが「暴力は所有できる」の意味を尋ねると、渡邉さんは次のように答えています。
人々が一緒に行為している間だけ存在し、散ると消える。誰も所有できず、関係性の中でのみ生まれる
道具なので1人で持てる。1人でも一方向的に発することができる
渡邉さんは、この区別を踏まえると、リーダーシップは権力と暴力のどちらなのかを考えなければならなくなると問いを広げました。
黒川さんは、網の目に線を引くように始めた行為がどう受け取られるかは計り知れず、制御もできないという点に強く共感します。受け取り方は無数にあり、ある立場の人は肯定し、真逆の立場の人は完全に否定することもあるからです。
自分がリーダーシップ実践した結果、ポジティブな変化を生むことができましたみたいなストーリーはかなり恣意的に作られたナラティブになる可能性があるなっていうのも思いますね。
荒木さんは、アーレントの「線を引く」話から、「私は何もしていません」と言う人のことを考えたといいます。けれど荒木さんによれば、何もしていないということはなく、行為しないこともまた結果として影響を及ぼしてしまうのです。
荒木さんは、どうせ影響を与えるなら自分が納得できる影響を与えたい、という気持ちこそがリーダーシップの萌芽のような気がすると話します。
どれだけ無気力に無為に生きていようと作用はしちゃってるんだから。だったらそこに自分なりの意図を込めて動いた方が楽しくない?って思うんですよね。
荒木さんは、その認知があまり許されない社会になっている感覚もあると言い、だからこそ「世界をどう捉えるか」に取り組むことが何より重要で、同時にとても難しいと繰り返しました。
平家物語は、滅びた側のリーダーシップを語り継いだ
渡邉さんは、自分で納得できる選択をしても、正しかったかはだいぶ後にしかわからず、その評価もまた変わるかもしれないと話します。そこから、前回触れた平家物語で言いたかったことを説明し始めました。
渡邉さんによれば、平家物語は誰が書いたかわからないというより、そもそも「書かれたもの」ではありません。琵琶法師 ── 琵琶を弾きながら物語を語って各地を回った盲目の僧形の芸能者。平家物語を語る「平曲」の担い手として知られますが語り継ぎ、語るたびに少しずつ変わったため、さまざまな異本があるといいます。
語り手は目の見えない人たちで、社会の中心にはいないものの、記憶力や歌の能力に優れていました。渡邉さんは、周縁にいる人たちが、しかも負けた側の話を語り継いだという点が面白いと話します。
義経も清盛も敦盛も、こう彼らが語ったから今英雄となり得ているけれども、これなんか勝者が自分の功績を記録させた的なルートじゃなくて、周縁側の語り手が滅びた側を語り続けた。
そう考えると、リーダーシップは第三者である語り手のものだという見立てもあり得る、と渡邉さんは言います。歴史の中で時間が経てば当人は散っていき、どうしても第三者が語らざるを得ない構造があるからです。
渡邉さんが個人的に大事だと考えるインサイトは、リーダーシップは勝った人だけに与えられるものではないということです。負けた側にもあり得るし、語り手によって成立するものでもあり得るといいます。
さらに渡邉さんは、日本で最も長く語り継がれてきた英雄譚が冒頭から諸行無常を語り、全員が滅びていく物語であることにも注目します。成功とは何か、リーダーシップ教育に滅びる物語は含まれているのか、という問いにも興味が向くと話しました。
荒木さんが時間の都合で締めに入ろうとしたところで、黒川さんが次回に向けた論点を2つ挙げます。
敗者だったりとか、滅びた側だったりとかの視点でリーダーシップの影響なり、それによってもたらされた物語を語るみたいなのは、どうやって現代を生きる僕らの学びになりうるんだろう。
もう一つは、黒川さんが取り組む学校教育への落とし込みです。全員で世界に作用していこうという考え方が少し危険な力を持ってしまったとき、そこから取りこぼされる子どもたちにどんな救済をすべきか、という問いを黒川さんは挙げました。
荒木さんと渡邉さんもこの論点に乗り、次回はそこから議論を進めることになりました。
まとめ
2回目の対話では、リーダーシップを創発的な世界観の中で捉え直したとき、過信でも放棄でもない「中庸」とは何かが探られました。行為の影響と評価は本人には見えず、後から他者に語られて定まるという視点が、アーレントや平家物語を通じて浮かび上がりました。
- リーダーシップ研究は、生まれつきの特性から関係の中で立ち現れる現象へと移ってきた
- 「世界は創発だ」という見方は責任放棄と受け取られやすく、力を信じつつ疑うバランスが中庸になる
- 正しい決定はその場では存在せず、熟慮して良い決定をし、正しかったと言えるよう行動を重ねるしかない
- 何もしなくても影響は及ぶからこそ、納得できる影響を与えたいという気持ちがリーダーシップの萌芽になる
- 平家物語のように、リーダーシップは負けた側や語り手によって成立することもあり得る



