完コピできない継承に「守」はあるのか
対談の出発点は、小倉ヒラクさんが講談社現代新書から出した『僕たちは伝統とどう生きるか?』です。渡邉康太郎さんは前回を振り返り、伝統的な食の土台が崩れていく中で個人に何ができるのかという問題意識から、この本が書かれたと紹介しました。
渡邉さんによると、この本は各地でものづくりに携わる人に向けて書かれています。プラトンやアリストテレスなどの思想家も登場する、原理を扱う本です。前回は、小倉さんが本の世界観に影響を与えた作品として『昭和元禄落語心中』を挙げたところまで話が進みました。
荒木博行さんが面白いと感じたのは、「ちゃんと引き継ごうとしても、人は引き継げない」という視点でした。荒木さんは守破離 ── 芸道や武道で、型を守る「守」、型を破る「破」、型から離れて独自の境地に至る「離」という修業の段階を表す言葉を例に挙げ、最初のステップである「守」とは一体何なのかと問いかけます。
僕らは違う人間だから、さらに言えば違う生き方をしているから、必ず完コピっていうのができない。
時代も地域も違えば、当然のことながらコピーしたつもりにしかなってないっていうことだよね。
荒木さんは、伝統的な考え方からはずれは失敗とみなされかねないと指摘します。そのうえで、ずれを一種の生命性として肯定する論理をカウンターとして持たないと、伝統は教条的になってしまうと受け止めました。
伝統の本体は「結果」ではなく「代謝」だった
荒木さんの受け止めに対して、小倉さんは本の根底にある問いを明かします。哲学の記述が多い今回の本は、表には出していないものの、ほとんどが「生命とは何か」という問いだといいます。
小倉さんの整理では、プラトン以来の議論は「生命は結果なのか、プロセスなのか」という対立に行き着きます。本で使った「大文字の伝統」は、生命を1つのものに還元できる結果とみる超越論的な見方に対応しています。一方の「小文字の伝統」は、プロセスの中で起こる合意形成や分岐にこそ真理があるとみる見方です。
伝統の継承という結果が重要。だから伝統は「守る」ものになる
継承の過程そのものに意味がある。伝統は「遊ぶ」「歌う」ものでもよい
小倉さんがやめたいと考えたのは、伝統をコントロールしたり俯瞰したりできる誰かの立場から書く、従来の伝統論の見方でした。
誰も伝統をジャッジできる人はいないんで、伝統の全てを自分が俯瞰して引き受けられる人もいない。
小倉さんによれば、確実に言えるのは、伝統が続いているあいだ、その時々の担い手の連なりというプロセスだけがあるということです。良い悪いは常にプロセスの中で生まれては消えていきます。繰り返される代謝がどれだけ長く続くかこそが伝統の本体ではないか、と小倉さんは考えました。
この考えが、小倉さんの中で『昭和元禄落語心中』とつながります。物語が漫画になるのは継承がうまくいかないからで、登場人物たちは八雲にも助六にもなれずに振り回されていきます。
じゃあそのこと自体が伝統の本体なんじゃないのっていうのが、この本のいくつかあるメッセージの中のかなり大きな問いかけなんですよ。
「変える」ではなく「変わってしまう」ことの意味
渡邉さんは、伝統がコントロールも俯瞰もできず、個々のプロセスの連なりの中にあるという小倉さんの話に強く納得します。渡邉さんが注目したのは、「変える」と「変わる」の違いでした。伝統は意図的に革新されるのではなく、プロセスの中でいつの間にか変わってしまうというのです。
渡邉さんは、自身の本で書いた「表現とは模倣の失敗である」という考えと重ねました。師匠と同じようにやろうとしても、身体、状況、素材に差があるため必ず差が生まれます。その差分こそが個性になっていく、という考え方です。
小倉さんの本にも、弟子が麹づくりをマニュアルではなく師匠の手さばきを見て学ぶ場面があると渡邉さんは紹介します。機械ではない以上、完全なコピーはできません。けれど、そのできなさの中に次の世代の個性が芽生えていくと渡邉さんは話しました。
渡邉さんはさらに、ガダマーの「了解」の考え方にも触れます。過去を完全に理解することは無理だと認めたうえで、そのずれを無理に埋めようとしないことがスタート地点になる、という捉え方です。
伝統はこうなんだっていう風に型にはめるところが強くなりすぎちゃうと、どんどん抑圧されていって、変化の泡沫みたいなものの芽が消えていってしまう。
ただし渡邉さんは、変化を完全に放任するのではなく、面白い変わり方へのガイドラインは作れるかもしれないとも考えます。例として挙げたのは、連句 ── 複数の人が五七五と七七の句を交互に付けて1つの作品にしていく日本の詩の形式。前の句を受けつつ展開させる細かな決まりがありますのルールや、藤原定家 ── 鎌倉時代初期の歌人。『新古今和歌集』の撰者の一人で、古歌の一部を取り入れて詠む本歌取りの作法を論じたことでも知られますが定めた本歌取りの規則です。
なぜ人は「変わらない伝統」に惹かれるのか
荒木さんは、プロセスとしての伝統に心の底から共感しつつも、別の問いを投げかけます。それでも「結果としての伝統が大事だ」という感覚が消えないのはなぜなのか、という問いです。
僕らは何か心情的に変わっていくっていうことに対する忌避感だとか恐れだとか恐怖だとか、そういうことがあるからなのでしょうか。
渡邉さんは、人は変わらないこと自体より、自分の命より長く大きなものに魅了されたいのではないかと答えます。結果として残っているものには素敵な何かがあるはずだと、近寄っていく感覚です。
小倉さんは、クラシックのトロンボーン奏者から聞いた話を持ち出します。その奏者はトロンボーンの役割を「神の顕現」だと語ったそうです。トロンボーンは3人一組でハーモニーを担い、ブルックナーの曲ではトロンボーンが鳴ると神が現れるとされます。
理由として小倉さんが紹介したのは、トロンボーンだけが完璧な和音を奏でられるという話でした。調律されたピアノのドミソは、人間の耳には実は違和感があるといいます。スライドで音程を無段階に変えられるトロンボーンは、その日のオーケストラや空間による音の揺らぎを細かく調整できるそうです。
音が揺らぐ
コンサートのたびに、オーケストラの仕上がりや空間で音が微妙に揺らぐ
無段階に調整する
トロンボーンはドとレの間の無限の音程を選べる
その場だけの和音
その空間、その聴衆でしか成し得ない完璧な和音が生まれる
小倉さんはこの話を荒木さんの問いにつなげます。全く変わっていないものを10年後に見たとき、人は「変わっていない」と安心できるのか、という問題です。
もし本当に10年後全く変わらないものをやったとしても、僕たちなんか違和感を持つかもしれない。
小倉さんによれば、それは自分の側が変わっているからです。『昭和元禄落語心中』の終盤でも、助六を継いだ与太郎のラジオを聴いた人物が「助六が戻ってきた」と感じます。小倉さんは、まんま助六ではないからこそ戻ってきたと感じられたと読み解きました。
本当に何一つ変えなかった時は、そこにはむしろ懐かしさとかないんじゃないかと思う。
小倉さんは、「昔ながら」をうたう分かりやすい権威性はブランディングやマーケティングの話だと整理します。そのうえで、もう1つの側面を挙げました。変わり続けている受け手に「これは変わっていない」と思わせること自体が、実はかなり偉大なクリエーションではないかという視点です。
かっぱえびせんも、いいちこも変わっている
荒木さんは、小さな伝統の大切さをわざわざ訴えなければならないのは、大きな伝統が強いからだと受け止めます。人に小さな伝統を愛でるセンスが備わっていれば、伝統の議論はそれほど必要ないはずだと考えたのです。
小倉さんの理解は少し違いました。本当に変わらないものには、実はあまりリアリティがないという話だといいます。能も微妙に変わっており、昔の落語は今よりずっと早口で、発音も調子も違うそうです。
その100年前の落語を聞いても、僕は全然懐かしいと思わないと思っていて。
荒木さんが「かっぱえびせんもなんだかんだアップデートしている」と応じると、小倉さんは焼酎のいいちこを例に出します。親しい三和酒類の人によれば、いいちこは30年前と味が相当変わっているそうです。
毎日食べるものが変わっていて、いいちこだけ変わらないと、30年前の人と30年後の人が飲んだ時、いいちこなんか味変わったって逆になっちゃう。
周りの酒や食べ物が変わる中で、いいちこだけ同じ味を守ると「味が変わった」と感じられてしまう
時代に合わせて味を調整し続けるからこそ、飲む人は「変わらない」と感じられる
大文字と小文字の伝統は対立していない
小倉さんは、変わらない結果を守ることがそのまま価値を生むわけではないと話します。そのうえで、執筆中に渡邉さんから受けた指摘を明かしました。大文字の伝統と小文字の伝統は、常に対比される構造なのかという指摘です。
渡邉さんは茶道を例に、大文字のものが小文字化し、小文字のものが大文字化することもあると伝えたそうです。小倉さんはこの指摘に納得し、原稿を3、4回大きく書き直しました。最終稿の後半では「大文字VS小文字」の構図をやめ、2つをレイヤーとして捉えています。
小倉さんによれば、大文字に押される小文字が顔を出すという構図では、最初から負け戦になってしまいます。むしろ、権威を再生産しているように見える大文字の伝統から小文字を読み取れるかどうかが問われるといいます。
あるいは小文字のものを本当に危機的な状態になった時に、ある種戦略的に大文字化できるかどうかとか、そういう考え方をしないといけないんじゃないか。
3%だけ変える、というずらし方
渡邉さんは、荒木さんの問いをもう一段手前の話として受け止めます。多くの人は大文字と小文字を区別せずに暮らしています。茶の湯や日本料理と聞くと固定的なイメージを持ち、変化や継承の必要性を自分ごととして感じにくいのではないか、という問題です。
そこで渡邉さんが思い出したのが、ルイ・ヴィトンで黒人として初めてクリエイティブディレクターになったヴァージル・アブロー ── アメリカのデザイナー。ストリートブランド「オフホワイト」を創設し、2018年にルイ・ヴィトンのメンズ部門のアーティスティック・ディレクターに就任しましたの「3%ルール」です。たとえばNIKEからスニーカーを依頼されても基本は同じものを作り、3%だけ変えるという信条です。
3%っていうのは裏を返すと97パーは同じってことなんだけど、97%くらい同じじゃないと、そもそもNIKEのスニーカーの系譜だっていうこと自体が認識されないんじゃないか。
渡邉さんは、50%も変えれば別のものになり、同じものとして認識できなくなると話します。ごくわずかな差だからこそ意味を持つというのです。
渡邉さんは、藤原定家の本歌取りの規則も似ていると見ます。言葉は借りてきても主題はずらし、本歌と同じものだと認識できるぎりぎりの範囲で意味をずらしていく。ずらしすぎれば本歌取りにならず、ずらさなさすぎれば剽窃に落ちてしまいます。
議論はここで時間切れとなります。今の一連の話を荒木さんがどう受け止めるのか。その答えは、次回の冒頭に持ち越されました。
まとめ
今回の対談では、伝統を守るべき結果ではなく、担い手の連なりの中で生まれては消えるプロセスとして捉える視点が示されました。人が「変わらない」と感じるものも、実は受け手の変化に合わせて微妙に調整され続けています。そのずらし方こそが伝統を生かしている、というのが議論の着地点です。
- 完全な継承は不可能で、身体・状況・素材の差から生まれるずれが次の世代の個性になる
- 小倉さんは、伝統の本体は良し悪しが生成と消滅を繰り返す「代謝」の持続だと考えている
- トロンボーンやいいちこの例のように、「変わらない」と感じさせるには微妙な調整が必要になる
- 大文字と小文字の伝統は対立ではなくレイヤーであり、互いに行き来しうる
- 3%ルールや本歌取りのように、同じものと認識できる範囲でずらすことに意味が宿る




