前回の議論はどこまで進んでいたのか
「哲学・思想は企業経営に役立つのか」をテーマにした品川皓亮さんゲスト回の2回目は、渡邉康太郎さんによる前回のおさらいから始まります。
品川さんの問題意識の前提には、資本主義の二つの見方があります。人類史のスケールで資本主義と向き合う「大きな物語」と、個人の生きづらさから資本主義を捉える「小さな物語」です。
渡邉さんは、その中間に「中くらいの物語」があり得て、個人より大きく人類より小さい会社こそが考える起点になりそうだ、と整理しました。
人類史や歴史のスケールで、人が資本主義とどう向き合うかを考える。ポスト資本主義もこの範疇
個人の視点、自分自身の生きづらさから資本主義を考える。品川さんの本はこちら寄り
前回、渡邉さんは「役に立つ派」と「役に立たないから良いのだ派」などの論点を挙げました。役に立つ派には、意思決定の質を高める、土台を建てる、長期的に役立つ、といった考え方があります。
荒木博行さんは、時間軸や空間軸を広げて物事を相対化する装置として哲学・思想が使えるのではないかと応じていました。
一方で品川さんは、哲学はあくまで知を愛したいから学ぶものだという思いと、それでも何かに役立たせてみたいという矛盾した思いの両方を抱えていると語っていました。2回目は、この問題意識の背景を品川さんが説明するところから本題に入ります。
「織田信長に学ぶ経営」と「主観と客観を疑う」の間に何があるのか
品川さんには、極と極を置いてその間を考える思考の癖があるといいます。哲学・思想や歴史を経営に役立たせる話でも、まず二つの極が見えているそうです。
一つ目の極は「織田信長に学ぶ経営論」や「儒教に学ぶ経営」のような、具体的でわかりやすいものです。品川さんは、このわかりやすさについてこう話します。
(武田信玄や織田信長に学んで)経営に生かそうっていうふうに、なんとなく分かりやすすぎる。それちょっと真髄じゃないんじゃないかなっていう気もしてるんですね。
もう一方の極は、COTENでポスト資本主義を調査するなかで経験した、世界の見方そのものを遡る思考です。主観と客観はいつ分かれたのか、西田幾多郎 ── 明治から昭和にかけて活躍した日本の哲学者。『善の研究』で知られ、主観と客観が分かれる前の「純粋経験」を論じたことで有名ですはどう考えたのか、そもそも実在はあるのか、といったところまで品川さんは遡ったといいます。
品川さん自身はその遡りに意味を感じつつも、日本の経営者にそこまで疑ってもらう必要はないのではないか、とも考えています。人生で一度くらいはあってもいいが、経営の文脈ではトゥーマッチだという感覚です。
品川さんは、この二つの極の中間に何かがありそうだという予感がある、と最初に伝えたかったと述べています。
社長を本当に動かしているのは「経営思想」なのか
品川さんがもう一つ挙げたのは、コーチとして経営者と向き合う経験から感じてきたことです。デカルトやカントといった哲学史の一歩手前に、もっと思想的なものが隠れているといいます。
品川さんはそれを「経営思想」と名付けています。多くの会社にはミッション・ビジョン・バリューがありますが、それらはパブリックなもので、言葉も整えて作られています。
そのパブリックでカチッとしたものの間を埋めるような、もっとプライベートで私的な思想とか判断軸みたいなものがすごいあるなっていう風に、むしろそっちの方が力強いなっていう感覚を(持っています)。
品川さんによれば、この経営思想には優先順位や「人間とはこういうものだ」というものの見方が生々しく表れます。言葉にはなっていなくても、社長は自覚なく判断軸を持っていて、むしろ全員が持っているといいます。
パブリックで公的なもの。言葉が綺麗に整えられ、皆に伝えるために作られている
プライベートで私的な判断軸。言葉になっていないが、意思決定に直接影響している
品川さんは、経営思想がパーパスよりも圧倒的に直接的に意思決定へ影響していると感じています。だからこそ、言葉になっていない経営思想を鍛え直すところに哲学・思想が効いてきそうだというのが、品川さんの考える本丸です。
フロネシスは経営の道具になるのか
渡邉さんは、前回挙げた「直接役に立つ」系の論点として、アリストテレスのフロネシス ── 古代ギリシャの哲学者アリストテレスが論じた「実践知」。普遍的な法則を当てはめるのではなく、具体的な状況で何が善いかを見極める知恵を指しますを挙げます。
アリストテレスは知をエピステーメー、テクネー、フロネシスに分けました。渡邉さんによれば、フロネシスは普遍法則の適用ではなく、個別の状況で今ここで何をすべきかを判断する知恵です。
経営に近づけた例として、渡邉さんは一橋大学の野中郁次郎さんの『知識創造企業』を挙げます。分析的な知性だけでなく、倫理的判断を下せるリーダーシップにフロネシスを導入した議論だといいます。
渡邉さんは、東京大学の國分功一郎さんがハイデガーの技術論を再読し、フロネシスとソフィアの対立に注目していることにも触れました。
哲学が思考のOSや判断力の基盤になるという話は、経営者にもわかりやすく流通しやすい、と渡邉さんは見ています。ただし、哲学を道具化することには批判も集まりがちだといいます。
なんかフロネシスが経営に使えるっていう風に言った時点で、哲学を何かに役立てるのはお門違いだと思っている派からすると、もはや哲学ではない、これはマネジメント技法なんでやるっていうふうな反論が起こりうるなと思います。
品川さんは、野中さんは学者でありながら現場の感覚を持ち、その直感を哲学の言葉で概念化しようとしているのだろうと応じます。そのうえで、哲学についての自分のイメージを語りました。
品川さんにとって哲学は、人生にも経営にも加工できる生の素材です。資本主義に絡め取られないためにも使えるとしたうえで、やはり自分は使いたいのだろうと率直に話しています。
「役に立たないこそ価値がある」とはどういう意味か
渡邉さんは、「役に立たないからこそ価値がある」という立場が何を言っているのかを見つめると、対立がクリアになると話します。
渡邉さんの整理では、人文学の価値は即座に有用性に回収されないことにあります。政府や市場、特定のイデオロギーに資するものになると、思想は戦争の動員や特定産業のために道具化され、学問の独立性が保てなくなるからです。
渡邉さんは、東浩紀 ── 日本の批評家・哲学者。『動物化するポストモダン』『訂正可能性の哲学』などで知られ、出版社ゲンロンを創業していますさんをこちら側の人ではないかと想像しています。東さんは、紀伊國屋じんぶん大賞の受賞時に、哲学は何も教えてくれないし人生や社会を良くするものではないと語ったそうです。
ただ、東さんは同時に、哲学は答えを追い求める日常から少しだけ自由にしてくれる、とも述べていたと渡邉さんは紹介します。
有限時間の中でちゃんと意思決定していくっていう経営の枠組みとは構造的に相容れないくらいの長尺で、どっちかっていうと議論を遅らせる方に哲学の意味があるじゃん(とも言える)。
疑わない人と疑う人、会社で役に立つのはどちらか
荒木さんは、品川さんが挙げた二つの極は「どれくらいクリティカルに疑うか」というレベル感の話ではないかと受け止めます。そして、ビジネスの現場では疑わない方が役に立つと指摘します。
そもそもこんな仕事やってて意味があるんですか?っていうやつがいるとですね、鬱陶しいわけですよね。
そんなこと言う前に、お前客先行ってこいみたいな。
荒木さんによれば、短期で数字を上げるなら、疑わずに実行できることが役に立ちます。逆に疑いを強めるほど、組織とは何か、数字に意味はあるのかと全てが疑えてきて、会社が求める「役に立つ」から離れていきます。
それでも荒木さんは、そうした人がいることで「俺らはどういう仕事を目指しているのか」という議論が起き、面倒だと思われていた人が結果的に役立つこともあると話します。ただし瞬間的には役に立たず、本当にノイズに終わって追い出される可能性もあるといいます。
疑わない
迷わず実行でき、短期の数字には役に立つ
疑いを強める
組織や数字の意味まで疑い、会社が求める「役に立つ」から離れる
結果
仕事の目的を問い直すきっかけになることもあれば、ノイズに終わることもある
荒木さんは、誰を主語にして「役に立つ」というのかで意味合いはまったく変わると述べます。さらに、疑い続ければ自我が崩壊しかねないとして、ニーチェを例に挙げました。
荒木さんの見立てでは、現状を全面的に肯定する極から、世の中は全て空だと解脱してしまう極まで、人はどこまでも行けます。そのなかで「どのメニューを選ぶか」という話だといいます。
哲学は経営者の幸せに役立つのか
品川さんは荒木さんに強く同意し、「役に立つとは何か」こそが本丸だと応じます。短期的にも中長期的にも、哲学は業績には役立たないかもしれないと品川さんは考えています。
ただ、少なくとも経営者の幸せな人生には僕結構役立つ気がしていて。
品川さんの考えでは、哲学は思考停止して何かを追い求める状態から経営者をふっと自覚させ、その人の人生や幸せに貢献し得ます。
品川さんは西洋・東洋の哲学を好んで読むなかで、思想家たちはみな人間に興味があると感じてきたそうです。興味がなければあんな小難しい話はしない、それは愛だと話し、ニーチェでさえ愛があったのだろうといいます。
疑うことについても、品川さんはスタートアップにいたら疑ってばかりではいけないと認めます。マネージャーは、意思決定までは意見を言っても、決まったらそれが正しいとして下ろす役割を演じるといいます。
哲学は「答えのない問い」を考える学問なのか
品川さんは、哲学を「答えのない問いを考える学問」と呼ぶことに違和感があると話します。善や美とは何かという問いに答えはないとしても、答えが本当にないと思って考えている人はそれほど多くないからです。
答えがあると思ってやってなかったら、ソクラテスもプラトンもあんな対話しないわけですね。
品川さんは、懐疑主義 ── 確実な知識は得られないとして、判断を保留する哲学の立場。古代ギリシャのピュロンなどに始まるとされますや相対主義のように「そもそもわからない」とする一派も認めつつ、自分はそこに与しないと述べます。会社でも「これって本当にいいんですか」と言い続けるだけでは人文知的な立場ではなく、何かがあると思うから対話が始まるのだといいます。
荒木さんはこれに同意し、暫定的に答えを出しながら訂正し続けることに重なると応じます。対話とは、自分たちの問題設定の中で何に頷けるかを交渉していくプロセスなのかもしれない、と荒木さんは考えています。
渡邉さんは、東浩紀さんの『訂正可能性の哲学』を引きます。哲学とは過去の哲学を訂正する営みの連鎖であり、正義や真理を固定せず書き換え続けるという考え方です。
渡邉さんは経営に置き換え、正解やベストプラクティスも訂正可能なものとして捉え直すべきだと話します。一つの答えに安住しない態度そのものが、経営者の幸せに寄与する可能性もあるといいます。
哲学はデストロイヤーなのか、ビルダーなのか
品川さんは、哲学の思想史には大きく二つのパターンがあると話します。疑い、解体し、批判する「デストロイヤー系」と、新しいものを作って提示する「ビルド」の方向です。
デストロイヤー系の例として、品川さんはニーチェ、資本主義を鋭く批判したマルクス、そして徹底的に全てを疑ったデイヴィッド・ヒューム ── 18世紀スコットランドの哲学者。因果関係や自我の実在さえ疑う徹底した経験論で知られ、カントにも大きな影響を与えましたを挙げます。
品川さんは、一人の思想家の中に両方がある場合もあるといいます。たとえばマルクスについて、資本主義の欠陥を指摘する側には鋭さを感じる一方、ビルドする側は違ったのではないかと考えているそうです。
疑い、解体し、批判する。これだけに着目すると「役立たず」になる
新しい世界像を作って提示する。これだけに着目すると表面的な「役立つ」になる
品川さんは、破壊する方だけを見ると役立たずになり、創造する方だけを見ると表面的に役立つものになってしまうと述べ、哲学には両方があると捉えています。
壊さずに作ることはできるのか
荒木さんは、デストロイするからこそビルドできると考えています。デストロイだけで終わる人はいても、ビルドだけの人はいないのではないかという問いです。
全ての哲学者は壊すところから始まってんじゃないの?っていう気は。つまり批判ってことですよね。
渡邉さんは、哲学者はそうかもしれないとしつつ、映画や小説のクリエイターは必ずしも批判せずにビルドできるのではないかと返します。例として、SFで新しい資本主義の在り方を描く場合を挙げました。
品川さんは、多くの哲学者は前の思想家を引いて語るため、デストロイを他の人に寄りかかりながら自分のビルドをしているとも言えると話します。例として挙げたのがフッサールの現象学 ── 20世紀初頭にフッサールが創始した哲学。意識に現れる経験そのものを出発点に、物事がどう現れるかを記述しようとしますです。
品川さんによれば、20世紀には二度の世界大戦を経て、ハイデガーを含む多くの知識人が世界の危機を指摘していました。そのなかで本当に違う世界の現れ方を示せた人は少なく、だからこそビルドの側で評価され、感銘を受けるのだといいます。
荒木さんは、あらゆる創造の原動力には「このままではいかん」という批判精神が、本人の自覚の有無を問わず含まれていると考えます。そのうえで、表現やグラデーションの問題であり、大きな論点ではないかもしれないと議論を収めました。
最後に品川さんは、デストロイとビルドに加えて、解体を重ねた先に何かが現れてくるという第三のパターンがあると予告します。東洋の思想はそちらに近いといい、第3回はその話から始まることになりました。
まとめ
2回目の議論は、哲学が経営に役立つかどうかの答えを出すより、「役に立つ」とは誰にとって何なのかを掘り下げる過程そのものになりました。社長が無自覚に持つ経営思想、疑いの度合い、暫定の答えと訂正、壊すことと作ることが、行きつ戻りつしながら語られています。
- 品川さんは、ミッション・ビジョン・バリューの間を埋める私的な「経営思想」こそ意思決定を動かしており、哲学はそれを鍛え直すのに効くと考えている
- 荒木さんは、短期の数字には疑わない方が役立つ一方、疑う人が仕事の目的を問い直すこともあり、誰を主語にするかで「役に立つ」の意味は変わると指摘した
- 品川さんは、哲学は業績には役立たないかもしれないが経営者の幸せな人生には役立つと語り、哲学者は答えがあると思うから対話するのだと述べた
- 「究極の答えはないが暫定の答えは出せる」という見方は、東浩紀さんの訂正可能性の哲学とも重なるものとして語られた
- 哲学にはデストロイとビルドの両面があり、次回は解体の先に何かが現れるという東洋思想的な第三のパターンが語られる予定





