名乗りの3つの方向性と「ホームレス3人」の振り返り
シリーズ3回目の冒頭で、室越さんは前回までで最も印象に残った点として、この場にいる3人がみなホームレスである、つまり帰属先を持たない人たちだという話を挙げました。
すごいホームレス3人でホームの話をしているっていうのがなんかちょっと面白いなと思って。
まじホームはさとか言ってるんだけど、ホームない。
続いて渡邉さんが前回までの論点を整理します。荒木さんが示した名乗りの方向性は3つあり、マーケットから見たわかりやすさ、個人の自我やありたい姿、そしてあなたと私の関係性です。
渡邉さんによると、この3つが重なれば名乗りはわかりやすいものの、実際には外れがちです。さらに自我が強いと、「人類学者です」「デザイナーです」といったシンプルな名乗りを邪魔してしまうといいます。
室越さんが前回語ったのは、人類学者には「ホームがあってフィールドに出る派」や「どこもホームじゃなくなるフィールドフィールド派」などがあるという話でした。キューバから戻って大分市役所に勤めたとき方言がわからなかった経験から、3人ともホームレスになりがちだという結論に行き着いています。
役柄が自分を作る?剥がせなくなる仮面の怖さ
ここから渡邉さんは新しい論点を出します。肩書きは役柄であり、役柄を演じるうちに役柄自体が自分を作ってしまうという、社会学者ゴフマン ── アーヴィング・ゴフマン。アメリカの社会学者で、日常の相互行為を演劇になぞらえて分析したことで知られます的な見方です。
例えばラグビー部の仮面をつけている、住友商事の仮面をつけている。で、仮面に過ぎないのに、それが自分の顔とくっついてしまうっていうことをどうしても許容できない。
渡邉さんは、前回荒木さんが話していた「一つの場所に縛られたくない」という感覚を、この仮面の癒着を止めたい気持ちとして読み解きました。荒木さんも「そうだ」と応じています。
だから、時に仮面を外して別の仮面をつけてなきゃいけないんだけど、次の投資先を見つけても、同じように仮面が癒着し始める。
火の鳥・太陽編が描く「仮面の両義性」
荒木さんが「仮面が剥がれない話」を思い出したことから、渡邉さんは手塚治虫の火の鳥 ── 手塚治虫のライフワークとされる長編漫画。古代から未来まで、時代を超えて火の鳥をめぐる物語が描かれます・太陽編を挙げます。顔の皮を剥がされて犬の頭の皮をかぶせられた男が、それと一体化して生きていく物語です。
渡邉さんは、7世紀と21世紀の日本を行き来しながら語られる構成を「やばい作品」と評しました。室越さんは物語を細かく思い出しながら、仮面の意味が時代によって異なることを指摘します。
多分犬の仮面と自分の顔が一体化している時は異形の神々と話せて、人間とも話せるっていう状態だったのが、確か最後犬の仮面を剥がされて異形の神々と話せなくなっちゃうんだと思うんですよ。
(未来の日本では)犬の仮面を被ることによって国家への従属というか、その国民になるみたいなことを強制され。
渡邉さんは「帰属ってことは仮面をかぶされて剥がせない状態にするみたいな、そういうメタファーだよね」とまとめます。これに対して室越さんは、仮面にはもっと両義的な意味があると返しました。
マージナルな存在として異なる集団の間に立ち、集団を調和させるために働く
仮面(人格矯正ヘルメット)をかぶされることで没個性化し、匿名の個人にさせられていく
渡邉さんはこれを転職や就職に重ねます。新しい組織で自分と違う自分を演じるのは、過去の自分が死ぬようなアイデンティティクライシスであると同時に、そこで初めての出会いや気づきがある体験かもしれない、と話しています。
大企業の仮面を外したあと、帰属はどこにある?
荒木さんは、仮面とべったりしすぎると、外す瞬間がアイデンティティクライシスそのものになると指摘します。大企業のように仮面の記号が大きいほど、その傾向は強まるといいます。
僕も今、同年代の同期、最初の住友商事の同期と話すことあるんだけどさ、結構仮面剥がすみたいな話になるもんね。
その仮面取った素顔の私とは何ですか?みたいな。
荒木さんは、そうしたリアルな恐れを感じる機会が多いと語ります。渡邉さんは、研究者や人類学者という名乗りは所属ではなく態度に近いので、場所が変わっても名乗り続けられるのかもしれない、と応じました。
3層の仮面と、少林寺を破門された弟子
室越さんはここで、引き剥がしやすさの違う仮面が3層あると整理します。住友商事のような会社の仮面は、外すと二度と名乗れません。一方で日本人であることは、仮に国家が滅亡して世界中に離散したとしても、なかなか引き剥がせないと想像します。
特にその日本人として、そのディアスポラ先で差別されたりとかしたら、差別されたらされるほど、ある種日本人というスティグマが自分の中にすごく深く刻み込まれていくみたいなことが起きるだろうな
3つ目が人類学者の仮面です。室越さんは31歳で大学を出たとき、もう戻ることはないと思っていました。それでも人類学者としての振る舞いは身体から抜けなかったといいます。
少林寺を破門された人みたいな感じで、酒場で酔っ払うとカンフー使っちゃうみたいな。
(大分の)市役所にいて、仕事してる時にずっとフィールドノートを取ってしまうみたいな。この人は何を言っているんだろうみたいな。
| 仮面 | 剥がしやすさ | 具体的な姿 |
|---|---|---|
| 会社 | 剥がすと二度と名乗れない | 住友商事の仮面 |
| 国家・民族 | 離散しても引き剥がせない | 差別されるほど深く刻まれる日本人というスティグマ |
| 学問の流派 | 離れても身体から抜けない | 市役所でもフィールドノートを取ってしまう人類学者 |
室越さんは、自分を正統な文化人類学者にきちんと批判される運命の、破門された弟子のように捉えていると話します。渡邉さんも、まっとうなデザイナーからはまっとうじゃないと思われているに違いない、と共感しました。
でもとはいえ、とはいえ、酒場で酔っ払うと使ってしまうのはカンフーなのであるみたいな。
仮面の下に「本物の私」はあるのか
荒木さんは、仮面の癒着が進むとどこからが仮面なのかわからなくなると話します。犬の仮面を剥がした下の素顔ですら、実は仮面かもしれないという見方です。
室越さんは、ゴフマンの議論はまさにその立場だと理解していると述べます。断定は避けつつ、社会に存在する以上、人は何らかの仮面をかぶって演劇をしているのだという解釈です。
仮面と私みたいなのをこれまで切り分けて考えてきましたけど、今の話でいうと、仮面の下の素顔みたいなのは本来的に我々には存在しないのではない。
渡邉さんはゴフマンのフロントステージ ── ゴフマンの演劇論の用語。他者の前で役柄を演じる表舞台のこと。役柄を脱いで休む場所はバックステージと呼ばれますとバックステージの区別を紹介します。客の前のウェイターや教壇の教師は役柄を演じ、厨房や楽屋では一度役柄を解く、という整理です。
役柄を演じる場所。客前のウェイター、教壇の教師など
役柄を脱ぐ場所。厨房のウェイター、楽屋の役者など
渡邉さんによれば、肩書きはしばしばフロントステージの役柄の話です。室越さんが肩書きを求められて困るのは、役柄を要求されているのに、それを演じることに疲労や承認の不足があるからかもしれない、と推測しています。
その演じるっていうのは別に嘘をついてるわけではないっていうのがあるじゃないですか。その演技っていうのは本物の社会活動で。
荒木さんも、本物の私があるという前提に立つと議論が変な方向に行きかねず、それは幻想にすぎないのかもしれない、と同意しました。
ゴフマンと孔子、そして「台本ください」
室越さんは最近読み直している論語 ── 孔子とその弟子たちの言行をまとめた儒教の古典。人間関係や社会秩序における振る舞い方が多く語られていますから、ゴフマンと孔子は基本的に同じことを言っているのではないかと話します。社会は劇場であり、人は振り付けられた役柄を演じるという見方です。
ただし孔子はそれを倫理規定にし、振り付けられた役柄を本気で演じることこそがあなた自身だと要請してくる、と室越さんは感じたといいます。
室越さんによれば、儒教が十全に機能する社会ではそれでよかったものの、21世紀の日本では役柄を振り付けられない人が出てきます。大きな会社の社員や公務員には正しい振る舞いの台本がありますが、ホームレスになるとそれがありません。
常に即興を求められているみたいなところが結構大変なポイントなのかなみたいな。だから僕の問いみたいなのを全部変換すると、台本くださいっていう話をしているのかもしれない。
儒教が機能する社会や大組織では、振る舞いの台本が与えられ、倫理的にも社会的にも承認される
帰属を持たないホームレスには台本がなく、各フロントステージで常に即興を求められる
バックステージでホームで落ち着きたいんだけど、バックステージないから、いろんなフロントステージで常に演劇を求められてて、俺この役者だっけ?って毎回思ってるみたいな。
まっとうな台本を断る理由と「全部がバックステージ」説
渡邉さんは、まっとうな人類学者としての台本ではだめなのかと尋ねます。室越さんは、その台本を渡されたら、まっとうな人類学者に頼むべきではないかと一度押し戻しているかもしれない、と答えました。
ちゃんとした役者いますってやってるかもしれないですね。なんかもうちょっと、もうちょっと泥場なら僕行きますけど。
これを受けて渡邉さんは、室越さんの状況について、実は全部がバックステージで、常に演じきれていない可能性もあるのではと投げかけます。
恐ろしいことを言われているな。
僕今39なんですけど、39でそれを言われると、えー、これからって感じがする。
室越さんは、自分の問いが中二病的なのかもしれないという指摘も含めて、「ちゃんと演じろ」という話に尽きるのかもしれないと受け止めました。渡邉さんは、室越さんをあまり知らない他者だからこそ乱暴に言える解釈だと断っています。
「お前結婚しろ」と言われた意味
室越さんは、恩師に謝りに行った際、ある先生から「お前結婚しろ」と言われたことを明かします。室越さんはそれを、文字通りの結婚ではなく、何かを決断して責任を取れという意味だと解釈しています。
そのちゃんと演じるっていうのは、社会に対して責任を取るっていうことだなと思っていて。
室越さんにとって、仲間の一人になれないという前回からの悩みは、演じることは社会に対して責任を取ることという視点でつながり直しました。
縦だけではない、横や斜めの責任の取り方
荒木さんは、先生の言わんとすることはよくわかるとしつつ、責任を中途半端に引き受ける演技の仕方もあるのではないかと話し始めます。それは荒木さん自身がそうありたいと思っているからでもあるといいます。
縦の思想ってやっぱ世の中的に結構強くて、こう何かを深掘って、その領域の専門領域まで行くっていうことで、ようやく名乗りができるみたいな、そういうこう認識っていうのが結構あったりするじゃないですか。
いろんな領域をつなぐことができるみたいなことっていうのも、多分一つの役割だし、演技方法だと僕は思うわけですよね。
ひとつの領域を深掘りし、専門を極めることで名乗りができる
いろんな領域をつなぐことも、ひとつの役割であり演技方法になる
荒木さんは、先生が縦方向の文脈で責任を持てと言っていたのなら、必ずしもそうではないと言いたい、と話しています。荒木さん自身も、専門を持ったらいいと言われているように勝手に感じ、余計なお世話だと思うことがあるそうです。
円の内側が「外」になる。ブランドと弟子という専門
室越さんは、恩師とは20年以上の付き合いなので、何にも責任を持っていないという意味だろうと受け止めつつ、荒木さんの話から好きな小説を思い出します。森博嗣 ── 工学博士でもある小説家。理系的な発想を織り込んだミステリーで知られますの『笑わない数学者』です。
小説の中で、おじいさんが公園の地面に円を描き、中に入った女の子に「線を跨がずに円から出てください」と言います。困った女の子に対し、数学者は円の内側を指して「ここが外だ」と答えるという場面です。
僕から見ると、荒木さんも、あの、こうたろうさんも、もう荒木博行というブランドだし、渡邉康太郎というブランドだなと思っていて。
室越さんは、専門を持てという助言は、誰かのディシプリンを取るのではなく、弟子を取って系譜になれという話ではないかと解釈します。すでに持っているものがすでに専門だ、というのが室越さんの見方です。
渡邉さんは、自分たちにブランドがあるかはわからないとしたうえで、もしあるなら、仕事上は半分好ましく、半分好ましくないと応じます。自分たちが逃れようとしてきた記号でもあるからです。
ある程度の記号をまとわなければ最初の仕事も来ず、人に認識されません。荒木さんがこの話の延長を次回に持ち越すと告げ、3回目は締めくくられました。
まとめ
今回の対話では、肩書きを仮面と捉えることで、仮面が顔に癒着する怖さ、素顔そのものがないかもしれないという見方、台本のない即興の苦しさ、そして演じることは責任を引き受けることだという視点が順に浮かび上がりました。最後には、誤解を含む記号さえ引き受ける可能性へと議論が進んでいます。
- 肩書きは役柄であり、演じるうちに仮面が自分の顔と癒着していく怖さがある
- 火の鳥・太陽編の仮面は、異なる集団をつなぐ力と、没個性化を強いる力の両義性を持つ
- ゴフマンの見方では仮面の下に本物の私はなく、演技は嘘ではなく本物の社会活動だとされる
- 帰属のない人は台本がなく即興を求められ、ちゃんと演じることは社会への責任を取ることと結びつく
- 専門は縦の深掘りだけでなく、領域をつなぐことや自分の系譜をつくることでも成り立ちうる


