幼稚園の先生からダンスの世界へ
藤村千恵子が運営するファンビートは、大阪市福島区で3歳から85歳までが通う、運営歴32年目のダンススクールです。
聞き手の野村昇平は、グラフィを立ち上げる前の6年間、このファンビートで初めてダンスインストラクターを務めていました。自身の師匠として藤村を紹介しています。
藤村はもともと大阪基督教短期大学で初等教育を学び、卒業後は幼稚園の先生をしていました。ダンスとの出会いは、幼稚園に勤めていた頃だったといいます。
福島区の成人式のお手伝いに行ったことがきっかけで、地元の勤労青少年本部で始まるジャズダンス教室に誘われました。
初めて伺ったら、もう先生が太陽みたいに素敵な先生で、初めてやったジャズダンスもどきが、もうこの一生につながることになったんですよ。
ダンスを本格的に始めたのは21、22歳頃。それまでは盆踊りや幼稚園のお遊戯くらいしか経験がなかったといいます。
オーナーなのに一番レッスンを受けている
ファンビートは夏と冬の年2回、発表会を開いています。藤村はそのうち8作品に出演していると話します。
作品に出るということは、その分レッスンにも通っているということです。野村はこの点をファンビートの特徴として挙げます。
ファンビートの素晴らしいというか、もうちょっと異常と言わせてもらうんですけど、オーナーが一番レッスンを受けてる。
藤村自身のクラスもありながら、他に6クラスを生徒として習っているといいます。なぜ教える側でありながら、受け続けるのでしょうか。
教える立場で一方的に良かれと思って接していても、逆に受ける立場になった時に見えてくるものがある。両方の立場が分かって、両方うまくいくんじゃないかな。
教える側と受ける側の両方を知ることで、生徒がどう受け取っているのかが見えてくる。それが気づきになり、教え方にも生きてくるという考えです。
藤村は大人になってから始めたため基礎がないことがコンプレックスで、それも受け続ける理由の一つになっていると話します。
十数人から150人へ。口コミで育ったスクール
ダンススクールを始めたきっかけも、恩師からの一言でした。幼稚園を辞めると伝えたところ、インストラクターにならないかと誘われたといいます。
退職後1か月の修行を経て、翌月から教え始めました。しかも週に50レッスンという数からのスタートでした。
一ヶ月五十レッスン言ってて。だから、もう場数ですね。
その後、娘が通っていたバレエ教室の先生から、教室を引き継いでほしいと頼まれます。ここがファンビートの直接の始まりでした。
バレエは教えられないため、当時流行していたキッズ向けのエアロビクス「キッズビクス」を取り入れ、十数人の生徒からスタートしました。
一度は生徒にバレエ教室を探すよう伝えたものの、地元で子供が踊れる環境を求める保護者が残りました。そこから広がりは一気に加速します。
翌月は兄弟の妹ちゃん、弟ちゃんが来て、その翌月には口コミで幼稚園の送り迎えの子たちが来て、その年に百五十人になってました。
親子で踊る文化を30年前から
藤村が学校を開いたのは35歳頃。幼稚園の送り迎えをするママたちにも声をかけ、キッズとママのクラスが同時に始まりました。
当時としては珍しく、赤ちゃんを連れてのレッスンも行われていました。息子を座布団に寝かせながら、ママたちがエアロビクスをしていたといいます。
最初はレッスン料を取れる環境ではなく、集会所の使用料をみんなで割る形でした。1人150円のときもあり、申し訳なく思った生徒がお米を贈ることもあったといいます。
受けてるママさんたちが申し訳ないからって言って、じゃあお米贈ろうとか。そんなところからのスタートだから。
藤村は、ダンスをしたくても機会がなかった世代のママたちが、子供を習わせることを口実に自分も参加していたと振り返ります。
子供を習わせるを口実に自分もできるかもって言って来てくれはったママさんたちもたくさんいた。きっかけさえあれば、やりたいママさんたくさんいると思う。
親子で同じ衣装を着てステージに立つスタイルも、30年前から続いてきました。当時30代だったママたちは、今では60代、70代になっています。
家族3人で作った「FUN-BEAT」という名前
最初は藤村1人での運営でしたが、娘がバレエからストリートダンスへ進み、若くして頭角を現していきます。
娘は小学生でHIP HOPのチームを組んで大会に出場し、TRFやドームツアーのダンサーオーディションにも合格しました。中学生の頃にはファンビートのインストラクターを務めるようになります。
さらにミホという生徒が育ち、藤村と娘のトモ、ミホの3人体制になりました。ファンビートという名前も、この3人でつけたものです。
ミホがファン、トモがビート、じゃあ私は間をつなぐ。
楽しむことが好きなミホが「FUN」、音楽を重視するトモが「BEAT」、そして2人をつなぐ藤村という意味が込められています。ロゴは3つの音符でできているといいます。
ダンススクールではなく「教育の場」をつくりたかった
ファンビートには現在30のクラスがあり、キッズからシニアまでが世代を超えてつながっています。上の子が下の子の面倒を見る縦のつながりも生まれています。
藤村がつくりたかったのは、ダンススクールそのものではなく、幼稚園のような「教育の場」でした。
教育の場を作りたかったと思ってスクールを始めたら、なんかその感覚を、ダンスを通して、人間社会がめっちゃいい感じ。
自由には、ある程度のルールを守ってこその自由がある。そのルールは集団の場で体得するのが一番だと藤村は考えています。
まず大切にしているのは挨拶です。ボソボソではなく、しっかり声を出して「おはようございます」と言えること。それが本人にも周りにも気持ちよさを生むといいます。
体験して体感したら、気持ちいいなと思ったら、人って気持ちいいことってリピートしたくなるやん。そしたら人が繋がるやん。
発表会では知らないジャンルに出会える面白さもあります。挨拶、思いやり、コミュニティを体験した人が、それを職場や家庭に持ち帰る。藤村はそこに社会が明るくなる可能性を見ています。
幼児は「遊び」から、シニアは「青春時代」に戻す
クラスごとに大切にしていることも異なります。とくに幼児のリトルクラスと、シニアクラスには工夫があります。
幼児クラスでは、スキルよりもまず安心感を重視します。同じ目線に立ち、ボディタッチを増やして警戒心をほぐしてから始めます。
最初は走ったり、リングを飛び越えたりする身体遊びから入ります。動物のまねをして体を動かすうちに、自然とリズムに乗っている状態をつくります。
ゾウさんの鼻って言ったらみんな手振るし、ウサギになったらピョンピョン飛び跳ねてくれるし。そこにリズム音楽を流したら、もう気がついたらリズム乗ってる。
安心感と遊びから。動物のまねなどの身体遊びを通して自然に体を動かす
お年寄り扱いをせず、昭和歌謡などで青春時代の感覚を呼び戻す
シニアクラスでは、年齢で制限せず、お年寄り扱いをしないことを大切にしています。ママさんに接するのと同じように接するといいます。
「老化」という言葉が、体に自らロックをかけてしまうこともある。だからこそ、青春時代に戻れる音楽が効果的だと藤村は話します。
桑名正博の楽曲で振り付けをすると、生徒が当時ディスコに通った話を始め、急に動きが変わったといいます。
今私の検証してる中では誰一人ボケてはれへん。ダンスは絶対認知症にならないよ。今ずっと実験していってます。
音楽を聴きながら話し、振り付けを覚えて体を動かす。間違えても笑い合える。藤村は、そこにはいいことしかないと語ります。
すべては「ご縁と感謝」でできている
32年目を迎えたファンビート。これからの展望を問われた藤村が繰り返したのは、感謝の言葉でした。
今もう本当に30年間続いていけているのは、本当に先生方のおかげなんですよ。もう先生ありきで、生徒さんが来てくださってて。
インストラクター、生徒、保護者、そして発表会を支える音響や照明のスタッフまで。すべての人とのご縁でファンビートが成り立っていると話します。
野村も、ダンススクールを始めたのは自分でも、生徒や保護者は先生を目掛けて通ってくれていると痛感すると語ります。師である藤村から、その哲学を学んでいるといいます。
まとめ
幼稚園の先生からダンスの世界に入った藤村千恵子は、教育の場をつくりたいという思いを軸に、32年続くファンビートを育ててきました。オーナーでありながら学び続ける姿勢と、世代ごとに入り口を変える工夫、そして感謝の姿勢が、一生踊り続けられる場を支えています。
- 藤村は幼稚園の先生からダンスを始め、恩師の一言でインストラクターになった
- 親子で踊る文化を30年前から実践し、口コミで生徒が広がっていった
- 目指したのはダンススクールではなく、挨拶や思いやりを育てる「教育の場」
- 幼児は遊びから、シニアは青春時代の感覚から入るなど、世代ごとに入り口を変えている
- すべては先生・生徒・保護者・スタッフとのご縁と感謝で成り立っている
