AI時代に「友達」を問い直す
この回は、前回がひと旗の宣伝のようになってしまった反省から、あえて番組の主軸から距離を取った雑談としてスタートします。
玉置さんが持ち込んだテーマは「大人になると友達ってできないよね」という話でした。
その背景には、AIが仕事や思考の多くを担うようになる時代に、人間に何が残るのかという問いがあります。
効率化が極められて暇になった世界って、人付き合いが豊かであることが人生の豊かさにつながってくると思うんですよね。
一方で、玉置さんの周りでは、この年になると友達ができないと言う人も多いといいます。
そこで玉置さんは、岡島さんに友達ができる年代かと尋ねます。
自認としては結構友達が多いし、年々増えていってますね。
「友達ができない」の理由を分解する
玉置さんは、友達ができないと言う人の理由をいくつか挙げます。
仕事で遊ぶ時間が減る、家族や子供ができて自由な時間がない、といった時間の問題です。
さらに、知り合う人が仕事上の関係で利害が絡み、友達になりづらいという声もあります。
もう一つが、昔からの友達との関係の変化です。
人生が進んでいくとコンテクストが合わなくなってきて、話題がすれ違ったり共感できなかったりする。
玉置さん自身は友達が多いと自認していますが、セレブや成功者ばかりと言われることには違和感を持っています。趣味や旅行先で出会う相手など、限定せずいろいろな人がいると話します。
そうした話を聞くうちに、玉置さんは「友達の定義って何なんだっけ」と考え始めたといいます。
時間がない
仕事や家族で自由な時間が減る
利害が絡む
仕事の延長で知り合うと友達になりづらい
文脈のずれ
昔の友達とコンテクストが合わなくなる
辞書の「互いに」に衝撃を受けた話
玉置さんは、辞書的な友達の定義を調べたと切り出します。岡島さんは「定期的に交流する人」くらいかと答えます。
玉置さんが調べたところ、友達とはお互いに心を許し合って交流している人、というのが大きな定義だったといいます。
ここで玉置さんは衝撃を受けます。自分の友達の定義には「互いに」が入っていなかったからです。
勝手に自分が相手に気を許していたりすれば、私は友達だと思ってるんですよ。
これに岡島さんも即座に共感します。
2回しか会ってないやつのことを、他の人に「こういう友達がいるんだけど」って勝手に友達ということにしてることが多いです。
玉置さんによれば、一般的には友達かどうかは相手も同じ温度かを確認しながら決めるものだといいます。互いに、と考えると関係づくりは慎重になりますが、一方的でよいと考えるとぐっと簡単になります。
相手の内心はわからない、という前提
岡島さんは、そもそも相手の内心はわからないと指摘します。
相手の内心って結局わからないから、こっちが友達って思うことしかできないなっていう、ある種の諦めがある気がして。
玉置さんは、そういう見方はむしろ珍しい派閥だと調べた結果を伝えます。一般的には双方向で確認するものらしく、自分もびっくりしたといいます。
つまり、自分が友達だと思っている相手も、内心では「知り合いですけど友達ではない」と思っているかもしれません。
それでも玉置さんは、そこは関係ないと言い切ります。
友情はゼロイチではなくグラデーション
玉置さんは、関係性に友達か友達じゃないかと白黒の名前をつけること自体に疑問を投げかけます。
友情ってそんなにあるかなしかのゼロイチじゃなくて、グラデーションだと思うんですよ。
その例として、古いコインパーキングでの出来事が語られます。
料金を払ってもゲートが上がらなくなり、居合わせた3人で困っていたところ、ゲートを持ち上げて1台ずつ出ることで協力して脱出したそうです。
たかが20分ぐらいの話だと思うんですけど、何か友情めいたものってちょっと経験するじゃないですか。
岡島さんは、それを「ちょっと戦友」と表現します。身元を交換し合うわけでもない、ほんの短い共有です。
玉置さんは、こうした小さな友情めいた経験がどれだけ積み重なれば友達と呼ぶかには、個人差があると話します。
子供の頃の学校の友達も、小さな共有が少しずつ集まって、年月をかけて友達になっていった感覚に近いといいます。
そのうえで、玉置さんは自分なりの友達の基準を示します。
相手の幸せを祈れるようになったら、もうそれは友達でいいんじゃないかなと思ってるんですよね。
条件を外せば、出会う人みんなが友達候補
玉置さんは、友達ができないと言う人は、無意識に条件をつけすぎていると指摘します。
同じ価値観でなければいけない、ライフステージが近くなければいけない、金銭感覚が同じでなければ楽しめない、といった条件です。
そうした条件を外せば、友達はいくらでもできると玉置さんは考えます。
同じじゃなくても違いを楽しめばいいと思うんですよ。
自分と違う世界の話や考え方は面白く、その違いを一緒に面白がること自体が友達のあり方の一つだといいます。
さらに玉置さんは、価値観や文脈が違っても、人としてのベースの感情は変わらないと話します。努力が実った嬉しさや、大事なものを失った悲しさは、文脈に関係なく共感できるものです。
その共感さえあれば、仕事も年齢も住む場所も違っていても友情は成立すると玉置さんは考えます。
今いる人間関係でも、職場で利害があるからと諦めるのではなく、共感できる部分や面白いところを探す見方に変えれば、友達だと思える人は増やせると玉置さんは締めくくります。
一方的な友達は、ストーカーとどう違うのか
岡島さんは、自分の友達の多くが友達の紹介や仕事、学校のつながりから生まれていると振り返りつつ、やはり勝手に友達ということにしていると認めます。
玉置さんは、勝手に友達と思えるのは幸せなことだと言います。
一方で、一方的に好きになって遊びに誘う姿勢を「ストーカーの発想じゃない?」と言われた経験も明かします。
これに対して玉置さんは、両者の違いを明確に説明します。
自分の欲望を満たすために相手を消費する
相手の幸せを願い、嫌がることはしない
相手の幸せを願ってる関係なので、相手が嫌がることはしないんですよ。
だから誘うときも、断りやすい誘い方をするのが礼儀だと玉置さんは言います。岡島さんも、言い方を含めてとても気にすると強く同意します。
相手が食事に行く関係を求めていないと感じたら、無理に誘わずLINEのやりとりだけの関係でもいい、という距離感です。断られても傷つかないという岡島さんに、玉置さんは、それも概念に互いにが入っていない友達だからだと返します。
関係性に名前をつけない、という考え方
岡島さんが、業界で恐れ多いとされる先輩と昨日一日銀座を歩いた話を挙げると、玉置さんはそういう人ほど「友達ができない」とは言わないと応じます。
岡島さんは、実績のある人ほど変にかしこまらず接することを気に入ってくれる感覚があると話します。内面はみんな普通の人間だという実感です。
玉置さんは、世の中には関係性に名前をつけたい人がいると指摘します。妻、夫、友達といった呼び名で安心したい人たちです。
しかし玉置さんは、関係性に名前をつける必要はないと考えます。
友達っていう一色ではないですよね。友達の数だけ関係性があるじゃないですか。
だからこそ、友達を作るという話にしてしまうとかえってややこしくなる、というのが玉置さんの見立てです。
友達ゼロだった過去と、たどり着いた形
ここで岡島さんが自身の経験を語ります。小学校の同級生は9人、うち男子は2人だけという環境でした。
もう1人の男子とは気が合わず、当時は男女の対立の中でつらい小学生時代を過ごしたといいます。
そのため同い年の男子とのコミュニケーションがわからず、高校1年ではクラスで1人も友達ができなかったと明かします。
1年友達ゼロで本当に辛かったんですけど、2年生から頑張って急に喋り出して、気づいたら結構友達ができて嬉しかった。
友達が欲しくても人自体がいない、最寄り駅まで7キロという環境で、岡島さんは強く孤独を感じていました。
周囲は12年間の積み重ねがある中に途中から入り、男子ノリについていけず滑ることも多かったといいます。
そうした紆余曲折を経て、岡島さんは今の「こっちが勝手に友達だと思う」形にたどり着きました。誘って断られても、合わないだけだと受け止められるスタンスです。
玉置さんは、そのたどり方こそ一方的に友達だと思えばいいという考えを裏付けていると評します。
わからないまま置く、という人間関係の楽さ
玉置さんは、あらゆる関係性で相手が自分をどう思っているかは、いくら考えても真実はわからないと話します。
相手が言葉通りに言っていることが真実かどうかもわからず、自分の推測も所詮は推測です。
一生相手の気持ちなんてわからないんだから、もう変数として処理をしていくしかないですよね。
玉置さんは、わからないまま置いておくと決めた瞬間に、あらゆる人間関係が楽になると言います。すべては自分がどう考えるか次第だからです。
自分を好きな人も嫌いな人もいるのが世の真実であり、嫌われたと思っても、そういう人もいるよねで済ませられます。
私はこの人が好きだな、友達だなと思って相手の幸せを願っていられると、非常に穏やかな人間関係の中で生きられますよね。
時間や文脈が離れても、また会える関係
玉置さんは、友達を作ろうと思えばどこでも新しい人に出会えると話します。電車で乗り合わせた人や、同じ店にいた人と友達になる可能性もあります。
偶然のきっかけがなければ、趣味の集まりに行き、一緒に感動したり奮闘したりする中で友情が芽生えることもあります。ライフステージや価値観が違っても、気の合う友達はできると玉置さんは言います。
岡島さんは、大学の友達が結婚や子育てで生活が変わり、交流が年数回に減って話が合いにくくなった面もあると振り返ります。それでも、全部がぴたりと合っていなくてもいいと感じています。
全部が常に合ってないとみたいなことってないですよね。話し合いづらいタイミングはある気もするんですけど。
玉置さんも同意しつつ、自分なりの友達の定義を補足します。感情や共感をちゃんと共有した経験があれば、何十年ぶりでも昨日別れたように会えるといいます。
時間が空いていたことを感じさせないほど普通に話せるので、一時的に時間が合わなくなることは気にしなくてよい、というのが玉置さんの結論です。
まとめ
この回は、友達の定義に含まれる「互いに」を外し、こちらが勝手に相手を友達だと思ってよいと捉え直すことで、人間関係が楽になるという話でした。相手の内心はわからないものとして置き、違いを楽しみ、相手の幸せを願える関係を積み重ねていく姿勢が語られました。
- 友達の一般的な定義には「互いに」が入るが、一方的に思うだけでよいと考えると関係づくりは楽になる
- 友情はゼロイチではなくグラデーションで、小さな共感の積み重ねや相手の幸せを祈れる気持ちが友達の基準になる
- 価値観やライフステージが違っても、違いを面白がり、人としてのベースの感情に共感できれば友情は成立する
- 相手が嫌がることをせず断りやすく誘う一方的な友達は、相手を消費するストーカーとは根本的に異なる
- 相手の気持ちは一生わからない変数として置いておくと、嫌われても傷つきにくく、穏やかな人間関係を保てる




