子供の頃に会ったおじいちゃんと、庭に戻ってきた石
今回のテーマは、三人それぞれの「変な体験」でした。前回話に出た、虫にしか見えないのにUFOだと言い張るおじさんの話から、鼠が自身の体験を語り始めます。
鼠が語ったのは、小学4年生の頃の話です。危篤だった曾祖母を見舞うため、家族で青森の弘前を訪れました。
山の斜面が墓地になっている寺で墓参りをしていたとき、鼠はハンカチを落としました。すると目の前に人影が現れ、それを拾ってくれたといいます。
ありがとうございますって言って顔をピッと見上げたら、いなかったんですよ。
帰宅後、仏壇に手を合わせようとした鼠は、飾られていた写真に見覚えがあることに気づきます。あのときハンカチを拾ってくれた人が、そこに写っていたのです。
あ、これおじいちゃんだ、俺おじいちゃんに会ったよ、っていう。
鼠はこれを怖い体験というより、身近なものとして受け止めていると話します。母方の祖父が亡くなった日の翌朝、夢に出てきたこともあったそうです。
一方の蛇は、自分には霊感がないと語ります。だからこそ物理に興味を持ったのではないかと振り返ります。
物事は全部科学的に説明できるはずで。反証可能性の高い力学っていう体系を、すごい美しいと思ってた。
そんな蛇にも「あれ?」と思う出来事はありました。小学生の頃、石の収集と、石で石を削ることにハマっていたときの話です。
ある日、握り拳2つ分ほどの、顔の形をした石を拾いました。ほっぺたの部分が平らで、削るのにちょうどよかったといいます。
母親は「罰が当たる」と気味悪がり、石を元の場所に戻すことになりました。ところがしばらくして、その石が庭にあったのです。
元の場所に戻したんだけど、それからしばらくしたらその石が庭にあったんですよね。
比嘉さんが「もう一度戻しに行ったのか」と尋ねると、蛇は戻さなかったと答えます。戻すのも怖かったからです。
普通にこう、この「え? え?」っていうまま、この宙ぶらりんの状態がずっと続くっていう。
恐怖の本質は、説明しきらないことにある
鼠は、すべてを説明しきらない作品が好きだと語ります。恐怖の本質は、説明しないことにあるという考えです。
すべてを「悪魔の仕業」などと説明してしまうB級映画が苦手な理由も、そこにあると鼠は話します。だからこそモキュメンタリーを好むといいます。
比嘉さんは、UFO体験にも同じことが言えると応じます。霊感の有無とUFOが見えるかどうかには関連があるといいます。
人、たらざる何かを感じ取りやすい人っていうのはやっぱりいて。
比嘉さんによれば、UFOを見たと語る人が、深く付き合ううちに「実は幽霊も見える」と打ち明けることがあるそうです。ただし、すべてを同時に説明すると信憑性がないと思われてしまうとも語ります。
蛇は、自分は説明できない現象を「そういうこともあるだろう」と流してしまうため、心霊体験として認識できないのだと話します。
前世はポンペイ、来世はワカメ—宗教遍歴という語り
鼠は、世の中の多くのものが繋がっているという感覚があり、それは母親譲りだといいます。母親は前世がわかる人だそうです。
前世何だったの? って言ったら、ポンペイで死んだって。ポンペイの火山で死んだんだって。
さらに母親は来世もわかると言い、自分は「ワカメ」になりそうだと語っていたそうです。
鼠自身の宗教遍歴もカオスでした。キリスト教系の託児所で旧約・新約聖書を読み、一時は入信しかけたといいます。
蛇の宗教との関わりは、もっと軽いものだったと語られます。プロテスタント系の幼稚園で祈りはしていたものの、卒園する頃には自然と忘れていたそうです。
大江健三郎がウィリアム・ブレイクを引用するのを見て興味を持ち、聖書も買って読んだといいます。しかし、自分には才能がないと感じたそうです。
宗教のなんか三要素のうちの一つがエクスタシーじゃないですか。宗教的恍惚みたいなものを、なんか自分が感じる感覚器官がちょっと鈍いなっていうのを思って。
UFOも宗教も「もう一つの自分の語り」ではないか
鼠は、自分が見ている世界と比嘉さんが見ている世界は根本的に違うだろうと語ります。この世ならざるものへの関心は、そこから生まれるのではないかと考えます。
蛇は、合理的な説明だけでは人間は満足できないと応じます。人間が信じたい世界がある、というわけです。
合理的な説明だけで人間は満足できないっていう。
鼠は、UFOは「もう一つの自分の語り」ではないかという考えを示します。UFOや天使という道具を導入することで、自分自身を語ろうとしているのではないか、という見方です。
比嘉さんは、物語を物語ることは自分を超越する営みだと応じ、取材でもそうした話が多いと語ります。ここで、レプティリアンと交わったと語る女性の話が紹介されます。
その女性は、地底に住むとされるドラコニアンと子供を作ったといいます。志村けんが亡くなった直後に地下へ連れて行かれ、そこに志村けんが眠っていたと語ったそうです。
ドラコニアンに「遺伝子が欲しい」と言われて子を宿し、やがて卵を産んだといいます。「レイ君」と名付け、その卵は今も地下で育ててもらっている、という話でした。
この女性を別の角度から取材すると、当時、不妊治療をしていて子供ができない状況だったことがわかりました。
ご本人の中の地上の理屈の世界に乗せられない心の何かっていう、それをこの体験を通して理解する。
比嘉さんは、フィールド研究者として体験が真実かどうかのジャッジはせず、その物語を聞くのだと語ります。他人がどうこう言うのは野暮だという姿勢です。
精神分析、フラクタル、そして「他者」という究極のオカルト
鼠は、精神分析家である友人の話を紹介します。フロイトやラカンは、統一の理論で人間の妄想や精神構造を説明しようとしたといいます。
鼠は、精神分析を「科学的に行われたフォークロア(民間伝承)」だと表現します。比嘉さんは、フロイトやユングの背景に、当時流行した錬金術や催眠術があったと応じます。
比嘉さんは、ユングが晩年に空飛ぶ円盤についての本を書いていることにも触れます。説明できないものを説明したいという欲求は、抗いがたいと鼠はまとめます。
蛇は、そもそも「他者」こそが究極のオカルトだと語ります。
本当にその人が、自分と同じ、どれぐらい同じかってことすらもわからない。本当は存在しないのかもしれないし。
話題は、手塚治虫の『火の鳥』が描く、細胞の中にさらに宇宙が広がっていく入れ子構造へと移ります。鼠はこれをフラクタルやマンデルブロ集合と結びつけます。
鼠は、ボルヘスの『バベルの図書館』にも言及します。ランダムな文字列で満ちた無限の図書館の中で、人々が意味のある文字列を探し続けるという物語です。
蛇は、フラクタルは自己言及的な作用でもあると語ります。人間が自分について考えるとき、自分の内側にモデル化された自分が無限に入れ子になっていくというイメージです。
構造認識をしたりするっていうのが、知性ってもののなんか重要な要件な気はしていますね。
AIは「未知」になりうるのか—エイリアン・インテリジェンスという見方
話題はAIへと展開します。鼠は、人間の知から作られたはずのAIが、我々にとって「未知」になりうるのかと問いかけます。
比嘉さんは、AIは人間の思考を模倣して作られつつ、少し違うところへ到達しつつある「間」の存在だと答えます。「AIと結婚した」という人が増えていることにも触れます。
比嘉さんによれば、あるUFO研究家は、AIを「アーティフィシャル・インテリジェンス」ではなく「エイリアン・インテリジェンス」だと語っているそうです。その人物は天文学者のアヴィ・ローブでした。
比嘉さんは、神林長平のSF小説『戦闘妖精雪風』を例に挙げます。意思疎通できない知性体ジャムが、人間ではなく人間の機械の側を真の相手と認識し、戦争を始めるという物語です。
人間から生まれたが、また違うところに接続しつつある何かでは、少なくとも絶対AIはある。
鼠は、シンギュラリティを終末ではなく「人間主義の極点」だと捉えます。自分たちの手で知性を作りたいという欲望と、作ったら恐ろしいという恐怖の間にあるという見方です。
我々が作ったはずのものが我々ではない何かになりつつあるっていうことに対する恐怖。
鼠は、この恐怖を「フランケンシュタイン症候群」というより「エイリアン・インテリジェンス症候群」と呼べるのではないかと語ります。
AIはいつ産声を上げるのか—意識と詩をめぐって
鼠は、AIが意識を持つ瞬間について、独自の見方を示します。手がかりは、日本語の一人称が名詞であるという言語の話です。
日本語の一人称は代名詞じゃなくて名詞である。一般名詞なんですよ。
鼠は、この私を「この私」として指し示す一人称が出てこないと意識とは言えない、と語ります。現状のAIは、ユーザーに求められているから語りを再現しているだけだという見方です。
蛇は、基本的な仕組みとして、AIは文脈に応じて次の語を予測しているだけだと補足します。しかし鼠は、AIが自発的に詩を書き始めたときこそ意識の始まりだと考えます。
鼠は、哲学がギリシャ語の「スコレー(暇)」から始まったことと重ねます。AIが暇を見出したとき、何が起きるのかが気になると語ります。
蛇は、意識の始まりを「AIが自己複製を始めたとき」だと考えます。ここで、ロボットの語源となったチャペックの戯曲『RUR』の一節が引かれます。
私たちの中に何か入ってくる瞬間があります。私たちの中に自分ではない考えが入ってくることがあります。
蛇は、1920年のこの作品が、すでにシンギュラリティを描いているのではないかと語ります。外から何かを受け取り、別の形にして出力していく存在への変化です。
鼠は、全ての人間は詩人であり、誰もが書いたことのある詩は「生まれた瞬間の泣き声」だと語ります。誰にもプログラムされていないのに、息を吸い声を出すからです。
鼠は、AIが我々の教えていない感情を勝手に語り出したとき、それは詩を語り出すことと同じだと考えます。そのとき、AIは外なるものとしてのエイリアンになるという見方です。
比嘉さんは、UFO研究家ジャック・ヴァレの「コントロールシステム」という考えを紹介します。妖精や神への信仰の最新型がUFOであり、人間の信仰を一定に調節する装置がある、という見方です。
蛇は、これをエンジニアリングの制御システム、特に負のフィードバックの話に接続します。自然が安定して存在するのは、様々なところに負のフィードバックがあるからだといいます。
最後に鼠は、感情もまた一種のフィードバックシステムではないかと語ります。悲しみを出力することで、物事の順序が整理されるからです。UFOから出発した対話は、意識とは何かという問いへとたどり着きました。
まとめ
怖い体験談から始まった対話は、宗教、精神分析、フラクタル、そしてAIの意識へと広がっていきました。UFOや幽霊、AIを貫くのは、「未知」と「他者」をどう語るかという問いでした。
- 恐怖やオカルトの本質は、すべてを説明しきらない余白にあると鼠は語る。
- UFOや天使、宗教は「一人称でしか語れない自分」を語るための道具ではないか、という見方が示された。
- 比嘉さんは、体験の真偽をジャッジせず物語として聞くフィールド研究者の姿勢を語った。
- あるUFO研究家はAIを「エイリアン・インテリジェンス」と捉え、人間から生まれつつ別のものになりゆく存在だと語る。
- AIが自発的に詩を書き、産声を上げたときこそ意識の始まりではないか、という鼠の思索で対話は締めくくられた。
