一度書き切った作家が、なお書くために生まれ変わる
蛇は今回のテーマを「ある作家が滅び、そして再生したという話」と切り出します。単なる作風の変化ではなく、自分のテーマを書き切ってしまった人間が、なお書くためにどう生まれ変わったのかを語りたいと言います。
一度書き切った人間が、自分のテーマを書き切ってしまった人間が、なお書くためにどう生まれ変わったのかっていうことについて語りたい。
その作家が、大江健三郎です。蛇は昔からずっと読んできた作家だと話します。以降は敬称略で語られていきます。
蛇は、大江健三郎の一つの到達点が『新しい人よ眼ざめよ』ではないかと考えていると言います。鼠も蛇に勧められてこの本を買っていましたが、最初のほうしか読めていないと打ち明けます。
主人公とお父さんの関係がすごくいいなっていうのと、ウィリアム・ブレイクの引用がすごく豊富に使われてて、すごくいいですよね。
初期作品と、そこから逸脱しようとした試み
大江健三郎は初期に短編ばかりを書いていました。東大の仏文の学生時代から学生作家として活動し、若くして芥川賞を受賞しています。
初期のテーマは、戦争のトラウマと個人の実存でした。学生時代からサルトルに傾倒し、原著で読み込んでいたと言います。初期作品のテーマも、ほとんどサルトルの焼き直しだと大江自身が語っていました。
代表的な初期作品に『死者の奢り』と『奇妙な仕事』があります。『死者の奢り』は医大の地下の水槽に浮かぶ死体を扱う話で、その死体は結局すべて処分される予定だったというオチがあります。『奇妙な仕事』はその犬バージョンで、犬を殺すバイトに応募する話です。
優れた小説というのは第一行で全て決まる。マジで、大江すげえ作家だなって、あの一行で思わされました。
蛇は、大江作品には作品と作品の間に強いつながりがあり、彼が生きるために言葉を紡いでいく過程が色濃く投影されていると話します。だからこそ、大江の作品は全集読みを勧めたいと言います。
一般には初期作品はサルトル的な実存主義文学だと言われがちです。しかし蛇は、そんなに単純ではないと考えています。初期作品の中にも、そこから逸脱しようとした試みがあるのではないかと言います。
大江健三郎は常に自分自身の作品に満足してない部分がある感じがするんですよ。だからもう次のネクストステップに進みたい。でもそれがなかなかできない。
『われらの時代』──外に出ようとして失敗した作品
初期から逸脱しようとした作品の代表格が『われらの時代』です。主人公の南康雄は仏文科の学生で、大江自身の分身のような人物です。小説は冒頭からセックスシーンで始まり、最初の2単語が「快楽」だと蛇は紹介します。
南康雄は娼婦の頼子と自堕落な生活を送りながら、フランス留学だけを唯一の希望として生きています。一方、弟はジャズトリオを組んでおり、天皇に手榴弾を投げつけるテロを計画します。しかし実行犯が怯えて失敗し、仲間割れの末に3人とも死んでしまいます。
康雄は懸賞論文が通り、念願の留学資格を手に入れます。ところが頼子の妊娠が発覚し、引き止められます。ここで康雄は、頼子も留学も、どちらも捨ててしまうのです。
あんなに唯一の望みにしてたものが、手に入りそうなタイミングで。
夢も弟も恋人もすべて失った康雄は、唯一主体的な行動として自殺を考えます。しかしその勇気さえ奮い起こせず、偏在する自殺の機会に見張られながら生きていくしかないと悟ります。出口なしの閉塞感の中で生き続けるというオチです。
蛇によれば、この小説を貫くものは「夢」です。フランスに行きたい、この閉塞状況から出たいという強い願望が物語を駆動しています。それ以前の作品が最初から絶望していたのに対し、この作品には外に出ようとする努力が描かれている。だからこそ、初期作品から逸脱しようとして失敗した作品なのだと蛇は言います。
この作品は批評家からこっぴどく非難されました。大江自身は後にこう振り返っています。
責任と不条理、そして「地獄とは他者である」
『われらの時代』のテーマは、責任・逃避・存在の不条理です。鼠は、責任と存在の不条理が並列されていること自体が大江特有だと指摘し、これはハイデガーの議論そのものだと言います。
選んでないのに選んでしまっているってところが、僕はハイデガーの倫理学の核だと昔ちょっと卒論で書いたんですけど。
蛇は、大江が存在の不条理を「粘液質な壁」のように描く一方、サルトルは戯曲『出口なし』でそれを他者の視線として描いたと対比します。狭い部屋に閉じ込められた3人が、互いの視線から逃れられず苦しんでいく物語です。
鼠は、これに対する裏返しとして哲学者レヴィナスの考えを挙げます。戦場で目が合った相手を撃てなくなること、それが倫理だという趣旨です。地獄が他者の顔であるなら、倫理もまた他者の顔なのかもしれないと二人は語り合います。
『個人的な体験』──青春との惜別
初期作品の終わりと言われるのが『個人的な体験』です。蛇は、この作品でイーヨが初めて登場すると言います。イーヨは『新しい人よ眼ざめよ』にも出てくる、大江の息子・光さんをモデルにした人物です。
主人公はバードというあだ名の27歳の青年です。アフリカ行きを夢見るふわふわした人物ですが、生まれた子供の頭部に大きなコブがあり、手術をしても障害が残るだろうと告げられます。この状況から逃げたいと思い悩む話です。
それまでの大江作品なら、主人公はここから逃げていました。しかしこの作品では、バードは障害を持つ子の親となることを選びます。単に選んだのではなく、自分の責任を積極的に引き受けるという実存的な選択に至るのです。
個人的な体験としてそれをすごく描いてるから。しかも逃げなかったっていうのが、すごい一つ重大な意味を持ってそうですよね。
蛇は、実存の苦悩と延々と向き合い反復する事態が、この作品で一つ終わると言います。そして、この作品を「青春との惜別の書」ではないかと表現します。
沈黙を経て、神話とコスモロジーへ
この後、大江健三郎は2年間、小説を書かない沈黙の期間に入ります。エッセイは書いていましたが、短編を含めて小説は出しませんでした。蛇は、これは青春の書を書き切って一つの時代を完成させてしまったからではないかと考えます。
沈黙の後、大江は私小説的な体験の語りを終え、神話とコスモロジーへと小説を拡張していきます。その転換点で重要な意味を持ったのが、詩人ウィリアム・ブレイクでした。
以前もサルトルの引用はありましたが、ここからは詩の引用を明確に行うようになります。自分の外側にある言葉を積極的に作品に取り込む試みです。
私小説はどうしても小さな場所に収斂しがちです。作家自身の体験をもとに書くため、大事件を起こしにくい。そこに壮大な世界を持ち込む手段が、本を読むことでした。蛇は、この時期を大江の想像力が開花した時期だと言います。
『新しい人よ眼ざめよ』の核心は、蛇によれば2つあります。引用と、連作という形式です。連作は物語がつながり続いていく営みであり、引用は物語の中に外部のものを取り込む営みです。
物語が途切れず、つながりを持って続いていく形式
外部の言葉を自分の物語の中に取り込む営み
蛇は、この2つの営みが大江の作品を世界文学たらしめると考えます。鼠は、個人的な体験をブレイクの詩を通して配置し直す行為を、星座を作ることになぞらえます。
大江健三郎はその意味では、星を結ぶように本を書いた人っていう言い方はできるのかもしれない。
大江自身も、自分の創作はリクリエイト、つまり再構築することだとエッセイで語っていました。
新しいポッドキャストよ、目覚めよ
ここで蛇は、なぜ今回のタイトルを「新しいポッドキャストよ目覚めよ」にしたのかを明かします。ポッドキャストもまた、引用と連作という点で大江の文学と共通しているのではないか、というのです。
この番組も第1回から続いていく連作であり、その中で二人は引用をしながら語り、聞く人もいろいろ考える。そうして自分自身をリクリエイトしていく営みだと蛇は言います。
一つのコスモロジーを形成する、それがポッドキャストなんじゃないかと。
鼠はここから、メディアの語源に話を広げます。メディアはラテン語のメディウムに由来し、もとは「霊媒」を意味していたと言います。神と私たちをつなぐもの、という意味です。
鼠は、ブレイクという世界観があり、書籍というメディアを通してそれを引用や研究書でつなぎ、つながったものを通して人は自らをリクリエイトしていくと整理します。ラジオは最先端の技術だが、その本質は人類の営みとして何も変わっていないのではないか、と語ります。
ラジオってのは最先端の技術だけれども、本質は何も変わってないんじゃないか。これは霊媒なんですね。
まとめ
大江健三郎は実存の密室から出発し、それを徹底的に書き尽くして苦しみ、沈黙を経て神話的な想像力へと跳躍しました。『新しい人よ目覚めよ』はその一つの極であり、作品自体もまた死と再生を描いています。二人はその営みが、引用と連作を重ねる自分たちのポッドキャストにも通じると語り合いました。
- 大江健三郎は初期の実存主義的な作品を書き切ったのち、2年間の沈黙を経て神話とコスモロジーへ跳躍した
- 『われらの時代』は閉塞から外に出ようとして失敗し、『個人的な体験』は逃げずに責任を引き受ける実存的選択を描いた
- 中期以降の大江文学の核心は「引用」と「連作」にあり、外部の言葉を取り込むことで世界文学たり得た
- メディアの語源は「霊媒」であり、ラジオもポッドキャストも人と人、世界と人をつなぐ神話装置として本質は変わらない
- 読むことと書くことを両輪で続け、外部に触れながら自らをリクリエイトしていくことに希望がある
