脚本を書いてよかった収録と「わからなさ」を楽しむ才能
収録を終えた二人が、ビールとナッツを片手に雑談を始めます。話はまず、今回初めて脚本を用意して収録したことの手応えに向かいます。
普段ちょっと95パーセント正しいと思ってるけど、5パーセントの確信がないから言えない、みたいなことが結構あって。それを台本を書く段階で調べられたから、話せてすごい楽しかったです。
鼠は、物理の話が真面目にフォーマット化されると、こんなにわかりやすいのかと驚いたと話します。
そのうえで鼠は、「頭がいいからできる」といった反応にはくぎを刺します。わからないものをわからないまま楽しむコンテンツも、世の中には必要だという考えからです。
わかんないものはわかんないまま楽しむっていうコンテンツも、僕は世の中に必要だと、やっぱ思ってるんで。
鼠は哲学の修士まで進んだ今も「哲学はミリ知らだ」と言います。指導教員から「あなたの論文は何が言いたいのか私にはよくわからない」と言われた経験もあるそうです。
そこから二人は、自分たちの共通点に気づきます。それは、わからないことを面白がる才能でした。
高校時代からの付き合いで、もうすぐ10年になる二人。ずっと一緒だったわけではなく、それぞれ別の界隈で活動した後、また戻ってきた関係だと振り返ります。
本棚に表れる二つの家庭の文化
鼠の部屋には来客が多く、いろんな人がいろんな反応を見せるといいます。鼠は蛇に、並んだ本棚の印象をたずねます。
鼠の本棚には、哲学の洋書や分厚い日本語書、太宰治や芥川の全集、村上春樹、語学書などが並んでいます。
蛇が気づいたのは、文庫本が少なくハードカバーが多いことでした。鼠によれば、哲学の本はそもそも文庫が少ないのだといいます。
岩波文庫の話になり、鼠は本の選定という文化的価値は間違いないものの、翻訳には当たり外れが激しいと指摘します。
鼠は、岩波の全集をすべて持っている国文学専門の友人のエピソードを、『デスノート』になぞらえて笑いながら紹介します。
教養の目を手に入れた。すると人が読んだ岩波の冊数が分かった。彼は家に岩波の全集、岩波全部あります。
話は二人の家庭の蔵書へと移ります。鼠の家では、弟は漫画、父はアメリカのハードボイルド小説、母はスピ系や児童文学やビジネス書と、家族でジャンルが分かれているそうです。
一方の蛇の家は、生物系研究者の父の専門書や現代詩、母の日本文学、姉のカミュやサルトルといった具合に、幅広い本が壁いっぱいに並んでいたといいます。
鼠はそれを「文化資本の再生産」と言い、蛇はそこに軽くツッコミを入れます。
学問は小説を書く「立ち位置」になるのか
蛇は、ビジネス書を食わず嫌いしていたが、読んでみると意外と面白く、たまに芯を食った本があると話します。鼠も『金持ち父さん』を実用寄りの良書として挙げます。
鼠は、自分の本棚から実用書を除くと小説がすべて消えると言い、哲学思想辞典もそのうち売ると口にします。
これに蛇が異を唱えます。学問のバックグラウンドは、小説を書くときに使えるのではないかというのです。
ものを考える時のバックグラウンドになるっていうことあると思うんですよ。学問を大学でやるってことは。
蛇は、社会で最低限求められる力は中学までの知識だとしたうえで、大学は専門的な一つの分野に突き進む場だと語ります。
その専門性は、社会の問題に対して「自分の立場からはこう見える」と主張するための土台になる、という考えです。
鼠が「小説を書くのに役立つのか」と問うと、蛇は物語と語りの構造の話へ踏み込みます。
蛇は、作家と語り手が一致してしまうのは病理的で危険だと言います。自分を保つには「自分はこういう人間だ」という自覚が必要で、その定義の土台に学問的バックグラウンドがなり得るというのです。
作家と語り手が一致しちゃうっていうのは、病理的な問題だと思ってて、すごい精神的に危険だと思います、小説家にとって。
蛇は自身を「物理学を信じている人間」と定義します。世の中の現象は基本的に数学で記述できると考えることが、唯一揺らがない立場だといいます。
小説は揺らぎの中にあるから。作家がそこの揺らぎに合わせて揺らいでいくと、すごいどんどん病的な感じになっていく。
「サッカ」と「サッカー」、言葉の不思議
話の途中、鼠は蛇が「作家」を「サッカー」と発音していることが気になっていたと打ち明けます。
蛇によれば、それは無意識の使い分けでした。ふつうの作家は「サッカ」、カギカッコ付きの特別な意味のときは「サッカー」と言っているというのです。
鼠はこれを、物理を「ブツリ」と発音するような感覚だと言い換えます。蛇は、日本語では語尾や形態素がつくと意味が変わると応じます。
二人は、言葉を使うことを生業にしていながら、言葉についてはほとんどわかっていないと笑い合います。
言葉については何もわかってない。でも言葉についてわかってなくても小説は書けますから。
型があるから壊せる、番組のフォーマット観
鼠は、実は今回のほかに撮り溜めた雑談があったものの、支離滅裂で面白くないのでボツにしたと明かします。
その経験から、言いたいことがあるときは、きちんとフォーマットに乗せて伝えたほうがいいと感じたといいます。
鼠は、自由律俳句のように形式を破壊した表現も、主張の「主」があってこその破壊だと語ります。
形式を破壊したとか、これまでの常識を打破したみたいなのあるじゃないですか。でもそれってやっぱ主張の主があってこそ。
そこから、番組の方針が見えてきます。脚本のある回を型として持ちつつ、今回のような雑談回も混ぜていくというものです。
番組のコンセプトは、あぐらをかいて自由に語ること。実際に鼠は半分あぐらをかきながら話しており、二人はここが原点だと確認します。
物理や哲学は二人にとっても、聞き手にとっても難しいテーマです。鼠は、蛇担当の回では水族館やイワシの群れの例を出して工夫したと振り返ります。
蛇は、イワシの群れは自分の研究に近く、より深く話せると応じ、次回のテーマ候補になります。
数学の厳密さと、哲学の論文が持つ手ざわり
二人は、講読という深い読書会形式の授業や、物理での輪読の話から、数学の厳密さへと話を進めます。
蛇は、ベクトルを例に挙げます。高校では「向きと大きさを持った量」と習いますが、大学の数学ではまったく違う定義が与えられるというのです。
10次元空間の方向って何ですか。方向っていうのは、あっちとかそっちとか指さしてるものですよね。それは物理的実体だけれども、抽象概念に落とし込んだ時に意味があるとは限らない。
蛇は手元の『線形代数入門』を開き、96ページになってようやくベクトルのちゃんとした定義が登場すると示します。定義には8個の公理が必要だといいます。
鼠は、当たり前に見える結合法則や交換法則を満たすものは何でも線形空間になる、と気づきます。蛇は、これをやらないと数学をやる意味がないと応じます。
蛇は統計力学の教科書も持参していました。統計力学とは、統計に力学があるのではなく、統計的に力学を扱う分野だと説明します。
蛇は、マクロを扱う熱力学と、ミクロを扱う量子力学をつなぐ理論として統計力学が生まれた経緯を語ります。
ベクトルの厳密な定義に8個の公理を要し、数式で一意に定めていく
エッセイのように問いを立て、生の無意味さやアイロニーを言葉で論じる
対して鼠は、哲学者トマス・ネーゲルの本を開きます。「人生の意味さ」という論文を朗読し、これがエッセイのようだと感じると話します。
ネーゲルは、生の無意味さの感覚を英雄的な絶望や芝居がかった態度ではなく、アイロニーをもって受け入れればよいと結論づけます。
我々は自分の無意味な人生に、英雄的勇敢さや絶望によってではなく、アイロニーをもって取り組めば良いのである。
二人は、こうした理系と文系の本の手ざわりの違いそのものに、学問の可能性を感じると語り合います。
学問は服を着ることに似ている、番組の意義
鼠は、学問としての哲学がいかに特殊かを語ります。企業が「我々の哲学」と言うとき、学者は鼻で笑いがちですが、鼠はどちらも同じ言葉で語られる事実の方を重視すべきだと考えます。
蛇は、学問を「服を着ること」に例えます。思考や価値観は誰もが避けられないもので、極める人から最低限参加する人まで、幅広いスペクトルがあるという見立てです。
ファッションに全然興味がない人も、服を着ないで歩くことはないですよね。学問もそういうところがあると思ってて。
蛇は、経済からも科学からも哲学からも、完全にゼロの距離を取ることはできないと言います。誰もが何かしら関わっているというのです。
鼠は、専門家が誠実に厳密に問いを立てる営みに敬意を持つと語ります。同時に、自分は大学院で妥当性へのこだわりが弱かったかもしれない、と省みます。
そのうえで二人は、番組の役割を、立てられた問いを楽しみ、橋渡しをすることに置きたいと語ります。
鼠は、世の中にある面白い問いと、それに答えた人を紹介したいと言います。小説もまた問いであり、三島なら「私とは何か」、太宰なら「人生の悲惨」だと挙げます。
自己治療としてのラジオ、アイロニーとユーモア
蛇は、アカデミアにとって意味のある問いとは別に、自分たちの人生にとって意味のある問いが存在すると語ります。二人の話が混ざる中でそうした問いが生まれ、解答の兆しが見えたら面白いというのです。
鼠は、今の自分たちがある種の絶望の中にいることを認めます。それでも悲惨の中に喜びを見出し、アイロニーをもって迎えたいと話します。
鼠は、この番組が自分たち自身への治療であると同時に、治療以上の生産的な意味を持ちうると考えます。
蛇は、そこに精神科医ヴィクトール・フランクルを重ねます。極限状態から実存的な療法を着想し、その柱にユーモアを置いた人物です。
その時に必要になるのは、柱っていうのがあって、それはユーモアであるって言うんですよ、彼は。
鼠は、太宰治が自己回復のために多くの小説を書いたのではないかという蛇の見方に同意します。回復しているときの太宰の文章は調子がよく、面白いと言います。
一方で鼠は、三島由紀夫を、自己回復を拒み、自己回復への嫌悪に駆動された人物として対比させます。
鼠は、三島が語り手としての「作家・三島由紀夫」を、本名の平岡公威から分離したと読み解きます。肉体を鍛えたことも、その治療への欲求の表れだと指摘します。
二人は次回のテーマとして「文学と自己治療」を語り合うことを約束します。
自己回復のために小説を書き、回復しているときの文章は調子がよく面白い
自己回復を拒み、語り手としての作家と本名の平岡公威を分離した
まとめ
収録後の雑談から見えてきたのは、物理と哲学という異なる分野を「わからないまま楽しむ」二人が、立てられた問いを橋渡しし、悲惨の中にユーモアを見出そうとする番組の原点でした。
- 脚本という型を持つことで、言いたいことをきちんと伝えられると二人は実感しています。
- 学問は小説を書く際の「立ち位置」になり得るという蛇の考えが、番組の方向性の軸になっています。
- 数式で一意に定める理系の教科書と、問いを言葉で論じる哲学の論文は、手ざわりが大きく異なります。
- 番組の役割は、専門家が立てた面白い問いを紹介し、聞き手へ橋渡しすることに置かれています。
- ラジオは二人自身への治療であり、アイロニーとユーモアをもって語ることが出発点になっています。
