コーヒーの選択から始まる問い
蛇は、春や秋のコーヒー屋での迷いを話し始めます。暑ければアイス、寒ければホットと決まっているのに、暑くも寒くもない季節は選ぶ基準がないというのです。
結局その日はホットコーヒーを選んだと言います。ホットを注文したことは事実です。
しかし蛇は、そこから別の疑問が湧いてきたと続けます。アイスコーヒーを買った自分は存在するのか、という問いです。
そのコーヒーで、ホットコーヒーじゃなくてアイスコーヒーを買った私っていうのは存在するのか?
もしかして今のがテーマですか?ちなみに言うんですけど、それ僕がやろうとしてたテーマなんで、盗まないでもらえます?
鼠は哲学のテーマだと指摘しますが、蛇はこれを物理の話だと言います。この回のテーマは「選ばなかった人生は存在するのか。量子力学の決定論と実在論」です。
蛇は、進路などで「あの時ああしていれば」と反実仮想をするとき、選ばなかった選択を選んだ自分のイメージが頭の中にあると話します。これを量子力学の視点から考えていくと宣言します。
物理なので、一応私が勉強してきたことなんで、私が嘘物理を拡散すると、非常に害悪だと。
蛇は、間違った物理を広めないよう気をつけたいと前置きします。今回の話は科学哲学と物理が交差する場所の話だと言います。
確率と可能世界を整理する
蛇はまず「可能性」とは何かを問います。鼠は、現実に対して未来にその事象がどれくらい起こり得たかの度合いだと答えます。
蛇は、可能性とは未来に対する見込みのようなものだと整理します。そして最も古典的な立場では、可能性は私たちの知識の不完全さを表しているのだと説明します。
現在の状況をすべて知っていれば、未来は一意に決まるはず、という考え方です。鼠はこれをラプラスの悪魔19世紀の数学者ラプラスが想定した、ある瞬間の全ての粒子の状態を知れば過去も未来も完全に計算できるとする仮想的な知性。決定論の象徴として語られる。だと指摘します。
ただし私たちは現在の情報をすべては知りえません。サイコロも古典力学に従うので、投げる瞬間の動きが完全にわかれば何が出るか予想できるはずですが、現実にはわからないと蛇は言います。
蛇は、起こりうる結果の一覧を標本空間確率論で、起こりうる結果すべてを集めた集合のこと。サイコロなら1から6までの目の集合を指す。と呼び、確率はそのそれぞれに数を割り当てる対応だと説明します。
確率には2つの公理があると蛇は言います。負にならないこと、そして足し合わせると1になることです。
確率は負の値にならない
すべての確率を足し合わせると1(100%)になる
サイコロで各目が6分の1になるのは、立方体という対称性があるからだと蛇は言います。だからどの目も同じくらい出るだろうと推論します。これが「同様に確からしい」の正体です。
話は対称性へと広がります。蛇は、対称性とはある変換に対して不変であることだと説明します。サイコロを回しても同じ形に戻るのが一例です。
可能世界という考え方
蛇は、サイコロの1が出る世界、2が出る世界というように、それぞれを1つの世界として考えられると言います。鼠は、哲学にも可能世界現実とは別に「あり得たかもしれない世界」を想定する考え方。哲学では論理式による厳密な定義が試みられ、命題の真偽を考える枠組みとして使われる。という概念があると応じます。
鼠は、哲学の可能世界は文法であり言葉に近いと説明します。一方で確率論の可能世界は、現実に対応するラベルのような、もっと軽い意味合いだと蛇は言います。
量子力学では、すべての可能世界がだいたい同じ確率で現れると仮定する場合があると蛇は続けます。これを等重率の原理と呼びます。
蛇は水槽の魚を例に出します。同じ構造の魚それぞれに泳ぐ方向という条件を与えて、全体の状態を計算するイメージです。
ここで蛇はエルゴード仮説系を長い時間放置したときの時間的な平均と、ある瞬間の空間的な平均が一致するとする仮説。統計力学で系の振る舞いを扱う際の前提となる。を紹介します。系を放置していくと、魚の群れが最終的にバラバラに広がっていくように、典型的な状態へ向かうというものです。
だから墨汁を水にポコンって入れたら、最終的に何もしないで放置しておいても混ざりきる状態。
まさにその通りです。
蛇は、この平衡状態がエントロピー系の乱雑さ・ばらけ具合を表す量。放置された系はエントロピーが増える方向、つまりよりばらけた状態へ向かうとされる。が最大になった非常に典型的な状態だと説明します。可能世界は量子力学の中で、計算のレベルまで実際に使われているのです。
振る前と振った後、可能世界はどこへ行くのか
蛇は、サイコロを振る前は6つの可能世界が並んでいたのに、振って1が出た瞬間、世界は1つに収束すると指摘します。
では、2が出る世界や3が出る世界は消えたのか、それともそもそもなかったのか。これが問題になると蛇は言います。
今、起こりうる未来の候補っていう話をしたんだけれども、これが単なる想像だったのか、それとも何かしら実体を持ったものなのか。
数を割り当てて数学的に扱える対象ではあったものの、それが本当に存在するのかはまだ言えません。ここから物理の話に入ると、可能世界が単なるラベルでは済まなくなるかもしれない、と蛇は予告します。
波動関数とシュレーディンガー方程式
蛇は、ここからは本格的な量子力学の話になると断ります。鼠は、あぐらで聞ける話のつもりが授業を受けさせられていると笑います。
量子力学では物理系の状態を波動関数量子力学で系の状態を表す関数。記号ψ(プサイ)で表され、その系について知りうる情報がすべて含まれているとされる。で表すと蛇は説明します。波動関数には、その系のすべての情報が含まれているといいます。
本当に?過言じゃない?だいぶ過言じゃない?
いやいや、そうなんですよ。これ以上知ることはできないっていうのが一般的な解釈ですね。
古典力学では、位置と運動量を決めれば系を完全に記述できます。大砲がどこに落ちるかも、ある時刻の位置と運動量が完璧にわかれば決定できると蛇は言います。
量子力学の説明にはスピン粒子が持つ角運動量のような性質。磁石のような向きを持つが、観測すると上向きか下向きのどちらかに定まるという特徴がある。がわかりやすいと蛇は言います。スピンは空間的にはどの方向を向いていてもよいのに、観測すると上か下に定まってしまうのです。
鼠は「重ね合わせ」が不思議だと言います。日常では布を重ねてもどちらが上か決まっているのに、物理では同時に存在するらしいからです。
イメージとしては、映画のフィルムみたいな感じかもしれない。一枚のフィルムに、もう一つ映画のフィルムをかましたら、2つの映画がぐちゃぐちゃに重なってるみたいな。
蛇は、波動関数を解くと上向き何パーセント、下向き何パーセントという形で出てくると説明します。しかもこれは規格化条件も非負性も満たしています。
ユニタリ性という驚き
蛇は、シュレーディンガー方程式はユニタリ量子力学で、確率の総和が1のまま保たれ、情報が失われない変換の性質。系の状態が時間とともに滑らかに、可逆的に変化することを意味する。という性質を持つと言います。これは確率の総和が1のまま保たれ、情報が失われないという性質です。
情報が失われないとは、古典論の世界を考えるとわかりやすいと蛇は言います。着弾の瞬間の位置と運動量が完璧にわかれば、誰が撃ってきたかもわかるのです。
でも今のすごい、逆に言うと今、情報が失われないって話にフォーカスすると、推理小説成立しなくなりますよね。
古典論では現在の状態が完璧にわかれば、未来永劫も過去永劫も予測でき、情報は失われません。そして驚くべきことに、シュレーディンガー方程式もユニタリなのだと蛇は言います。
シュレーディンガー方程式は連続的であるし、ユニタリ、情報が失われてもいないんですよ。これはだからパズルですよね。
蛇はここで注意を促します。ユニタリなのはシュレーディンガー方程式そのものであって、量子力学がそう主張しているわけではありません。
確率的で離散的な性質は、シュレーディンガー方程式には組み込まれていない、と蛇は言います。では、なぜ確率が出てきてしまうのか。ここで観測の問題が登場します。
観測と波動関数の収縮
観測すると何が起こるのか。スピンの重ね合わせ状態は連続的に変化しますが、観測した瞬間に上か下に一意に定まり、連続性も情報も失われると蛇は説明します。
上か下かの2つの情報しか残らないため、過去に何が起こったかがわからなくなります。連続的だったものが、ぎゅっと1つに収縮するのです。
上向き何%・下向き何%の重ね合わせ。連続的でユニタリ、情報も保たれている
観測により100%上または100%下に収縮。連続性もユニタリ性も情報も失われる
蛇は、これを波動関数の収縮観測によって、重ね合わせ状態が特定の一つの状態に瞬間的に定まる現象。連続的でユニタリな変化とは異なる、量子力学の解釈上の難問とされる。と呼びます。ユニタリで決定論的なものが崩壊し、非ユニタリで確率的な変化が起こってしまうのです。
この二重のルールをどう解釈するか。ここから解釈の問題に入っていきます。鼠は、これまでの説明を自分の言葉でまとめ直し、方程式から導かれる現象をどう理解すればいいかが問題なのだと確認します。
コペンハーゲン解釈——語り得ないものには沈黙する
最も標準的な教科書に必ず載っているのがコペンハーゲン解釈量子力学の標準的な解釈。波動関数を実在ではなく観測結果を予測する道具とみなし、観測前の状態については語らない立場。ボルンの確率解釈とも呼ばれる。だと蛇は言います。ボーアやハイゼンベルクらによるものです。
この立場は、二重のルールをそのまま受け入れて使いましょうというものです。なぜそうなるかには深く立ち入らないと蛇は説明します。
蛇は、波動関数は物理的実在ではなく、観測結果を予測するための道具に過ぎない、というのがこの解釈だと整理します。観測前にスピンが上か下かは決まっておらず、ただ確率のみが存在するのです。
実験的にも、波動関数が出す確率はうまく機能します。50パーセントと出る系なら、試行回数を増やすほど結果は50パーセントに収束していくと蛇は言います。これは大数の法則試行回数を増やすほど、実際に起こる割合が理論上の確率に近づいていくという法則。です。
ここで蛇は、この解釈が何を捨てたかを問います。決定論は完全に捨てられ、実在論も半分捨てられています。
実在しないとは主張してない。だけど、実在については語り得ないっていうのが、このコペンハーゲン解釈で、語ってもしょうがない、それはナンセンスだっていう。
鼠は「シュレーディンガーの猫について我々は沈黙しなければならない」と、ウィトゲンシュタイン20世紀の哲学者。『論理哲学論考』で「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」と述べた。鼠が敬愛する哲学者として登場する。の言葉になぞらえます。
アインシュタインの反論とEPRパラドックス
このコペンハーゲン解釈に異を唱えたのがアインシュタインだと蛇は言います。皮肉なことに、彼は前期量子力学の立役者でもありました。
アインシュタインは強い意味での実在論者であり、局所実在論物事は観測されなくても実在しており、なおかつ影響が光の速さを超えて瞬時に伝わることはないとする立場。アインシュタインが支持した。の立場を取っていました。局所性とは、影響が光の速さを超えて伝わってはいけないという仮定です。
神はサイコロを振らない。
月は見ていなくてもそこにある。
蛇は、これらの世界観からするとコペンハーゲン解釈は受け入れ難かったのだと説明します。そこでアインシュタインは、ポドルスキー、ローゼンと共にEPRパラドックスアインシュタインらが1935年の論文で提起した思考実験。量子力学の記述が不完全であることを示そうとしたが、後に実験によって量子力学側が正しいことが確かめられた。を提起しました。
1935年の4ページの論文で、彼らは「量子力学による物理的現実の記述は完全とみなせるのか」と問い、不完全だと結論づけたと蛇は言います。
論文の出発点は局所実在論を物理的要請として認めることでした。すると、量子もつれ2つの粒子が結びつき、片方を観測すると離れたもう片方の状態も瞬時に定まる現象。量子エンタングルメントとも呼ばれる。により、光より速く情報が伝わってしまう、だから量子力学は間違っている、という論理です。
ところが皮肉なことに、量子テレポーテーションは実験的に確認されてしまいました。アインシュタイン自身の反証のアイデアによって、量子力学の正しさが裏づけられたのです。
蛇は、天才でも新しい理論を認めるのは難しいという話も添えます。アインシュタインは時代を先取るアイデアを出しながら、後の世代のボーアらの主張は認め難かったのです。
多世界解釈と、解釈をめぐる着地
コペンハーゲン解釈がEPRに勝ったとしても、収縮の説明は何もされていないと蛇は指摘します。そこで登場するのが多世界解釈観測による波動関数の収縮は起こらず、確率の数だけ世界が分岐していくとする解釈。決定論的で実在論的だが、無数の世界が増えていくという代償を持つ。です。
多世界解釈では、そもそも収縮は存在しないと考えます。上を見た自分がいる世界線と、下を見た自分がいる世界線に分かれていくのです。
上を見た俺のいる世界線と、下を見た俺がいる世界線とに分かれるってこと?
そうです。上を見た人もいるし、下を見た人もいる。
これなら収縮が起こらず、世界を連続的でユニタリな描像で表現できます。強い意味で決定論的かつ実在論的である代わりに、世界が無限に増えてしまうのです。
観測で波動関数が1つに収縮する。決定論を捨て、実在については語らない。標準的な立場
収縮は起こらず、確率の数だけ世界が分岐する。決定論的・実在論的だが、世界が無限に増える
蛇は自分は多世界解釈が好きだと明かしつつ、最後の1個のパズルのピースがはまらないと言います。ほかにも世界の数を減らそうとしたボーム解釈多世界解釈より世界の数を減らそうとする量子力学の解釈。その代償として、遠隔作用(瞬間的な影響)を認めることになる。がありますが、こちらは遠隔作用を認めることになります。
蛇は、多くの解釈がどれも同じ実験結果を予測するため、実験では区別できないと言います。これを経験的同値性複数の理論や解釈が、観測される結果においては同じ予測を与え、実験で優劣をつけられない状態のこと。と呼びます。
鼠は、完璧な理論は存在しないという自身の信条を語ります。蛇は、判断材料が足りないという見方もできると応じ、どの解釈を取るかは個人の趣味の問題になっていくと言います。
直感というものは、そもそも古典的世界に根差して作られた人間の認知的システムに過ぎない。と考えれば、これが量子力学においても適用されるとは限らない。
そして蛇は最初の問いに戻ります。選ばれなかった人生は存在するのか。答えは解釈次第だと言います。
多世界解釈なら存在し、コペンハーゲン解釈なら問うこと自体が無意味になります。ただ、どちらが正しいかはまだわかっておらず、今後の研究で判明するかもしれません。
まとめ
コーヒーの選択という日常の迷いから始まった話は、量子力学のいくつもの解釈をめぐって「選ばなかった人生は存在するか」という問いへと着地しました。答えは、どの解釈を取るかによって変わります。
- シュレーディンガー方程式そのものは連続的でユニタリであり、情報も失われない。「量子力学イコール確率的・離散的」というイメージは半分しか正しくない。
- 確率と収縮の問題をどう理解するかで、コペンハーゲン解釈、多世界解釈、ボーム解釈など複数の立場が生まれる。
- コペンハーゲン解釈は決定論を捨て、実在については語らない立場。多世界解釈は収縮を認めず、確率の数だけ世界が分岐すると考える。
- 多くの解釈は同じ実験結果を予測するため実験で区別できず、どれを取るかは個人の趣味の問題になりうる(経験的同値性)。
- 選ばなかった人生が存在するかは解釈次第。答えが定まらないからこそ、この世界は可能性に開かれているとも言える。
