心療内科通いから始まる太宰治回
番組は鼠による『人間失格』冒頭の朗読から始まります。「恥の多い生涯を送ってきました」という一節を受け、蛇が「どうしたんですか、いきなり」と反応します。
今回のテーマは太宰治ですが、鼠は最近心療内科に通っていることを明かします。アカデミアにいた頃のトラウマが、遅れて効いてきているといいます。
やっぱ孤独ですからね。
嫌な時こそ本を読むに限る、ということで、鼠が選んだのは『人間失格』ではなく初期作の『道化の華』でした。
二人はまず、太宰の作品について語り合います。蛇が一番好きな作品として挙げたのは、王道の『人間失格』でした。
初めて読んだ時ね、やっぱなんかこれは俺だみたいな、その自意識、絶対あの小説持つと思うんだよな。
鼠は、太宰を読む者は自意識が肥大し、その状態で人に勧めるため、自意識が無限に大きくなっていくと冗談めかして語ります。
太宰治は実験小説の旗手だった
鼠は初期の太宰について、独自の見方を提示します。それは「実験小説の旗手」だったという捉え方です。
実験文学とは、文学の可能性を推し量る運動のようなものだと鼠は説明します。太宰の『虚構の春』を例に挙げます。
『虚構の春』は、太宰が実際にもらった手紙だけで書かれた作品です。虚構の物語を書くのではなく、ある方法を使って虚構を組み立てている点が実験的だといいます。
蛇は、絵文字を純文学的な文体に取り込んだ滝本ばら{要確認: 滝本野バラ}の例などを挙げます。鼠はさらに、実験文学の代表としてジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』を挙げました。
『ユリシーズ』が長い理由は、西洋最古の文学作品のひとつ『オデュッセイア』と構造を対応させているからだと鼠は説明します。
さらに鼠は、時間を入れ替える文学としてテッド・チャンの『あなたの人生の物語』を挙げます。蛇はアポリネールの、文字の配置そのものが意味を持つカリグラムを紹介しました。
鼠は、太宰がこうした実験的な試みを初期に果敢に行っていたと指摘します。しかし、その側面はあまり深く論じられていないといいます。
初期の太宰のイメージってやっぱないんですよ。『走れメロス』とか、あっちにこうやっぱ引っ張られてしまっている。
その後の太宰は古典を再解釈する方向へ進んだため、時代を一度逆行したような独特の立ち位置にいると鼠は評します。
書き手「僕」が顔を出す『道化の華』の構造
ここから『道化の華』本編の話に入ります。主人公は大庭葉蔵ですが、書き手の「僕」がしばしば作中に顔を出す構造になっています。
鼠は該当箇所を朗読します。「大庭葉蔵はベッドの上に座って沖を見ていた。沖は雨で煙っていた」という描写のすぐ後に、書き手が割り込んでくるのです。
夢より覚め、僕がこの数行を読み返し、その醜さと嫌らしさに消えも入りたい思いをする。やれやれ、大仰極まったり。第一、大庭葉蔵とは何事であろう。
書き手が自作をボロクソに批評したかと思えば、また物語に戻っていきます。鼠は、映画を一時停止して監督が自作をこき下ろしているようだと表現します。
大庭葉蔵という名前について、「この姓名からしてすでに画期的ではないか」と自賛したすぐ後に、「よそう、己を嘲るのはさもしいことである」と反省してみせます。
蛇は、この構造を前回扱った大江健三郎と対比します。大江が作家自身を主人公に据えて「僕」と名乗らせるのに対し、太宰は分身を眺める視点を別に登場させると指摘します。
太宰治の分身的なキャラクターを出すときに、なんかそこから一歩距離を置いて、それを眺める自分を別に登場させて書くっていうのが面白いなと。
鼠は、自分を眺める自我と素の自分という反省の構造こそ『道化の華』のポイントだと応じます。
24歳の太宰と、心中を書いた原体験
この作品が書かれたとき、太宰は24歳でした。蛇はその若さに驚きます。
鼠は、太宰が晩年以前の習作段階からすでに文学的なエッセンスを備えていたと語ります。作家として生まれるために生まれてきたようだ、と二人は評します。
24歳の太宰はすでに小夜{要確認: 初よ}という女性と結婚していました。その結婚の前後、太宰はバーの女給と心中を図り、自分だけ生き残っています。その経験をもとに書かれたのが『道化の華』です。
太宰は心中に2度失敗し、3度目で亡くなりました。3度目には橋に手の跡が残っており、自分だけ生き残ろうとしたのではないかとも言われています。
作品読んでて理由なくだけどそう思いますね。
鼠は、そうした自己演出めいた部分こそ、太宰を嫌う人が嫌う点なのだろうと分析します。
四日間に救われる物語のあらすじ
ここで鼠が作品のあらすじを整理します。舞台は海際の療養施設で、大庭葉蔵と友人の飛田・小菅、葉蔵の兄、看護師の真野らが登場します。
海で女性だけが死に、自分だけ助かった葉蔵のもとに友人たちが見舞いに来ます。物語は病室での四日間を中心に進みます。
葉蔵の兄が登場する場面で、書き手の太宰がまた顔を出します。せっかくの演出が台無しだと発狂するのです。
許してくれ、みんな僕のわざとしたことなのだ。僕はこの小説の描写の間に、僕という男の顔を出させて、ずるい考えがあってのことなのだ。
そのうえで、なぜこんな自己劇化した小説を書くのかという問いに対し、太宰は「復讐」と一言だけ答えます。
物語の後半、崖の上に立った葉蔵が「飛び降りれば楽になる」とほっとする場面を、鼠は特に共感できる箇所として朗読します。
借金もアカデミーも故郷も後悔も傑作も恥もマルクス主義も、それから友達も森も花も、もうどうだって良いのだ。それに気がついた時には、僕はあの岩の上で笑ったな。ほっとするよ。
鼠は、日常を構成するものを並べ、それを抱えなくてよいことにほっとする心境は、実際に自殺する人の心境に近いと語ります。
その直後、友人の飛田が放つ一言に鼠は強く惹かれます。
誘惑するなよ。
短い言葉のやりとりの中に、いろんな感情とか背景が織り込まれてるじゃないですか。
さらに最終日、談笑の場面で語られる一節を鼠は朗読します。四日間という短い時間に人生を超える価値を見出す言葉です。
鼠は、この一瞬の中に永遠を見出す感受性に自分は強く反応すると語ります。蛇は、それは文学の本質そのものではないかと応じます。
人間の生を描こうとした時にさ、文字っていうすごい限定された情報の中に詰まってるじゃないですか。
鼠は、この四日間に救われた自身の読書体験を明かし、人生すべてがハッピーでなくてよいと教えてくれた作品だと語ります。
道化とは何か、そして一人称の問題
鼠は「道化の華」というタイトルの意味を考えます。物語を一行で要約すると、女を連れて死のうとした男が生き延び、人の情に触れてまた生きようと思う話だといいます。
鍵になるのは「道化」の範囲です。『人間失格』ははっきり「道化を演じていた」と語るのに対し、『道化の華』は作家であるがゆえに道化になるという方向から描かれていると鼠は分析します。
作品の中の体験は道化でも何でもなくて本心なんだけど、僕はそれを作家として俯瞰してしまうと、もうどうしてもそれは道化になってしまうんだ。でもその道化で生きてる生活の中に華があるんだっていう意味の『道化の華』なのかな。
蛇は、太宰が自己破壊的でありながら同時に自分を守ろうとする作家だと指摘します。私小説で面白い経験を書こうとすれば生死や愛に踏み込まざるを得ず、そのとき道化が生活を守る安全装置として働いたのではないか、というのです。
鼠は、三島由紀夫の『仮面の告白』と対比します。三島が作家として生きるために平岡公威を死なせたのに対し、太宰は本心を隠しながらも、反省できる人であるがゆえにそれが漏れてしまうといいます。
一人称単数では絶対に描き切れない私を描いた作品っていう言い方をしたいんですよ。
なぜ大庭葉蔵という他者を主人公にしたのか。それは「私」を何かを通して現前化させることで反省の構造が生まれ、作品が平面から立体に変わるからだと鼠は説明します。
さらに『人間失格』の一人称が「自分」である点にも注目します。鼠は辞書を引き、「自分」の語源が「自らの部をわきまえる」ことにあると知ります。
自分の部をわきまえて最適な振る舞いをしていたのに、道化を演じてしまって、結局のところ部をわきまえず自分の我が出てしまっています、という。
蛇は、『人間失格』に装飾されていないものを書こうとする試みと、小説的巧みさで覆われていく動きの、二つの分裂した心理の争いを感じると語ります。
『道化の華』は太宰版『風の歌を聴け』である
深めのテーマに入ったところで、鼠が本題の新説を提示します。『道化の華』は現代のある有名作家のデビュー作と酷似しているというのです。蛇はすぐ村上春樹だと言い当てます。
鼠は二作の違いと共通点を整理します。時代も状況も舞台も異なりますが、友人との短い期間の出来事を、劇的な事件なしに描く点が共通しています。
書き手の「僕」が物語に割り込み、四日間の療養生活を語る。自己劇化を自覚しつつ書く。
語り手の「僕」が余談を挟み、二週間ほどの出来事を描く。「やれやれ」の態度で書く。
どちらも文章の途中で書き手が語り出し、名残惜しさとともにフェードアウトして終わる点が似ていると鼠は指摘します。蛇は、観客に考えさせるブレヒトの異化効果にも通じると補足します。
鼠が挙げる決定的な違いは「やれやれ」です。太宰は決して「やれやれ」と書かないが、書いている時は必ずそう思っているはずだといいます。
太宰がめちゃくちゃ自己劇化してくるけれども、絶対一旦その経験を吸収する「やれやれ」があるはずなんですよ。
その「やれやれ」がかき消え、「でも僕は」だけが文章に残るため、読者は違和感を覚える。だからこそ太宰は「やれやれ」以上のことを語りたくなってしまった村上春樹だ、と鼠はまとめます。
作家とは生きてしまった生き物である
最後に鼠が結論を語ります。太宰と村上は、ともに共産主義運動が激化した時代に生まれ、そこから距離を取った作家だという共通点があります。
鼠は、作家になるためには一度死に、そこから復活しなければならないと語ります。これは前回の大江健三郎回と一致する結論でもあります。
太宰は二つの意味で作家をやめた人だと鼠はいいます。ひとつは自殺による死、もうひとつは心中や共産主義運動への傾倒の前の経験を一度飲み込んだこと、それを鼠は「死」と呼びます。
復活した作家は、復活前の自分とずれてしまう。それでも「これは私なんだ」と自らを補正し続けたところに、太宰の宿命的なあり方があると鼠は評します。
蛇は、太宰には生死の乗り越えだけでなく恥の乗り越えもあったと補足し、作品『恥』の一節を朗読します。
小説家なんてつまらない。人間のクズだわ。嘘ばっかり書いている。凄まじいや、あんなの淫祀と言うんじゃないかしら。
蛇は、こうした自己批判すら語ってしまい、なおかつそれに「やれやれ」と構えられるところに太宰の器の大きさがあると語ります。
鼠は最後に、二作の理解はパルプ・フィクションやゴダールの作品理解に似ていると付け加えます。巨大なプロットに頼らずとも、その先にあるものを読み取る鑑賞力を文学から得たい、というのが今回の結論です。
まとめ
初期の太宰治を実験小説の旗手として捉え直し、書き手が顔を出す『道化の華』の構造を手がかりに、村上春樹『風の歌を聴け』と重ねた回でした。四日間に救われる物語を通して、道化と本心、一人称の問題、そして作家という存在のあり方までが語られました。
- 初期の太宰は、手紙のコラージュや書き手の介入など、実験小説的な試みを果敢に行っていた
- 『道化の華』は、作家として俯瞰すると本心が道化になってしまう、その生活の中に華があるという構造を持つ
- 他者を主人公に置くことで反省の構造が生まれ、作品が平面から立体になると鼠は分析する
- 書き手が割り込み、短い期間を劇的でなく描く点で、『道化の華』は『風の歌を聴け』と重なる
- 作家とは一度死んで復活した「生きてしまった生き物」であり、それでも自分を補正し続ける点に太宰の宿命がある
