「ネズミくん」と呼んだ金持ちのおじさん
鼠という名前の由来は、初回でも触れた通り、村上春樹の小説だけが理由ではありません。バーの隣の席に座った金持ちのおじさんが「ネズミくん」と呼んだことが、その名の始まりです。
出会ったのは去年の夏頃。深夜2時半に飲んでいたとき、ふらっと入ってきたおじさんが隣に座り、24歳で村上春樹を知っている鼠に興味を持ちました。
おお、君面白いね。君は村上春樹の「風の歌を聴け」に来てくれるネズミ君にそっくりだから、君のことは今日からネズミくんと呼ぼう
変なおじさんだと思いつつも、それ以来会うたびに飲み代を全部出してくれるため、鼠は敬意を込めて「金持ちおじさん」と呼んでいます。ここでは仮にMさんとしておきます。
修論で追い込まれた夜の電話
話は、鼠が修士論文を出し終えた頃にさかのぼります。メンタルが追い込まれ、指導教員にも取り合ってもらえず、睡眠薬がないと眠れないほど重症の状態でした。
そんな夜、辛さを抱えてベッドに横になっていた鼠に、Mさんから電話がかかってきます。
ネズミくん、今来れる?
なんだけどさ、バニーガールに興味ない?
近所のバーに呼び出されると、そこにはMさんと、その古い知り合いの男性2人がいました。鼠はビールを出され、社会見学だと告げられます。
君にはね、社会見学をさせないといけない。ネズミくんはね、大学院なんていう狭い世界にいたら全然ダメなんだ
大学院という狭い世界にいてはいけない、社会を知らなければならない。そんな理屈で、ネズミとウサギを会わせたら何が起きるか、という発想のもと、深夜1時、4人はタクシーで上野へ向かいました。
上野の雑居ビルで出会ったバニーガール
上野の不忍池近くの繁華街、雑居ビルの4階にその店はありました。長いカウンター造りの店内には、バニーガールがいました。
ただ、鼠にとってバニーガールは必ずしも性的な魅力の対象ではなかったといいます。唯一の例外は中学1年生の頃でした。
当時、親のペアレンタルコントロールにギリギリ引っかからないエロコンテンツがバニーガールだったのだと、鼠は振り返ります。
店は大奥風のシックな内装のコンカフェのような雰囲気で、Mさんは常連のようでした。目の前に座ったバニーガールに、Mさんは鼠を引き合わせます。
「脱北」という業界用語と、彼女の来歴
話すうちに、Mさんが面白い言葉を口にします。この子はもうすぐ「脱北」するのだ、と。
脱北とは、いったいどういう意味なのか
店に告げずこっそり辞めることを、業界用語で「脱北」と呼ぶそうです。夜職は上が厳しく、辞めたくても辞められない人が多いため、蒸発するように去ることを指すといいます。
ただ、その女性は辞める3日前にきちんと辞意を伝え、ママもマスターも良い人だったため、いわば「合法な脱北」でした。
彼女はネイルの専門学校に通い、学費も貯め、資格を取って自分の店を開く目処がついたから辞めるのだといいます。鼠はその真面目さに感心しました。
年齢は28歳ほど。大学卒業後に空白期間があり、その間何をしていたのかと尋ねると、意外な答えが返ってきました。高校の英語教師をしていた、というのです。
鼠はここに文学的なロマンを感じます。かつて自分が憧れた美人の英語教師が、突然辞めた後にバニーガールになっていた、そんな小説のような出会いがあり得たのだ、と。
なんか運命の出会いとかさ
ちょっとしたことを、めちゃくちゃ拡大解釈とか妄想によって膨らませるっていう作業が楽しいんですよ
恵まれた自分への羞恥と、それぞれの実存
妄想を膨らませながら酒を飲むうち、鼠はふと、自分は恵まれているという思いに至ります。バイトで学費を稼ぐ必要もなく、自由に哲学を学び大学院に行ける。そのことに、太宰や三島が覚えたような羞恥心を抱いたといいます。
選ばれてあることの恍惚と不安を
鼠は、大学院には努力して入った人と、文化資本に恵まれ苦労なく過ごす人の2種類がいると語ります。そうした環境を見てきたことで、心が荒んでしまったといいます。
話は学歴をめぐる無意識の空気にも及びます。東大出身者の多い環境では、「東大だからなんとかなる」という励ましの裏に、それ以外なら通用しないという意味を感じ取り、耐えがたくなるといいます。
「そんなつもりでは言ってない、学歴差別なんてしない」って言いますけど、無意識絶対ありますよ
一方で鼠は、恵まれていることを理由に「だから助けなくていい」という論理を持ち出す人間には心底むかつくと語ります。それは負け犬の遠吠えではない、と。
蛇も、まず自分が満たされること、そして他人の不幸を安易に推し量らないことの大切さを語ります。
自分たちの見えてる世界からは人は完全には推し量れなくて。すごいバックグラウンドに幸福も不幸もたくさんある
鼠は、社会の側では敗者かもしれない自分たちも、それでも生きていると語ります。バニーガールを見て、この子も生きているのだと少し元気をもらったといいます。
懐メロとカラオケでつながった記憶
気づけば隣のMさんは眠り込んでいました。前日の夕方から飲み歩き続けていたのだといいます。
そのとき、店内でカラオケが始まりました。富士ファブリックの「若者のすべて」が流れ、続いて誰かがプリンセスプリンセスの「M」を歌い出すと、鼠もつられて口ずさみます。
昔好きだった曲でしてね
この「M」という曲には、鼠の思い出が詰まっています。小学5年から6年に上がるタイミングで山梨から東京へ引っ越した際、初恋の相手と別れながら聴いた曲でした。
出発の車の中で、父からお下がりの手のひらサイズのカセットレコーダーをもらい、山崎まさよしの「One more time, One more chance」とプリプリの「M」を録音した、いわば自作のプレイリストだったといいます。
その日、バニーガールの店で歌ううちに、そうした過去の記憶がいろいろとつながった感覚があったと鼠は振り返ります。
7万円の会計と、断り方をめぐる話
夜が更け、3時半か4時頃、目を覚ましたMさんが立ち上がります。
よし帰ろう。飲んだな、お前も
会計は7万円あまり。それをカードでさっと払う姿を、鼠はかっこよすぎると語ります。
帰り道、大学の前を通りかかったとき、Mさんが「バニーちゃんの胸にお札を挟む遊びをしなかったね」と口にします。昭和の遊び方に、鼠は時代の違いを感じたといいます。
話は、鼠が誘いに対して正直に応じる姿勢へと移ります。興味のない場所には行かないとはっきり言うと語り、その例としてドイツ語の断り方を挙げます。
ドイツ人は相手を傷つけるつもりもなく「ごめん、興味ないから行かない」とストレートに断るといいます。鼠は、自分に会ってくれた人にはそのくらい正直でありたいと話します。
蛇も、そのほうが飲み会自体も楽しくなると同意します。
本当にその飲み会に対してモチベーションのあるやつしか来ないでほしいんですよ
まとめ
金持ちのおじさんに連れられたバニーガールの店で、鼠はエロさと同時に、必死に生きる相手の姿から少し元気をもらいました。恵まれた自分への羞恥と、他者の実存への敬意が入り混じる、雑談っぽくも味わいのある体験談回でした。
- 鼠の名は、村上春樹だけでなく、バーで出会った金持ちのおじさんが「ネズミくん」と呼んだことに由来する
- 店を告げずこっそり辞めることを業界用語で「脱北」と呼び、鼠が会った女性は資格を取って辞める「合法な脱北」だった
- 恵まれた立場への羞恥を抱えつつ、鼠は目の前の相手と自分が同じだけの実存を生きていると感じた
- プリプリの「M」など懐メロを通じて、初恋や引っ越しの記憶が一夜のなかでつながっていった
- 誘いには興味のあるなしを正直に伝えたいという姿勢を、ドイツ語の率直な断り方になぞらえて語った
