高校生には知られていない「泣いた人」
番組冒頭、佐俣さんは自身の関心を語ります。純粋な起業家だけでなく、幅広い産業で起業家的にふるまう人に興味があるといいます。
政治家、官僚、漫画家など、いろいろなポジションに起業家っぽい人がいる。太田さんはその中でも早くから「起業家」だと感じていた人物だと話されています。
太田さんは1985年生まれ。アテネから4大会オリンピックに出場し、2016年のリオを最後に引退しました。
引退して7年経つんです。最後にメダルを取ったのが12年前なので、今の高校生にはもう記憶がない。どっちかというと、東京オリンピックを招致して「TOKYO!」ってガッツポーズして、爆泣きしている人という印象の方が強いかもしれないですね。
オリンピックの魔物は自分が作り出す
太田さんは競技人生の中で、オリンピックという舞台の特殊さを痛感したと振り返ります。
2015年に世界選手権で優勝し、翌2016年のリオには世界ランキング1位で臨みました。大きな期待の中、まさかの1回戦敗退でした。
原因を、太田さんは自身の入り方にあったと分析します。一度引退を経て「ライフスタイルの中にスポーツを置く」円熟した向き合い方をした結果、ふわっと入ってしまったといいます。
オリンピックって場所は、本当に「やるか、やられるか」みたいな。スタートアップでいう創業期の、一番熱く叩かなきゃいけない時期に近くて。大人びちゃうと勝てる場所じゃない。だけど4回目なのに空気に飲まれて、全部空回りして、1回戦敗退する。
フェンシングのワールドカップは通算120試合ほど出場し、優勝はわずか3回。ほとんどはベスト8などで敗れています。
だからこそ、太田さんはオリンピックで実力以上を出せる人の共通点を「熱」だと語ります。
アスリートとアントレプレナーの共通点
太田さんが競技外の世界に目を向けたのは2008年、北京での銅メダル獲得がきっかけでした。
当時、知り合いから「今なら誰でも会ってくれる。誰に会いたい?」と問われます。しかし22歳の太田さんは尖っていて、「特にいない」と答えたそうです。
なにかもう、地球を制したかのような気分なわけですよ。
その後、為末大さんや柔道の野村忠宏さんら、他競技のアスリートと横のつながりができていきます。
(野村さんに)モチベーションが上がらないと言ったら、「言うたってお前銀メダルやぞ。俺はオリンピックで負けてへん」って言われて。「確かにな!」みたいな。
2012年のロンドン後は、スポーツ界の外の人に会いたいと考え、最初にグリーの田中さんと会います。そこからライフネットの岩瀬さん、ビズリーチの南壮一郎さん、オイシックスの高島さんなど、起業家との縁が一気に広がっていきました。
なぜ自分は起業家に惹かれるのか。太田さんは、個人競技との共通点にあると考えています。
個人競技って誰のせいにもできないじゃないですか。アントレプレナーの人も人のせいに絶対できない。「どんなことがあっても全部自分の責任です」って言えるような人たちが多いのがすごく好きで。そういう人たちとつるむと、引かれるし、引っ張られる。
予期せぬフェンシング協会会長への就任
話題は、太田さんが31歳で日本フェンシング協会の会長になった経緯へ移ります。会長職は通常、名誉職として年配のレジェンドや要人が就くことが多いポジションです。
2016年の引退後、太田さんはまず起業を志します。しかし、事業がないまま人を採用し、仕事がない状態に直面しました。
待てど暮らせど当然仕事ができないわけですよ。事業がないんで。「事業がないということがこれほどまでに致命的である」ということに気づいていくのに、もうちょい時間がかかるんですね。
登壇や肖像の仕事は原価率が低い「真水」の収益です。それに慣れると、仕入れや固定費を抱えるビジネスを新しく作る動機が持ちにくくなる、と太田さんは振り返ります。
そんな時、スキーの皆川賢太郎さんから、フェンシングへの恩を理由に「理事職の話が来たら絶対に断るな」と言われます。
受けた理事職の直後、協会内のゴタゴタの中で、初めて出席した理事会で会長選に出ることになり、そのまま会長に就任しました。
その日、村上太一君と晩御飯の約束をしてて。遅れて行ったら「どうしたんですか、顔真っ白ですよ」って。「実はこんなことになって」って言ったら「おめでとうございますですね」とか言って。
受けるかどうか迷った時、太田さんの背中を押したのは父の言葉でした。
無給の会長職を「実地のMBA」に変える
無給で、大変さも承知の会長職。太田さんはこれを前向きに捉え直しました。事業がなく暇だった時間を、学びの場に変えようと考えたのです。
MBAに行くとお金を払わなきゃいけないけど、ある種、学費を免除してもらえる責任感あるスポーツMBAだと思って、会長を引き受けようと。その代わり、4年で辞めると決めて受けたんですよ。
10年続ければ名誉職化し、望まなくても力がついてしまう。だからこそ4年でスパッと辞めると決め、その期間でできることを全力でやろうとしたといいます。
改革でまず着手したのが「大会」でした。太田さんはこれを組織改革のセンターピンと位置づけます。
信任がない中で大きな改革をやると、本当に爆死するので。まず埋まらなかった会場を有料でいっぱいにできれば、「変わるんじゃないか」という兆しを見せられる。だから大会からやるんです。
改革を支えたのはガバナンスと人事でした。太田さんは常務理事を定款の下限である4人に絞り、明太子の「やまや」の山本社長や金融出身の宮崎さんを副会長・専務理事に据えます。
トップだけが走ってもだめで、実務のできる人を横に置く重要性を学んだと話されています。
さらに、前会長の星野さんが残したバトンも大きかったといいます。「次の会長の組閣案は一任でOK」という前提で選挙に臨んでくれていたのです。
今ちょっと鳥肌立ちました。すげえ熱いバトンパスですね。
無給ゆえに難しさもありました。役職を望む電話が多く来る一方、お金以外の動機で動く「良い人」ほど断りにくいのです。太田さんは役なしの理事を多数にすることで、納得感を作っていったと語ります。
アメリカのダイナミズムと日本の「和」の間で
後半は、日本とアメリカでの社会の変え方の違いに話が及びます。
佐俣さんは若い頃、法律ギリギリでも実行して支持を勝ち取るシリコンバレー流に憧れたといいます。しかし今は、日本ではそのやり方は通用しないと考えています。
日本はある程度成熟された社会になっていて、これを若い奴がいろんな奴をなぎ倒しながらやる改革は、コスパが悪い。誰かを怒らせることで進む改革って、みんながイメージするほど日本にはない。
佐俣さんは、YouTuber事務所のUUUMに創業から関わった経験を例に挙げます。当時テレビ局からは「コンテンツ泥棒」と警戒され、悔しさもあったといいます。
しかし、他人が一生懸命作ったものを無下にすれば人は怒る。それはいい悪いではなく当然のことだ、と今は捉えています。
だからこそ佐俣さんは、多様なステークホルダーと丁寧に対話しながら社会を変えるやり方を重視しています。Luupの岡井さんを、その手本として挙げました。
太田さんは、佐俣さんに「なぜ日本流でなければと気づいたのか」と問い返します。話は互いの「尖っていた頃」との折り合いへと深まっていきます。
独立した時は本当に尖っていて、基本的には全員殺すって気持ちを毎日持ち続けていました。同業者も起業家も、隙あらば俺が全部ひっくり返すみたいな。
最年少で後ろ盾ゼロから独立した佐俣さんは、そうした尖りが必要だったと振り返ります。若手が最低限暴れられる場所は業界に残しておきたい。ただ「逮捕はされなくていい」とも話します。
「軍師」として社会実装に挑む
最後は、人が変わっていくことの是非がテーマになります。
太田さんは、年齢を重ねても「殺してやる」というテンションで居続ける人の存在に触れ、それは精神衛生上つらいのではと問いかけます。
これに対し佐俣さんは、「軍師は軍師でいていい」と応じます。ずっと最前線で戦い続ける人もいれば、戦い方を変えていく人もいると語ります。
例として、同じオフィスで働くnewmoの青柳さんを挙げます。メルカリやメルペイで金融のルールメイクを経験し、newmoでまた違う戦いに向き合う中で、しなやかに変化してきたといいます。
必要に応じて変わっていける方が素敵ですよね。もしかしたら、またどこかで軍師に戻らなきゃいけない時期が来るかもしれないので。
番組では、太田さんのルーツとこれまでを中心に語られました。次回は、太田さんのこれからの話へと続いていきます。
まとめ
アスリートから起業家精神を得て、あえて困難な会長職に飛び込んだ太田さん。その挑戦の裏には「難しい方を選ぶ」という信念と、日本ならではの社会の変え方への理解がありました。
- オリンピックで実力以上を出せるかどうかは、本当に勝ちたいという「熱」が分ける。
- 個人競技の起業家は「全部自分の責任」と言える点で共通し、太田さんはそこに惹かれた。
- 無給の会長職を「実地のスポーツMBA」と捉え、4年で辞めると決めて全力で改革した。
- 改革はまず信任を得やすい大会から着手し、ガバナンスと人事を握ることで一気に進めた。
- 成熟した日本では、なぎ倒す改革よりマルチステークホルダーとの対話が有効だと二人は語る。
