量子コンピュータの専門家が塾長になるまで
伊藤さんは量子コンピュータの研究者で、材料科学や物理学を専門としています。
小学校から慶應義塾幼稚舎に入り、中学、高校、大学と慶應で学び、大学は理工学部に進みました。
その後はカリフォルニア大学バークレー校で修士号と博士号を取得します。
ただ、もともとは経済を学んでお金を稼ぎたかったと話されています。大学進学のときも経済学部を志望しましたが、父親の大反対にあい、揉めた末に理工学部へ進んだそうです。
大学院を出たあと、伊藤さんはある思いから進路を決めます。
1人でも多くの日本の学生を世界に出したいと思って、それができるのは大学教員だと思った。いくつかの会社や大学からオファーをもらったんですけど、結局慶應の教員になる道を選んで、初心貫徹を目指しながら現在に至っているという感じです。
定番のキャリアパスは通用しなくなる
大学の学長というポジションにつく人生は想像がつかない、と佐俣さんは率直に尋ねます。
伊藤さんによると、かつて慶應の教員になるには決まった道が一つしかなかったそうです。
慶應の大学の教員になろうと思ったら、慶應の修士課程と博士課程に進んで、教授に気に入られて、助手にしてもらって、そのまんま慶應に残るというのが唯一の道だったんですよ、昔は。
そのため、外に出ていった伊藤さんは慶應の教員になることに全く興味がなかったといいます。
ところが世の中は変わっていきます。慶應出身の教員が多すぎるため「外の血を入れなければ」という流れが生まれ、大学院を外で過ごした伊藤さんが1995年に理工学部へ迎えられました。
その後、一本釣りのような採用はなくなり、完全な公募へと移っていったそうです。
慶應の教員になるためにはとか、スタートアップで成功するにはというようないわゆる定番モデルがどんどん変わっていく。だからタイミングや直感で「こっちに行ったほうがやりたいことをやっていける」という直感が、結構重要なんじゃないかなって思うんですね。
科学への興味の原点、新種の貝の発見
物理にたどり着くまでに何があったのか、佐俣さんが問いかけます。
伊藤さんは、小学校のころから科学好きになるような教育があったと振り返ります。
4年生のときの「海浜学校」では、千葉の館山で理科室の貝の標本を覚え、海岸でそこにない貝を見つけると「新種」として自分の名前とともに記録される仕組みがあったそうです。
伊藤さんは実際に新種を発見しました。しかし旅館の部屋へ駆け込むと、思わぬ言葉が返ってきます。
「ああ伊藤君、これは本当に君の言う通り新種だよ。でもね、1時間前に何とかさんが同じものを持ってきちゃったんだ」って言われて。今から考えると、発見する喜びと、最初に報告しなければいけないという悔しさを、結果的に学びましたよね。
中学の慶應普通部では、レポートを万年筆で書く指導がありました。それは世界の科学者が実行しているシステムを、そのまま中学生に教えていたものだったといいます。
高校の地学の時間には、博士課程の講師が自ら掘り出した化石を配り、鑑定させる実践授業があったそうです。こうした積み重ねはあったものの、当時から特別に理科へ興味があったわけではないと話されています。
アメリカで受けた衝撃、自分で稼ぐ高校生たち
経済に行こうと思った原点は、高校1年生のときの留学にありました。
父のシリコンバレーへの転勤について、1年間アメリカの公立高校で過ごしたのです。
カリフォルニアでは16歳から車を運転できます。伊藤さんは、高校の広い駐車場にフィアットやポルシェといった良い車が停まっていることに気づきました。
最初は親が金持ちなのかと思ったそうですが、話を聞くと生徒自身が仕事をしていたといいます。
自分で仕事をしてるっていう高校生がとてもいい車に乗ってる。あれ1982年、まさにシリコンバレーのど真ん中で。金持ち相手にケータリングをしてるとか、プールの掃除をしてるとか、プログラミングをして金を稼いでる人がいたりして。やっぱり起業家精神ってすごいんだなと思って。
伊藤さんは衝撃を受け、受験や部活に向かう日本の高校生との違いを強く感じたそうです。
数学の授業には、天才的なユダヤ人の友人もいました。難しい試験に答えしか書かず、途中経過がないと減点されると、黒板に全部書き出してみせた人物です。
その友人はその後スタンフォードに進み、ベンチャー投資家として大成功したそうです。こうした同世代に出会った高校時代は、刺激的だったと話されています。
日本に戻るためのリハビリと、研究への目覚め
帰国後の伊藤さんは、自身を「ただのアメリカかぶれ」だったと振り返ります。
自由が丘でお茶をする同級生も、スポーツ一筋の体育会の仲間も、当時はばかばかしく見えてしまったといいます。特許申請の代行や車検の代行といった小銭稼ぎをしていたそうです。
しかし大学に入り、このままではまずいと感じ、日本人に戻ろうと決めます。
もう一度テニスか何か頑張って日本人になろうと思って、大学のテニス部に頭を下げて「すいません、今まで生意気でしたけどテニス部に入れてください」って言って、そこで180度変わった。ひたすら下級生をもう一度経験して、日本的なのにもう一度戻れたかなって。
大学の進路も、経済を志したものの父親に説得されました。「大学4年間、理工を勉強すればその後に大学院で経済に進めるが、その逆はできない」という具体的な理由だったそうです。
1、2年生の頃は何のために勉強しているのか分からないままでしたが、卒業研究が転機になりました。
卒業研究って、テニスで言えば初めて試合をさせてもらったようなもんで。世の中ではここまで分かっていて、これが分かっていない、それを発見する。自分だけが知ってる真理があるわけじゃない、これは面白いって、急に研究が好きになって。要は試合が好き、ゲームが好きなんですよね。
研究の面白さと海外へ出たいという思いが重なり、伊藤さんは再びカリフォルニアへ向かいます。給料も学費免除もあるバークレーのオファーが良く、1989年のバブル絶頂期に進学しました。
自分で「城」をつくり、自分で厳しい環境を用意する
1995年、伊藤さんは1人でも多くの学生を海外に出そうと、慶應の教員になりました。ちょうど30年前のことです。
このときも父親は反対しました。父親を説得することは、伊藤さんにとって大切な教育だったといいます。
「なんでしがない慶應の教員なんかになるんだ。金もない、しかも教授の下で言うことを聞く弟子になる。ここまで成功してんだからやることないだろう」と。ドイツのマックスプランク研究所とか、パロアルト研究所とかオファーを貰ってたので、そっちにした方がいいじゃないかとすごく強く言うわけ。
伊藤さんは1人でも多くの大学院生を外に出したいと押し切り、入る前にある条件を出しました。
自分の小さな研究室を自分で持たせてほしい。それが条件だって言ったの。そしたらオッケーだっていうわけよ。
1部屋を得て完全な自由を手にした伊藤さんは、当初から量子コンピュータなど新しい研究を自分で始められました。お金はなくても、良い条件が得られたと振り返ります。
良い推薦状を書いて学生を送り出すには、自分が研究の最前線にいなければならない、とすぐに気づいたそうです。
そこで伊藤さんは、あえて自分を追い込む選択をします。
慶應の環境は生ぬるいから、厳しい環境がもらえないとちょっと頑張れないとかない? だってアンリさんだって、ファンドを始めたら、もう後ろ向くことができないわけじゃない。だから自分で厳しい環境を作ったわけ。
佐俣さんも、ぬるい環境にいると飽きてしまうため、よりハードな道を選ぶと応じます。挑戦者を相手に商売をしている以上、自分も挑戦しなければかっこ悪い、と話しました。
毎年アメリカの大学に応募し続けた効果
伊藤さんは40歳までにアメリカの大学の教授になるという目標を立て、毎年応募し続けました。
そのために研究室のホームページを英語で充実させ、毎年魅力的な研究テーマを考えてアップデートしたそうです。
結果として、この挑戦は思わぬ効果を生みました。
毎年応募してると、計画的じゃないんだけど、これが一番自分の宣伝になってたって後で分かった。いろんな学会から招待講演の話が来るようになったんです。みんな私の申請書を読んで真剣に見てるから。
日本の学会の重鎮たちは「なんでお前ばかり招待されるのか、上手くやっているに違いない」と言ったそうです。しかし伊藤さんは、上手くやっているのではなく、真面目に申請しているだけだと語ります。
理工学部長になったあと、新人教員の研修で「40歳まで外に応募していた」と話すと、周囲から「その話はここでは適切じゃなかった」と言われたそうです。
大学で偉くなる人は内を見ているイメージがあったが、伊藤さんはずっと外を見ていた、と佐俣さんは気づきます。伊藤さんはある意味その通りだと認めました。
理想的な職場はその人のキャリアをちゃんとアップさせる場所だ、と佐俣さんは締めくくります。慶應義塾は外に開かれた集団だと実感していると話されました。
まとめ
伊藤公平さんの歩みは、常に世界を意識し、決まった道ではなく自分の直感で選び、自ら厳しい環境をつくり続けた道のりでした。研究の面白さも、キャリアの選択も、その一貫した姿勢の上にありました。
- 1人でも多くの学生を世界へ送り出したいという思いが、キャリア選択の軸になっている
- 定番のキャリアパスは変わっていくため、直感で「やりたいこと」に進むことが重要だと話されている
- 高校時代のシリコンバレー留学で、自分で稼ぐ高校生に衝撃を受けた
- 慶應の教員になる際、自分の研究室を持つという条件を出し、自由な研究環境を得た
- 40歳までにアメリカの大学教授をと毎年応募し続けたことが、結果的に世界からの招待講演につながった
