アメリカのアントレプレナーに覚えた危機感──MBA留学中に描いたロッテHD社長・玉塚元一さんの起業家像
ハートに火をつけろ by ANRIに、株式会社ロッテホールディングス菓子・食品・流通などを手がけるロッテグループの持株会社。2007年設立。傘下に株式会社ロッテ、千葉ロッテマリーンズなどを持つ。代表取締役社長の玉塚元一1962年生まれ。AGC→日本IBM→ファーストリテイリング社長→リヴァンプ創業→ローソン社長→デジタルハーツHD社長を経て、2021年よりロッテHD社長。ラグビーリーグワン理事長も務める。さんがゲスト出演。工場勤務からシンガポール駐在、MBA留学、そしてファーストリテイリングの柳井正氏のもとで学んだ「経営の基本」まで、玉塚さんのキャリアの原点と起業家精神について語られた内容をまとめます。
「古参ファン」が語る玉塚さんの魅力
今回のゲスト・玉塚元一さんを迎えたANRI代表の佐俣アンリさんは、冒頭から「僕は古参の玉塚さんファンなんです」と告白しています。大学生の頃、リヴァンプ2005年に玉塚元一氏が創業した企業再生・事業成長支援会社。経営の「手触り感」と投資のレバレッジを両立させるスタイルで注目された。を率いていた玉塚さんに憧れ、「事業の手触り感があって、金融っぽいことをレバレッジできる人」としてかっこいいと感じていたそうです。
僕は古参の玉塚さんファンなんです。10年ぐらい前のTwitterもさっき送ったでしょう(笑)
信じてません(笑)
その憧れが高じて、佐俣さんは玉塚さんの新卒入社先である旭硝子(現AGC)1907年創業のガラス・化学品メーカー。2018年に社名をAGC株式会社に変更。世界最大級のガラスメーカーとして知られる。を2回受けたというエピソードも飛び出しました。説明会で「御社に玉塚さんという方が過去にいらっしゃって」と話したところ「本当に無反応だった」とのこと。玉塚さんは苦笑しつつ「辞めたやつですからね」と応じていました。
玉塚さんが佐俣さんに感心していたのは、学生時代から「オペレーションと投資の両方」に興味を持っていたという着眼点です。事業運営の感覚と投資的な視点、その両面に惹かれるのは珍しいことだと語っていました。
AGC時代の原体験──工場勤務とシンガポールでの経営修業
玉塚さんのキャリアは、AGCでの13年間から始まります。最初の2年間は千葉の化学品工場に配属。安全靴にヘルメットという現場のただ中で、「どうやって物を作るのか」「どうやってコストを下げるのか」を学びました。この現場経験が、のちの経営者としての基盤になったと振り返っています。
入社4年目・27歳でシンガポールへ異動。前任者は45歳のベテランでしたが、ローカルスタッフ2名・年商10億円ほどの化学品販売事業のリーダーに抜擢されます。
円高の進行で日系メーカーがアジアに工場を移転していくなか、化学品の原材料やプラスチック、精密部品の洗浄剤を販売する玉塚さんの事業は顧客がどんどん増加。4年間で売上は10億円から100億円へ、部下は2人から20人へと急成長しました。海外で「経営的な、マネジメント的な経験」を積めたことが非常に大きかったと語っています。
MBA留学で痛感した日米の起業家ギャップ
シンガポールでの経験で「経営は面白い」と感じた一方、玉塚さんは自分の基礎体力の不足を痛感します。バランスシートやキャッシュフロー・ステートメントの理解、投資オプションの論理的な評価──いずれも十分とは言えなかったそうです。そんなとき、社内のビジネススクール留学制度大企業が社員を海外のMBAプログラムに派遣する制度。費用は会社負担が一般的で、帰国後は経営幹部候補として活躍することが期待される。の案内を見つけ、迷わず応募。商売の成績が評価され、役員面接を経てアメリカの大学院に2年間留学することになりました。
MBA留学中、玉塚さんにとって最大の衝撃だったのが「アントレプレナー(起業家)」との出会いです。授業にゲストとして招かれた30代後半のアメリカ人経営者は、キャップにジーンズというラフな姿で登壇し、「この商品で世界を変える」と語りました。すでに売上1500億円規模の企業を作った人物で、学生のどんな質問にも的確に答えながら、夢を語り続けたといいます。
当時の日本の経営者に対する玉塚さんのイメージは、「黒塗りの車に乗って、ポマードで、夕方になると料亭に行って、スピーチは原稿を読む」というもの。個で勝負している感じがしなかったといいます。アメリカの起業家たちとの強烈なギャップに危機感を覚え、AGCを飛び出す決断をしました。
黒塗りの車、料亭、原稿を読むスピーチ。「個で勝負していない」印象
キャップにジーンズ、30代で1500億企業を構築。どんな質問にも的確に答え、夢を語り続ける
本当は自分で事業を始めたかったものの、当時はVCもいなければ、周囲に起業仲間もおらず、アイデアも生まれなかったそうです。そうした中で出会ったのが、ファーストリテイリングユニクロ、GU等を展開するアパレル製造小売(SPA)企業。1963年に山口県で創業。柳井正氏が1984年に社長に就任し、グローバル展開を推進。現在は世界3位のアパレル企業。の柳井正さんでした。
「悔しい」という感情の根っこ──玉塚証券と祖母の言葉
「経営者になりたい」という思いの根には、幼少期から抱いてきた「悔しい」という感情がありました。玉塚さんの曽祖父の前の代が日本橋で「玉塚商店」という両替屋を営んでおり、曽祖父の玉塚栄次郎玉塚商店を近代的な証券会社「玉塚証券」にトランスフォームし、初代の東京証券取引所理事長も務めた人物。1962年に逝去。さんはそれを近代的な証券会社に変革。「玉塚証券」としてそれなりの規模に成長させ、初代の東京証券取引所理事長も務めた人物でした。
しかし栄次郎さんは、玉塚さんが生まれた1962年5月のわずか5ヶ月後に他界。その後、玉塚証券は証券不況に耐えられず3社合併で新日本証券となり、さらに和光証券との合併で新光証券に、そして現在はみずほ証券のDNAのごく一部に名を残すのみとなりました。
玉塚さんの祖母は存命で、幼い玉塚さんにことあるごとにこう語りかけたといいます。「あんたは栄次郎の生まれ変わりだから、必ず玉塚証券をもう一回やらなきゃいかんぜよ」と。この言葉が、子供の頃から「悔しい」「なんとかしたい」という思いを心に刻み込み、経営や商売への強い興味へとつながったそうです。
現代の環境だったら、僕してたと思います。上手くいったかどうかは別にして、トライはしてたと思います。1回、2回、3回ぐらい
佐俣さんの「現代だったら起業していましたか?」という問いに対して、玉塚さんは即答。当時はVCも起業仲間もいない環境だったからこそ、結果としてAGC→IBM→ファーストリテイリングというキャリアを歩むことになりましたが、現代であれば間違いなく挑戦していたと語っていました。
柳井正氏との出会いとユニクロでの挑戦
AGCを退社後、起業資金を貯めるために日本IBM米IBM社の日本法人。ITサービス・コンサルティング大手。営業職の給与水準が高いことでも知られた。で営業職に就いていた玉塚さんは、そこで運命的にファーストリテイリングの柳井正ファーストリテイリング代表取締役会長兼社長。1984年に父の事業を引き継ぎ、ユニクロブランドを世界的企業に成長させた。日本を代表する経営者の一人。さんと出会います。1998年、まだ山口県宇部に本社を構え、年商700億円ほどの時期でした。
当時のユニクロは、フリースの大ヒットが起こる直前。バッドボーイやナイキ、チャンピオンといったナショナルブランド(NB)メーカー自身が全国展開するブランドのこと。対義語は「プライベートブランド(PB)」で、小売・流通が自社開発するブランドを指す。が中心で、今のようなユニクロのPB(プライベートブランド)比率は15〜20%程度だったといいます。いわゆる「ディスカウント・ジーンズチェーン店」の一つという位置づけでした。
柳井さんの「目つきと考えていること」に衝撃を受けた玉塚さんは、「もう一回柳井さんのところに飛び込んで、エキスを吸いまくれば自分のやりたい事業が見つかるだろう」と決意し、宇部の本社に飛び込みます。
柳井さんが見据えていたのは、日本のアパレル業界の構造的な非効率の打破でした。百貨店が売れ残りを問屋に返品し、問屋が商社に返品し、商社がメーカーに返品する──この「返品の連鎖」がコストを膨らませ、本来1000円で売れるものが1万円になっていると。カジュアルウェアに特化して品番数を徹底的に絞り込み、デニムジーンズやオックスフォードシャツなど定番商品の完成度を上げ、販売も製造も全部自分たちでリスクを取る。需要予測を完璧にやり、生産のタイムラインを短縮してグルグル回す──。
柳井さんはこの構想を「3000億のカジュアル製造小売企業を作る」というビジョンとともに、ワープロ6〜7枚のメモにまとめていたそうです。そのために必要な商品、店舗、人材、システムが整理されており、玉塚さんは今でもそのメモを持っているとのこと。途中で道を逸れたりアジャストしたりしながらも、ビジョンは絶対にブラさない──その愚直な姿勢を、52週間の実務の中で間近に見て「死ぬほど勉強になった」と振り返っていました。
経営の基本は「現場のファクト」から始まる
ファーストリテイリングでの経験を踏まえて、玉塚さんが語った「経営の基本」は明快です。経営者の仕事はまず「現場で何が起きているのか、ファクトを正しく認識すること」。思い込みや現場とズレた認識の上に立てた仮説は、絶対にうまくいかないと断言しています。
ファクトの正確な認識
現場で何が起きているかを把握する(AI活用も含む)
正しい仮説の構築
ファクトに基づいて打ち手を設計する
実行と検証のサイクル
チャレンジ→アジャストをグルグル回す
どんなに企業が大きくなっても、この「現場起点」は変わらないと玉塚さんは語ります。柳井さんのもとで52週間・日々の商売を一緒に回しながら体得した、「右、左、やめ、行け!」というスピード感のある意思決定。それが今のロッテホールディングスでの経営にもつながっているのかもしれません。
まとめ
工場の安全靴から始まり、シンガポールでの急成長の経験、MBA留学で受けたアメリカの起業家たちからの衝撃、祖母から託された「玉塚証券の再興」という想い、そして柳井正氏のもとで学んだ「ビジョンをブラさず、チャレンジとアジャストを繰り返す」という経営哲学──。玉塚さんのキャリアの根底にあるのは、「悔しい」という強い感情と、現場で学び続ける姿勢でした。
大企業のトップでありながら「現代なら起業していた」と即答する姿には、アントレプレナーシップが肩書きではなく心の在り方であることが伝わってきます。次回は、ファーストリテイリング以降のキャリアや、現在のロッテHDでの挑戦について、さらに深く掘り下げていく予定です。
- AGC入社後、千葉の工場勤務で「ものづくりの現場」を体感。27歳でシンガポールに赴任し、4年間で売上10億→100億円の成長を経験した
- MBA留学中にアメリカのアントレプレナーと出会い、「日本は絶対勝てない」と強烈な危機感を覚えた
- 曽祖父が築いた「玉塚証券」の消滅と祖母の言葉が、幼少期から「悔しい」という経営への原動力となっていた
- ファーストリテイリングの柳井正氏のもとで、「ビジョンをブラさず、チャレンジとアジャストを繰り返す」経営哲学を体得した
- 経営の基本は「現場のファクトを正しく認識し、正しい仮説を立て、グルグル商売を回すこと」
