一番好きな物語、映画『約束の時計台』
西野さんは25歳の頃、軸足をテレビから絵本へ移し、たくさんの物語を作ってきました。
その中でも一番好きな作品として挙げたのが、映画『えんとつ町のプペル〜約束の時計台〜』です。
ファンタジーであり冒険活劇であり、コミカルでもある。そして、今はまだうまくいっていない人への応援歌でもあると語ります。
「爆死」と評された公開初週
そんな思い入れの深い作品でしたが、公開直後から爆発的なヒットとはなりませんでした。公開初週は4位でのスタートだったといいます。
当時は「爆死」と評する声もたくさんありました。西野さんは、それを簡単には受け入れられなかったと振り返ります。
4位で爆死って言われちゃうんかと思って
この作品が届かなければ、もう自分たちにできることは何もない。そこまで追い込んで作った作品だったからこそ、結果を受け入れることは簡単ではなかったと話します。
自分を信じてついてきてくれた仲間を、楽しい未来に連れて行けなかった。西野さんは、申し訳ない気持ちでいっぱいだったと語ります。
数字と反応の「乖離」
ただ、改めて映画館で作品を見ていると、世に出ている数字と、実際に劇場に足を運んだお客さんの反応との間に乖離があるように感じたといいます。
動員数や興行収入といった数字に、客席の盛り上がりや満足度が反映されていないように思えたのです。
何度も色眼鏡を外して見返したうえで、西野さんはこの作品が負けるわけがない、負けさせてはいけないと感じました。
2ヶ月で160箇所、映画館を回る日々
そこから西野さんは、毎日映画館を回りました。お客さんが集まりにくい平日の朝であっても関係なく、劇場へ足を運んだといいます。
届け届け届け届けって願いながら、毎日毎日劇場に足を運んでました
1日に7、8箇所行ったこともあり、およそ2ヶ月で160箇所ほどを回ったと振り返ります。同じ映画館も含めての数だといいます。
最初に手を挙げてくれたシネマヌーベル
そんな中、山口県周南市にある映画館シネマヌーベルが、2番館として一番最初に上映の手を挙げてくれました。
世間から爆死と評されるなか、息も絶え絶えの我が子を「大丈夫だよ」と抱き上げて守ってくれたような感覚だったと西野さんは語ります。
親としてこれほど嬉しく、救われることはない。西野さんは、必ず恩返しをしたいと思ったといいます。
壁に描く、恩返しのアートパネル
当時から時間を見つけては周南市へ飛び、舞台挨拶や物販の手伝いをしてきた西野さん。それでも受けた恩は返しきれないと感じていました。
そんなとき、シネマヌーベルの館長から「西野さんと劇場の壁に絵を描いてもらえませんか」と頼まれます。
断る理由1個もないじゃない、そんなの。やりますよ、やらせていただきますよ
館内を回ると、玄関を入ってすぐ右の壁に、壁に埋め込まれた大きな額縁のようなものが2つありました。西野さんは、その額縁に合うようにアートパネルを制作しました。
代金は受け取らず、西野亮廣個人からのお礼として制作したものだといいます。館長が大ファンと語ってくれた、プペルとオルビッチのアートパネルをそれぞれ1枚ずつ用意しました。
シネマヌーベルは、館長が「プペルは子供たちに届けなきゃダメだ」と大号令をかけ、ワンもツーも上映してくれた映画館でした。アートパネルの設営は無事に終わり、番組収録日から見られるようになったといいます。
明日、また周南市へ
さらに西野さんは、収録の翌日と翌々日にシネマヌーベルを訪れると話しました。夏休みの間、同館で『約束の時計台』が上映されているためです。
泊まり込みで向かい、上映終了後にはグッズを買った人へのサインやツーショット撮影など、物販の手伝いを全力で行うと語ります。
まとめ
この回は、爆死と評された映画を諦めなかった西野さんが、最初に守ってくれた映画館へ恩返しをするまでの物語でした。
- 映画『えんとつ町のプペル〜約束の時計台〜』は公開初週4位で「爆死」と評された
- 数字とお客さんの反応の乖離を感じ、西野さんは2ヶ月で約160箇所の映画館を回った
- 山口県周南市のシネマヌーベルが2番館として最初に上映の手を挙げてくれた
- その恩返しとして、劇場の額縁に合うアートパネルを無償で制作・設置した
- 収録翌日からは現地で舞台挨拶や物販の手伝いに向かうと語った
