年齢を偽って受けた東大入試
前回に続いて、北里柴三郎の東京での話です。熊本医学校を出た北里は、恩師マンスフェルトのもとを離れ、東京の東大医学部を受験するために上京します。
当時は同郷の人にお世話になるのが普通だったようで、北里は21歳年上の先輩、山田武敏さんの家で世話になります。入試日まで、勉強とアルバイトに明け暮れる日々でした。
ところがある日、アルバイトから疲れて帰ってきた北里は、山田さんに呼び出されます。困ったことになった、君は東大を受験できない、と告げられます。
来たばっかりに。
理由は受験資格の年齢制限でした。当時は20歳までという制限があり、北里はすでに21歳になっていたのです。
北里はマンスフェルトの授業を手伝うため、契約が切れるまで助手として熊本に残っていました。そのため上京が3年ほど遅れ、同い年ですでに東大に通う同級生もいる状況でした。
どうしようと考えた山田さんは、妙案を思いつきます。出願書類で年齢を詐称したのです。
えー、いいの?今じゃ大問題ですけど。
これがバレることなく、北里は無事に試験を受けることができました。まだいろいろといい加減な時代だったのかもしれません。
そして明治8年、1875年11月に東京医学校へ入学します。これが後の東大医学部です。熊本で同級生だった緒方正則から、3年遅れての入学となりました。
教師陣に反発した学生時代と「医道論」
熊本ではマンスフェルトに可愛がられた北里ですが、東大では反対に教師陣から疎まれ、目をつけられたようです。原因は彼の性格でした。
教師陣の偉そうな態度や物言いに北里は反発し、授業中でも構わず猛然とかみついたといいます。頭が良かったため、先生の論文の不備を指摘することもありました。
それはすねちゃう。
大学在学中には、数十人の同志を募って「同盟社」という学生結社を組織します。志を天下に述べる者は雄弁でなければならない、という趣旨で、演説会などを開いて活発に討論していたそうです。
今の弁論部や雄弁会のはしりのような会で、北里はここで主将を務めました。政治、軍事、教育、医療とあらゆる分野の問題を取り上げて議論していたといいます。
この時期に北里は、その後の生き方を示す信念を論じた「医道論」を発表しています。要約すると、医は本来仁の道であり、国の発展のために人々の健康を守ることが目的である、という内容です。
しかし今の医者は病気を治すことにのみ関心を持ち、権力者や富裕層に迎合して医療の本質を忘れている、と北里は批判します。その結果、医学は衰退し、医者の地位も軽んじられたと述べています。
さらに、国民が健康や予防の重要性を知らないのも、医者が十分な教育を行わなかった医者の怠慢だと指摘します。例えばコレラ流行時の混乱も、医者が教育を怠ったことが一因だとしています。
医者が真に医療を理解し、大衆の健康を守る使命を果たせば、医学の地位は向上し国も発展する。医学は決して専職ではなく、社会にとって不可欠な大業である、と北里は結んでいます。
本当ですよね、政策になりそうな。
これが本当に医者だけのせいなのかは議論の余地がありますが、当時は威張って偉そうにして、病気だけ治せばいいという医者が多かったのだろうと考えられます。北里は最後までこの原点を大事にしました。
14歳年下の妻と、後の日銀総裁との縁
明治年、北里は30歳になり、4月に結婚します。相手は大蔵省幹事の松尾重義の次女、寅さん。当時16歳の娘さんでした。
すごい年下。
14歳もの年の差でした。当時は16歳より若く結婚した人も多かったと考えられますが、30歳はもう結構なおじさんという時代だったようです。この寅さんは、後々まで北里を支える良き妻になります。
妻の父・松尾重義は、後に第六代日銀総裁を7年8ヶ月務めた人物です。ちなみに次の総裁は高橋是清でした。
この出会いは、学生時代のアルバイト先の社長が紹介してくれたものでした。仕送りをもらえなかった北里は、牛乳製造会社で良質な牛乳を作るためのアドバイザーとして働いていたのです。
ちょうど日本で牛乳の販売が始まった時代でした。江戸時代には牛肉も牛乳も口にする習慣がなく、ノウハウがなかったのだと考えられます。
北里は牛乳の品質管理や作業場の衛生管理、乳牛の輸入手続き、海外文献の情報整理などを担当しました。後に細菌学者になる人物だけに、衛生管理は得意だったのでしょう。オランダ語も得意で、海外文献や輸入手続きでも活躍したと考えられます。
この会社の社長が松尾重義の弟で、北里の働きぶりに感心し、姪の寅さんとの見合いをまとめてくれたのです。
すごい。もうそんだけ働きぶりがすごかったってことですね。
この時期、北里は熊本の小国村から弟の坂を呼び寄せ、養いながら東大法学部に進学させてもいます。自分は医学を学びアルバイトもしながら、弟まで進学させたことになります。
卒業後に選んだ内務省衛生局への道
北里は年ヶ月をかけて通った東大医学部を卒業します。卒業成績は名中の番だったそうで、それほど上位ではなかったようです。
卒業後、北里は真っ先に下宿させてくれた恩人の山田さんに報告に行きました。無事に卒業できました、バレませんでした、という報告だったのでしょう。
多くの同級生は卒業後、病院などの診療機関に就職し、東大の医学士という肩書で高給に迎えられました。平均月給は今の換算で万円ほどだったといいます。
しかし北里はそうしませんでした。彼は疑問を持っていたのです。日本最高の医学教育を受けたとはいえ、まだわずかな知識と経験しかない。神様のように頼ってくる患者に、自信のない治療や処方はできない、と考えました。
熟慮の末、北里は内務省の衛生局に就職することを選びます。給与は円で、同級生に比べればかなり低かったと考えられます。
「衛生」という言葉を生んだ長与仙斎
内務省衛生局での直属の上司は、長与仙斎という人物でした。北里より歳年上で、大村藩に代々仕える漢方医の家系だったそうです。
長与はその後、大阪の蘭学者・緒方洪庵の適塾に入門し、福沢諭吉らと肩を並べて学びました。福沢の後任として塾頭になり、後には長崎の医学校でマンスフェルトの同僚として医学教育に取り組んでいます。
マンスフェルトはその後、熊本医学校で北里や緒方を指導しました。この緒方は緒方洪庵の息子にあたり、人間関係が複雑に絡み合っています。長与の師匠が緒方洪庵で、北里の同級生の緒方はその師匠の息子、という関係です。
長与は明治四年に国の命を受けて欧米の医療と衛生行政を視察し、北里が入学する前年の明治七年に東京医学校の校長に就任していました。
そして、この長与が作った言葉が「衛生」です。それまで日本には衛生という言葉も概念もなかったといいます。
え、そうなんだ。
衛生の正確な意味は、健康の保全増進を図り、疾病の予防治療に努めること。それまでは手を洗う、清潔な水を使う、食べ物を衛生的に扱う、といった発想が乏しかったのです。概念がなければ、やり方もわかりません。
ただ、日本には穢れという概念があり、神社で口をすすぐ、手を洗う、外から帰って足を洗うといった習慣はありました。それが衛生の前身になった面はあるものの、健康にとって重要だと言葉にしたのが長与でした。
コッホへの憧れと、最初の細菌特定
東京衛生試験場で働き始めた北里は、熊本医学校時代の同級生で先輩となっていた緒方正則の助手として仕事を始めます。
この頃の緒方は、ロベルトコッホの助手で後にコッホ研究所の所長となるフリードリヒ・レフラーから細菌学を学び、ドイツ留学から帰国したばかりでした。
緒方は東大医学部衛生学講座の講師となり、さらに内務省衛生局の御用掛も兼ねる二足のわらじの状態でした。先に上京したばかりに先輩となり、ドイツ留学まで済ませていたのです。
ここで北里は緒方の助手として働き始めます。緒方はコッホ研究所で学んでいたため、必要な最新機器をすべてドイツから取り寄せ、良い機械が揃っていたそうです。
この研究所ではさまざまな伝染病の細菌学の調査とともに、結核などの基礎研究も行われていました。北里をここに配置したのは、長与と緒方がコッホ流の最新の研究手法に触れさせようとした配慮だったようです。
働くうちに、北里はいつかドイツに留学してコッホのもとで学びたいと希望するようになっていきます。
1883年の晩春、北里に東北・北海道方面への長期出張命令が出ます。表向きは衛生行政の機構を視察する旅でしたが、実態はエリート官僚の大名旅行のような意味合いがあり、北里は雑用係として同行させられました。
同行したエリート官僚は、後の芸術家・永井荷風の父である長井久一郎という書記官でした。その偉そうな態度に度々腹を立てながらも、立場には逆らえず北里はグッと飲み込んでいたそうです。
喧嘩っ早そうなのに。
そんな時、秋田日報の記者がやってきます。その記者はなんと、後の総理大臣・犬養毅でした。
犬養は、東京から偉い官僚が来ているのだから衛生について講演してほしいと願い出ます。実は大名旅行を見抜いており、人々の前で恥をかかせてやろうという魂胆があったようです。
衛生をよく知らない永井は断りますが、犬養は引き下がりません。困った永井は、北里に「お前が喋れ」と命じます。
北里はここが好機と見たのでしょう。雑用係の自分が差し置いて喋るなどとんでもない、と下手に出て断りました。
すると永井が「これは命令だ」と偉そうに言ってきたため、北里はキレます。何が命令だ、と反発したのです。最後は永井が折れ、頼むから喋ってくれ、と頭を下げました。
北里は講演を引き受けます。弁論部の主将だっただけあって堂々と役割を果たし、聴衆にも受けました。感心した犬養は握手をし、講演後には志の色の席を設けてくれたそうです。
その席では、犬養は北里を上座に、永井を末席に据えて北里を歓待したといいます。
次に手がけたのは、東京都内で発生したアヒルの集団死の原因究明でした。明治十八年、1885年4月、麹町富士見町の華族の邸内で飼われていたアヒルが集団死したのです。
北里はまずアヒルの死体から血液や臓器を取り出して顕微鏡で観察し、細長い棍棒状の桿菌を確認します。桿菌細長い棒状の形をした細菌のこと。丸い形の球菌などと対比される分類の一つ。
この細菌を培養した結果、5年前の1880年にパスツールが発見したニワトリコレラ菌が原因だろうと特定します。北里は非常に優秀で、一瞬で原因を突き止めてしまったのです。
すごいなあ。
話はいったんここまで。次回は細菌学の発展がどう起こったのかを、北里の最初の業績に絡めて話す予定だと語られています。
まとめ
今回は、年齢を偽って東大に入った学生時代から、医道論の発表、日銀総裁の娘との結婚、そして最初の細菌特定までを追いました。反骨心と信念を貫く北里の人柄が、後の細菌学者としての土台になっていったことがうかがえます。
- 受験資格の年齢制限に阻まれた北里は、恩人の年齢詐称という妙案で東大入試を突破した。
- 学生時代に発表した「医道論」は、医学の目的は人々の健康を守ることだという生涯の信念を示していた。
- 仕送りのないなか牛乳会社でのアルバイトが縁となり、後の日銀総裁の娘・寅との結婚につながった。
- 高給の診療機関ではなく内務省衛生局を選び、緒方の助手としてコッホ流の細菌学に触れていった。
- 麹町のアヒル集団死を調べ、パスツールが発見したニワトリコレラ菌を原因と特定した。
