日本の細菌学の父・北里柴三郎とは
最初に、とみーさんから北里柴三郎の人物像が紹介されます。生きた時代は1853年から1931年、幕末から昭和初期にかけてです。
主な功績としては、破傷風菌の純粋培養と血清療法の開発、ペスト菌の発見、北里研究所の設立、そして慶應義塾大学医学部の創設が挙げられます。
ノーベル賞は受賞しませんでしたが、その功績は世界的に評価され、現在の医学や公衆衛生に大きな影響を与えていると話されています。
名前の読み方については、あきさんも「北里(きたさと)」と「北里(きたざと)」のどちらもあると触れ、混同しやすいと話しています。
ペリー来航の年に生まれた少年
北里柴三郎が生まれたのは、今から172年前、嘉永五年十二月二十日にあたる1853年です。父・惟信、母・貞の長男として、肥後国小国郷北里村、現在の熊本県に生まれました。
あきさんは、生家のあった場所には北里柴三郎記念館があり、自身も訪れたと紹介しています。熊本に立ち寄る際にはぜひ行ってほしいと勧めています。
1853年は、ペリーの黒船が来航した年でもあります。とみーさんは、時代の大きな変わり目に生まれたことに驚いていました。
時代のほんと変わり目の変わり目のきっかけになったところですね。
幼少期の柴三郎は、負けん気の強いやんちゃ坊主だったそうです。いつも取っ組み合いの喧嘩をして、生傷が絶えなかったと話されています。こうしたエピソードは、後々も何度も出てくるとあきさんは予告しています。
当時の時代背景として、大老・井伊が老中らと共謀し、天皇の勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印したこと、将軍が徳川家茂に決定したこと、そして開国に反対する者を弾圧した安政の大獄があった年だと解説されます。
一方、生命科学の世界では、同じ年にチャールズ・ダーウィンが『種の起源』を出版しています。それ以前は進化という考え方は信じられていなかった、とあきさんは補足しています。
寺子屋、そして五年間の預け先へ
満六歳の時、柴三郎は寺子屋に入って読み書きを習い始めます。これが1862年、まだ江戸時代のことです。この頃、コレラが猛威を振るい、1万人以上が亡くなっていたと話されています。
九歳になると、叔母の家に預けられ、二年間、儒教の四書五経の素読を学びます。その後は母方の実家に移り、三年間私塾に通いました。
これは単なる勉強漬けではなかったようです。あまりに暴れん坊だったため、母が手放そうと考えたのではないか、とあきさんは推測しています。
この子ちょっと暴れん坊すぎると思ったみたいで。それでちょっともう叔母の家に預けようという形で、五年間手放したみたいなんですね。
一年生から六年生くらいまでの五年間、一度も家に帰らなかったことに、とみーさんは驚きます。あきさんも、母は寂しくなかったのかと感想を述べつつ、当時はよくあったことのようだと話しています。
荒くれ男を追い返した強い母
母・貞は、とても強い女性だったと語られます。子供の頃から男の子と喧嘩をして勝って帰ってくるような人だったそうです。
明治十年、西南戦争が起こった時のエピソードが紹介されます。熊本城を包囲する西郷軍に合流しようとした侍崩れの者たちが、北里村を通りかかり、家々を襲って金を奪っていったといいます。
母は、そうした者たちが来そうだと察すると、子供たちに父と一緒に隠れるよう指示し、自分一人で家の留守番をしました。
案の定、日本刀を抜き身で持った十人ほどの荒くれ男が乱入し、金を要求してきます。しかし母はたった一人で立ち向かったと話されています。
金目のものは何もないよ。嘘だというもんなら探してみろと言い放って、彼らを追い返しているそうです。
とみーさんは、その度胸を「母親の強さですね」と評しています。こうした気性を受け継いだ柴三郎を、親族に預けて成長させようとしたのではないか、とあきさんは考察しています。
熊本の藩校へ、両親の言葉を背に
1867年、十四歳になった北里は実家に帰ってきます。この年は最後の将軍が第十五代征夷大将軍に就任し、孝明天皇が没した年でもありました。次の天皇は明治天皇です。
海外では、アルフレッド・ノーベルがダイナマイトの特許をイギリスで取得しています。この発明で得た財産が、のちのノーベル財団とノーベル賞につながっていきます。
帰郷後すぐ、柴三郎は両親に「熊本に出させてほしい」と願い出ます。母方の実家がある藩の藩校には他藩の子は通えず、私塾で学んでいた儒教も武芸も、彼には物足りなかったようです。
ここで、父と母がそれぞれ言葉をかけて送り出します。父が説いたのは、人の力には限りがあり、運が大事だという教えでした。
何かした人物は運を手の中に収めとる。成功者には必ず恩人がおるもんだと言って、送り出してくれたみたいですね。
一方、母の言葉はより厳しいものでした。頼れるのは自分だけであり、脇目を振らずに進めという教えです。
本当に泣きたい時には誰もおらんところで一人で心ゆくまで泣け。そして忘れろという風に言って、送り出してくれたみたいです。
とみーさんは「なかなか奥深い教えですね」と受け止めます。あきさんは、この後の北里の人生が、まさにこの教えのとおりに進んでいくと語っています。
恩師マンスフェルトとの出会い
明治2年、柴三郎は藩校・時習館に入りますが、時習館はすぐに廃校となってしまいます。最近発見された資料では、実家に帰ってしばらく教師をしていたのではないかとも言われています。
その後、下宿先の安田泰三さんの勧めで、熊本にできた医学校へ進むことになります。明治4年のことです。
熊本医学校(古城医学校、のちの熊本大学医学部)では、オランダ人医師のマンスフェルトが医学を教えていました。彼はオランダ海軍の軍医を経て、長崎医学校でも基礎と臨床の医学を教えていた人物です。
マンスフェルトは非常に厳格な性格で、自分の授業を毎日二時間と定め、学生には必ず出席を求めました。遅刻はご法度で、他の学生の迷惑になるからと厳しく戒めています。
特徴的なのは、いきなり臨床を教えず、基礎医学を徹底的に叩き込んだことです。ここであきさんが、基礎医学と臨床医学の違いを解説します。
人体の構造や機能、病気のメカニズムを科学的に解明する学問。実験室や研究室での研究が中心で、生理学、生化学、薬理学、病理学、微生物学、免疫学、遺伝学などが含まれます。
実際に患者を診察し、病気の診断・治療・予防を行う学問。内科、外科、小児科、産婦人科、精神科、皮膚科など、診察科に分かれます。
簡単に言えば、基礎医学は医学の理論的な基盤を築き、臨床医学はその知識を医療現場で応用する学問だとまとめられています。とみーさんは、この時代からすでに区分がされていたことに驚いていました。
マンスフェルトは、まず何よりも基礎が大事だとして、特に解剖学を重んじました。人体の仕組みを知らなければ病気を知ることはできない、というのが彼の主義でした。
一年半かけて基礎医学を叩き込み、土台ができてから内科や外科などの臨床に進ませています。さらに毎日二時間、オランダ語も学ばせました。当時オランダ語は主流の外国語で、北里は割と最初から授業についていけたようです。
マンスフェルトは、膝関節リウマチという持病を抱えながら、三年間の契約中に一日も欠勤せず、夏休みも取らなかったと話されています。
リウマチの発作が出た時には、手桶の水で足を冷やしながら授業をして、それで診察をしてたそうです。
当時はリウマチの薬もなかっただろうと、二人はその真面目さと強さに感心しています。
顕微鏡の中の世界と医学への決意
マンスフェルトは、北里に別の野望があることを見抜いていたようです。ある時、熱心に勉強する彼に「本当に医者になるつもりか」と問いかけます。
柴三郎は正直に答えました。両親に勧められて医学を学んでいるが、本当は軍人か政治家になりたい、しかし両親に反対されている、と打ち明けています。
当時の柴三郎は、医者という職業を少し馬鹿にしているところがあったようです。町の名士として振る舞い、金持ちだけを診て偉そうにする医者にはなりたくない、と思っていたと語られます。
ところが、ある授業で顕微鏡を覗いた時、その考えが変わります。病気になった患者の臓器から作られた切片のプレパラートを見せられた時のことでした。
そこに写っていた細胞や感染した細菌が、まるで生き生きと生きているように見えたといいます。あきさん自身も、初めて染色したサンプルを見た時に美しい世界だと感じたと共感しています。
とみーさんも、普段は目視できない世界が顕微鏡で見えることの感動に触れ、ミジンコを見て感動した経験を語っています。
東京へ、そして次章へ
1874年、明治七年、二十一歳になった柴三郎に、マンスフェルトが再び声をかけます。ちょうど三年の契約が終わり、彼が別の地へ移る時期でした。
マンスフェルトは、自分が教えたのは医学の入り口にすぎないと語り、熊本に残って開業するより、東大医学部でさらに学び、できればヨーロッパへ留学するよう勧めます。
別れ際に告げた言葉が、北里のその後を象徴しています。
医学の使命は、病気から生命を守り、予防することにあるんだよ。
とみーさんは、この時代からすでに「予防」に着目していたことに驚いています。病気の人を治すだけではない、という視点です。
七年ぶりに実家へ帰った柴三郎は、東京医学校、のちの東大医学部へ進みたいと両親に相談します。両親は貧しく仕送りはできないと答えつつ、学費と生活費を自分で工面するなら行ってこいと送り出します。
九月に東京へ着いた柴三郎は、同郷の先輩・山田たけとしの家で世話になることになります。
ここまでで、幕末に生まれた少年が、強い母の教えと恩師マンスフェルトとの出会いを経て、医学の道を志すまでの物語が語られました。次回は、東大医学部に入ってからの歩みが取り上げられます。
まとめ
今回は、北里柴三郎の生い立ちをたどりました。ペリー来航の年に生まれた負けん気の強い少年が、強い母の教えと厳格な恩師マンスフェルトのもとで学び、顕微鏡の中の世界に感動して医学の道を志すまでが語られています。
- 北里柴三郎は1853年、ペリー来航の年に肥後国北里村に生まれた。
- 強い母・貞は、荒くれ男に一人で立ち向かうほどの気性で、自分を信じて進めと柴三郎を送り出した。
- 熊本医学校の恩師マンスフェルトは、基礎医学と解剖学を重んじ、厳格な姿勢で北里を導いた。
- 顕微鏡で見た細胞や細菌の生き生きとした世界に感動し、柴三郎は医者になる決意を固めた。
- マンスフェルトは「医学の使命は病気から生命を守り、予防すること」と説き、北里を東京へと送り出した。
