コッホの研究室で信頼を勝ち取った几帳面さ
ドイツに渡った北里柴三郎は、無事にローベルト・コッホの研究室に迎え入れられます。
コッホ先生に挨拶をした翌日から、旅の疲れもそこそこに実験課題へ取り組み始めたと話されています。
早速。
早速ですね。
北里の実験の進め方は、非常に綿密でした。実験計画を立て、必要な器具を準備し、その器具は自らの手で徹底的に洗ったといいます。
誰の手も借りず、誰の手も信じずに実験を進めていたそうです。
当時の細菌学は黎明期で、細菌学の黎明期19世紀後半、コッホやパスツールらによって病原菌が次々発見された時代。実験手法や殺菌・除菌の方法はまだ確立されていなかった。殺菌や除菌のやり方もまだ定まっていませんでした。
だからこそ北里は、正確な実験結果を得るために、シャーレや器具に雑菌が入ることを極力排除しようとしたと考えられます。
今と違い、当時のシャーレはすべてガラス製で、使い回しもしていました。器具を洗うだけでも大変な作業だったようです。
私も実験の時、まず洗うことからするんですけど、フラスコに水の膜ができないままスーッと落ちる状態になるまで、何回も洗い直しするんです。なかなかできないもんです。
あきさんも学生時代の器具洗いを振り返り、イオン交換水や蒸留水で何度もすすいだ経験を語っています。水道水には塩素が混ざるため、さらに綺麗な水をかけていたそうです。
こうした北里の姿勢には、同僚のドイツ人や他の留学研究者も驚嘆したといいます。
正確さと勤勉さを美徳とするドイツ人たちでさえ、これは自分にはできないと感じたそうです。
この実験姿勢がレフラーを通じてコッホに報告され、北里はすぐにコッホの信頼を獲得しました。
森鴎外の入門と石黒との衝突
北里への信頼の厚さは、ある出来事にも表れています。
1887年4月、作家としても有名な森林太郎、つまり森鴎外が北里を訪ねてきます。自分もコッホの下で学びたいので、口を利いてほしいと頼んできたそうです。
北里が取り次ぐと、コッホは「北里くんが面倒を見るならいいでしょう」という感じで、森に半年間の入門を許可しました。
いきなり来た人をOK出せるっていう。
北里はコッホから、コレラ菌における乾燥および温熱に対する抵抗力という研究テーマを与えられます。
コレラ菌を温めたり冷やしたり乾燥させたりと、いろいろな条件で培養して挙動を観察する研究でした。治療のヒントになるかもしれないとコッホは考えたのかもしれません。
この研究が佳境に差し掛かった頃、陸軍軍医の石黒が動きます。北里が予算を得てドイツ留学できたのは、石黒の尽力のおかげでした。
1889年9月、石黒はウィーンで開かれる第6回万国衛生会議に日本政府代表として出席する前に、ドイツを視察に訪れます。
そして石黒は北里に、3年間の留学のうち最後の1年はミュンヘン大学で衛生学を学ぶよう命令します。
日本が先進国と肩を並べるために、広く世界水準の知識を学ばせたいという考えからでした。
しかし北里は、せっかく入れたコッホの元を離れるのは絶対に嫌だと断ります。
断るんだ。
石黒は上官の命令に従わないのかと怒りますが、北里も反論します。
細菌学は最新の学問で、今はその黎明期です。2年程度で学び終わるものではないことは、貴官もお分かりでしょう。
同席していた森鴎外が機転を利かせ、北里を外に連れ出して二人を引き離します。
森が北里に詰め寄ると、北里は自分の気概が受け入れられないなら衛生局を辞めると返答したそうです。
森は「君はすぐこれだからいかん」と言いつつ、再び石黒のところへ行き、細菌学の実情を説明して説得してくれました。
すごいサポートしてくれたんですね。
石黒とコッホの面談とコレラ対策
石黒がベルリンに立ち寄ったのには、もう一つ理由がありました。
日本ではコレラが度々流行し、その予防策に苦慮していたため、コッホに直接相談したかったのです。
当時のコレラの被害は深刻でした。1886年、明治19年に日本でコレラが大流行し、患者数は15万5923人、死者は10万8405人にのぼりました。
感染者のおよそ70%が死亡するという、非常に恐ろしい病気でした。
感染症で亡くなる方が多く、当時の平均寿命は男性が44歳、女性が48歳だったと話されています。
もう今の約2分の1ですね。100年前の日本でこんな状態だったんですね。
面談でコッホは世界地図を出してきました。地図には、日本の各年のコレラ流行と患者数が詳細に書き込まれていたそうです。
他の国にも同様の書き込みがあり、年ごとにどの地域でコレラが発生したかが一目でわかるものだったといいます。
石黒は、日本では糞便を肥料として使っており、そこに患者の糞便が混ざることがコレラを広げているのではないかと相談します。
コッホは、糞便の消毒には石灰消石灰などの石灰は強いアルカリ性を持ち、細菌の消毒に用いられてきた。安価で入手しやすく、当時の公衆衛生対策で広く使われた。を用いるとよいと教えました。この後、日本では糞便消毒に石灰を用いるようになります。
この会談でコッホは、信頼する愛弟子の北里を他へやらないでほしいと石黒に依頼します。
石黒はコッホからの厚い信頼を感じ、北里をよそにやらないと約束してくれました。
ちゃんと見て評価するようになったんですね。
脚気菌論争と師の間違いを指摘する勇気
この頃、脚気菌論争が起こります。
脚気は江戸時代から明治にかけて日本で猛威を振るい、多くの人が亡くなっていました。脚気ビタミンB1不足によって起こる病気。当時は原因が不明で、細菌説と栄養説が対立していた。
オランダの病理学者ペーケル・ハーリングが、脚気は細菌が起こすと唱えます。日本でも、柴三郎の同級生で先輩でもある緒方が、脚気細菌説を発表しました。
柴三郎自身も、脚気は感染症かもしれないと疑っていたそうです。しかし論文をよく読み込むと、データがおかしく、菌であると証明できていないのではないかと感じます。
柴三郎はこのことを、コッホの一番弟子であるレフラーに相談します。
学問の世界で何が一番大切だろうか。それは真実だよ。
私がもしコッホ先生に間違いがあると思ったら、迷わずそれを指摘する。先生はおそらく非を認めて、むしろ感謝すると思うよ。
そこで柴三郎は、ペーケル・ハーリングの実験の不備をついた論文を、ドイツの細菌学中央雑誌に発表します。緒方の実験を批判する論文も書きました。
北里の指摘は、コッホの四原則に従って行われています。
ここで、コッホの四原則がどう発見されたのかも紹介されています。コッホは元々ドイツの片田舎の医者で、まだ有名でない頃に炭疽菌の分離培養に成功しました。
その菌を動物に接種して炭疽に感染させ、その病巣から再び炭疽菌を分離培養できることを実証します。
同じ手法で、1882年に結核菌、1883年にコレラ菌を発見し、コッホの四原則を提唱しました。
病巣から採取
患者の病巣部分から病原菌を取ってくる
純粋培養
取ってきた菌を純粋に培養する
動物へ接種
純粋培養した菌を動物に打ち、同じ病気になるか確認する
再び分離
病気になった動物から同じ菌を再び純粋培養できるか確認する
この四原則に当てはまっていないと指摘されたペーケル・ハーリングは激怒し、オランダから反論の手紙をコッホに送ってきます。
コッホに問われた北里は、ペーケル・ハーリングが純粋培養したという脚気菌を送ってほしい、自分が追試すると答えます。
送られてきた菌株で追試したところ、実験動物に打っても病気にならず、顕微鏡で見るとどこにでもいるブドウ球菌だと見抜きました。
ペーケル・ハーリングは1年後に自らの非を認め、研究室を訪れて柴三郎に感謝の意を伝えます。レフラーの言った通りになったわけです。
日本の学界との対立と海軍・陸軍の脚気
一方、日本の反応は対照的でした。
脚気細菌説を唱えていた緒方は、不備をつかれて非常に怒ります。
怒っちゃうんだ、やっぱり。
緒方は、脚気の菌をグラム染色によって見つけたと主張していましたが、北里はありふれた菌の可能性があると指摘しました。
また緒方は、菌に感染させた動物が脚気になったと主張していましたが、対照実験として患者の血液を動物に接種した反応は見ておらず、片手落ちの実験だと指摘します。
北里は緒方の実験方法の不備を指摘しただけで、細菌説そのものを否定したわけではありませんでした。
しかし緒方だけでなく、森鴎外も非難を唱えます。東大の総理、今でいう総長の加藤も激怒し、北里を人非道の者のように見なしました。
レフラーはOKだったのに、もうなんかダメだったんですね。
日本は、師匠の間違ったことは弟子が訂正するっていうのは許されない、そういう感じなのかもね。
こうして柴三郎は、反東大の人間というレッテルを貼られることになります。
今では脚気の原因はビタミン不足とわかっていますが、当時は栄養説と細菌説に分かれ、海軍と陸軍が争うような状態でした。
森鴎外はその後、陸軍軍医のトップに就きますが、細菌説に固執して栄養説を採りませんでした。
海軍は栄養説を採り、白米ではなく麦を混ぜた麦飯を食べるようにしました。これで海軍では脚気がなくなります。
よかった。特に海軍なりやすいですもんね。
一方、陸軍はずっと白米で飯を作って食わせていたため、脚気が出まくります。
森鴎外が細菌説に固執したことで、多くの陸軍兵士が脚気で亡くなるという悲劇が起きました。
日清戦争、日露戦争を勝ち抜いたにもかかわらず、海軍閥と陸軍閥は医学の場でも争っていたのです。
データをきちんと示して科学的に反証しているのであれば、学問の世界では正しいと思う。だけどこの時代の日本は、師匠の論を覆すのは、データ的に正しくても許されなかったんでしょうね。
これだから進まないんだよって、突っ込みたくなりますけど。
次回は、北里がどんな神業的な実験をしていたのか、菌の培養などを紹介していく予定と話されています。
まとめ
ドイツに渡った北里柴三郎は、誰の手も借りない几帳面な実験姿勢でコッホの信頼を勝ち取ります。しかし真実を追う姿勢は、師の間違いも許さない海外の学界では評価される一方、師を立てる日本の学界では対立を招きました。脚気をめぐる細菌説と栄養説の争いは、科学が時代背景と無縁ではいられないことを示しています。
- 北里はガラス器具を自ら徹底的に洗うなど、雑菌を排除する綿密な実験でコッホの信頼を得た。
- 1886年の日本ではコレラが大流行し、感染者のおよそ70%が死亡するほど感染症の被害が深刻だった。
- コッホの四原則は、病巣からの採取・純粋培養・動物への接種・再分離という流れで病原菌を証明する。
- 北里は脚気菌論争で実験の不備を指摘し、ペーケル・ハーリングは非を認めたが、日本の緒方や学界は反発した。
- 陸軍は細菌説に固執して白米を続け、栄養説で麦飯にした海軍と対照的に多くの脚気死者を出した。
