ドイツ人が驚愕した180枚のシャーレ実験
前回、陸軍や海軍となかなか折り合えず対立した話がありましたが、今回はいよいよ北里がドイツに渡り、神業的な実験技術を披露していく段階です。
北里はコッホ研究所に入り、コレラ菌が乾燥にどの程度耐えるか、どんな環境を好み、どんな環境で死滅するのかを探る研究に取り組んでいたと考えられます。
紹介されたのは、おそらくその実験だろうという記録の文章です。その内容がとにかく凄まじいものでした。
北里はまず実験器具を周到に用意し、菌が混ざらないよう徹底的に洗浄しました。これは実験の精度を守るうえで非常に重要な工程です。
そのうえで、テスト用の菌株をなんと15種類用意したそうです。通常なら3〜4種類でよさそうなところですが、これはN数を増やす意図だったと考えられます。
この15種類を、当時の手法とみられる方法で絹の布とガラスに塗り分けました。これで30種類に増えます。
絹糸って糸じゃなくて、絹の布ですね、きっと。丸い布を円形に張ったやつで、シャーレの上にスタンプしていくようなことをしたんじゃないかな。
さらに、肉汁の培地と寒天の培地にそれぞれ植えることで、30種類が60種類になります。肉汁培地はおそらくゼラチンのことで、栄養の異なる2種類のゼリー状培地に分けたと考えられます。
これらを、室温で乾かすもの、硫酸乾燥機に入れるもの、湿気のあるガーゼで覆うものの3通りで置きます。これで60種類が3倍になり、180枚のシャーレになります。
そのうえで、時間ごとの変化を追うタイムコース実験を行います。1時間、2時間、3時間、4時間後、さらに15時間後、24時間後、35時間後にサンプリングしていきました。
180種類を1時間でこなすとなると、1分間に3つサンプリングし続ける計算になります。しかも10時間目くらいまでは休めないというのです。
一分間に三つのシャーレをサンプリングをこなしていって、それで十時間目までずっと手を動かし続けるんです。
すごいな、確かに。
これをどうやら一人でやっていたようです。飯も食わず、トイレにも行けなかったのではと語られています。無菌的な操作も同時にこなす必要がありました。
この様子を見ていたドイツ人研究者たちは、自分たちにはこんな実験はできないと北里を尊敬したそうです。真面目で手先が器用だと自任するドイツ人が、そう言うほどの神業でした。
こうした実験姿勢がコッホにも伝わり、北里は少しずつ信頼を勝ち取っていったのだと考えられます。
留学延長と、待ち続けた妻トラ
こうした実験をこなすうちに時間は過ぎ、1888年になります。北里の3年間の留学期間が終わろうとしていました。
しかし研究はまだ道半ばで、コッホから与えられたテーマの結論も出せていませんでした。そこで北里は留学延長を願い出る手紙を国に書きます。
コッホ自身も、優秀な弟子がいなくなると困るとして、日本政府に北里を留め置いてほしいと手紙を書いてくれたそうです。
世界的な研究者のコッホが、北里をとにかく留め置いてくれというふうに書いてくれたそうです。
しばらくすると、内務省の上司である長与千載から手紙が届き、さらに2年間の延長が許可されます。これで1891年(明治24年)1月までコッホのもとで研究できることになりました。
ただ、ここで話題になったのが妻のトラです。若くして結婚しながら3年放置され、さらに2年延びることになります。
旦那さん、結婚していきなり五年間いないみたいな。しかも結婚後すぐですよ。
結婚してなかったのかなって、ちょっと疑い持ちそうですね。
16歳で結婚し、よく待ってくれたものだと語られています。手紙のやりとりはあっただろうとしつつ、詳しい記録は見つからなかったそうです。
コッホ研究所のスター研究者たちと破傷風の壁
コッホの研究室では、週末の午後に論文を読み合うセミナー形式の勉強会が開かれていました。今でも多くの研究室で行われている形です。
一流のコッホ研究所には、将来のスター研究者が揃っていました。ジフテリア菌を発見したフリードリヒ・レフラー、腸チフス菌の純粋培養に成功したゲオルグ・ガフキイなどです。
さらに、のちに北里と血清療法を発表し、第1回ノーベル生理学医学賞を受賞するエミール・ベーリングもいました。彼は製薬会社の礎を築いた人物です。
化学療法を創始し、こちらもノーベル賞を受賞するパウル・エールリヒもいました。こうした顔ぶれが激しい議論を交わしていたのです。
当時、細菌学でどうしても越えられない壁がありました。破傷風菌です。土の中にいるとわかっていても、純粋培養がどうしてもできませんでした。
ゲッティンゲンの著名な細菌学者フリッケ博士は、破傷風菌は純粋培養できないという説を唱えていました。スター研究者たちもこの説を支持します。
しかし北里だけは納得できず、反論しました。他の菌ができるのに破傷風菌だけできないはずがない、というのです。
他の菌は純粋培養できるのに、破傷風菌だけができないということは絶対にない。
するとコッホが「じゃあ君がやってみるかい」と言い、これが北里の新たなテーマになりました。北里はテーマが承認されたと胸を熱くし、翌日から研究に打ち込みます。
なぜ破傷風は恐れられたのか
ここで当時の時代背景が語られます。1870年から71年にかけて、プロイセン王国とフランス帝国の間で普仏戦争が起きていました。
この戦争での死者は両国あわせて25万人にのぼりました。大砲や弾によるものだけでなく、塹壕戦での傷口から侵入した破傷風菌による死者が8万人にも達したのです。
ほんとですね、三分の一がそれで死んじゃったってことですね。
つまり破傷風は、世界中から解決が強く求められる研究テーマでもありました。
破傷風の症状も紹介されます。最初はムズムズした不快感や頭痛が起き、口の周りがこわばって言葉がもつれ、水を飲むのも難しくなります。
さらに口角が横に広がり口を閉じられなくなる、破傷風顔相と呼ばれる引きつった表情になります。神経が侵され筋肉が硬直するためです。
その後、呼吸筋の硬直で呼吸困難になり、全身の痙攣発作を繰り返して死亡します。死亡率は80パーセントという、恐ろしい不治の病でした。
原因菌が発見されたのは1884年です。ドイツのゲッティンゲン大学を出て間もないユダヤ人内科医アルトゥール・ニコライヤーが、化膿した傷口から太鼓のバチのような形の細菌を見つけました。
太鼓のバチっていうより、なんかマッチ棒みたいな感じですね。音声で聴いてる人はぜひ調べてみてください。
しかしニコライヤーも純粋培養はできませんでした。その後も多くの細菌学者が挑戦しますが、みな失敗します。
フリッケ教授も、いつも他の菌と一緒に培養されてしまうことから、破傷風菌は他の菌と共生してのみ生きられる特殊な菌ではないかと考え、共生培養説を発表しました。
茶碗蒸しから生まれた嫌気性の気づき
北里はこの共生培養説に噛みつきました。同僚たちは、大家のフリッケ教授に異を唱えるとは大した度胸だとからかったそうです。
なるほど、すごい北里さんらしいというか。
北里はまずベルリンの陸軍病院で破傷風患者から膿をもらい、顕微鏡でマッチ棒のような菌を確認します。それをネズミに植えて破傷風になることを確かめました。
そのネズミから破傷風菌を取り出し、シャーレの培地に植えて蓋を閉じ、20〜25度で培養します。しかし他の研究者と同じく、シャーレは雑多な菌で溢れかえってしまいました。
何度繰り返しても、1ヶ月経っても純粋培養は成功しません。共生培養説が正しいように思われ、北里はかなり落ち込みます。
そんな北里を励まそうと、同僚のヘルターがホームパーティーに誘います。恋人が料理を作ってくれるから食べに来ないか、というわけです。
その恋人が作ってくれたのは、茶碗蒸しに似た卵と生クリームの蒸し物でした。彼女は蒸したあと、中まで火が通ったか串を刺して確かめていました。
その姿を見て、北里はひらめきます。行き詰まったときはやはり外に出てみるものだ、と語られています。
北里は子供の頃に釘を踏んで軽い破傷風にかかった経験がありました。傷はすぐ治りましたが、炎症は傷の表面ではなく皮膚の奥で進んでいたことを思い出したのです。
料理を見てそんなこと考えついてたんだね。
ここから北里は、破傷風菌は皮膚の奥のような空気の少ない環境を好むのではないかという仮説を立てます。
当時すでにルイ・パストゥールが、酸素のない環境でも酵母が生きる嫌気性菌の存在を発表していました。北里はその知識を持っていたのです。
そこで北里は、針の先に破傷風菌をつけてシャーレのゼラチンに差し込んでみました。すると培地の表面には菌がおらず、差し込んだ奥でだけ増殖していたのです。
これで、純粋培養には酸素が邪魔なのだろうと推測します。北里はシャーレの中を人工的に酸素の少ない状態にしようと考えました。
酸素以外の気体で満たせばよいと考えた北里は、オランダの科学者ペトルス・キャップが考案した「キャップの装置」に着目します。熱をかけずに水素を発生させられる装置です。
この水素をシャーレに満たして酸素を押し出そうというわけです。装置の詳しい仕組みは音声では説明が難しいため、動画などで調べてほしいと語られています。
キャップの装置やさまざまな工夫を凝らした培養装置の開発については、次回に説明されます。破傷風菌との本格的な対面はここからです。
まとめ
今回は、コッホ研究所での北里の凄まじい実験と、不可能とされた破傷風菌の純粋培養への挑戦が語られました。落ち込んだ北里が茶碗蒸しの調理から嫌気性の気づきを得るまでが描かれています。
- 北里は180枚ものシャーレを一人でさばく神業実験でドイツ人研究者からも尊敬を集めた。
- 留学は2年延長され、その間、妻トラは合わせて5年もの不在を待ち続けた。
- 普仏戦争では破傷風菌による死者が8万人にのぼり、その克服は世界的な課題だった。
- フリッケ教授の共生培養説に北里だけが反論し、コッホから研究テーマを託された。
- 茶碗蒸しの調理と自身の子供の頃の経験から、破傷風菌が嫌気性であるという仮説にたどり着いた。
