加入直後は「ヘロヘロ」 毎日怒られていた日々
鞘師里保さんが振り返るのは、モーニング娘。に加入した最初期のことです。地元での合格を経て東京へ出てきたものの、待っていたのは楽しさばかりではありませんでした。
最初、本当に初期は毎日のように怒られてて、何で怒られてるのかもわかんないまま反省するみたいな日々が続いたりとかして。
加入からわずか数ヶ月で、ツアーデビューやCDデビューが控えていました。生活は一気に変わったといいます。
一気に生活が変わりましたね。それは自分が望んでたものでもあったんですけど、同時にやっぱり容易いものではなかったので。
当時の率直な感覚を、鞘師さんは体力の面から語ります。まだ筋肉も十分でないまま激しく踊る必要があり、ケアも行き届かず怪我をすることもあったといいます。
もう単純に疲れてましたね。
もうヘロヘロっていう。
ヘロヘロっていう感じです。
そうした初期を耐えながら学び、なんとか土台ができて楽しめるようになったのは、加入して1年ほど経った頃だったと鞘師さんは話します。
先輩の力量に「勝手に怖さが増幅」した1年目
久しぶりのオーディションで加入した鞘師さんにとって、先輩たちは非常に力量の高い存在でした。今振り返れば先輩たちも大変だっただろうと理解できるものの、当時はとにかく怖かったといいます。
その時はやっぱ大人がいっぱいいて怖いよっていうような記憶が強かったですね。すごい先輩たちについていかなきゃって。それだけ。
川邊健太郎さんは、先輩の態度が怖いのではなく、力量の高さにビビってしまう感覚だったのではと問いかけます。鞘師さんもこれに同意しました。
優しく見よってくれてるんですけど、ちょっとやっぱピリッとするだけでめちゃくちゃ怖いみたいな。すごい怖さが増幅する。自分の中で勝手に。
ダンスは歌を表現するツール 高橋愛の一言で変わった意識
1年目の思い出として鞘師さんが挙げたのが、パフォーマンスへの意識を変えた一言です。ダンスに自信を持って加入した鞘師さんに、当時のリーダー・高橋愛さんが言葉をかけました。
それまでは「ダンスを見てくれ」という気持ちでパフォーマンスをしていたという鞘師さん。アーティストとしての立ち位置は違うのだと、この言葉で認識したといいます。
私はダンス見てくれと思ってずっとパフォーマンスしてたけど、アーティストとなると違うんだっていうのをそれで認識しました。
この気づきによって、ダンスと歌のバランスを意識するようになったと鞘師さんは語ります。ダンスは歌を表現するためのツールという視点が、その後のパフォーマンスの土台になりました。
学校は「オフモード」 中学生とアイドルの二重生活
デビュー後は目まぐるしい日々が続きましたが、当時中学生だった鞘師さんは義務教育も受けていました。どうやってこなしていたのか、川邊さんが尋ねます。
とにかく起きて行くしかない。それだけです。
午前中は普通の中学生として学校に通い、午後から夜までモーニング娘。の活動に入る生活でした。気持ちの切り替えについて、鞘師さんは独特の感覚を語ります。
モーニング娘。の時はオンなんですけど、それ以外オフみたいな切り替えっていうよりもオンかオフのどっちかで。
学校ではオフモードだったため、同級生には気の抜けた姿しか見せていなかったかもしれない、と鞘師さんは振り返ります。
当時の同級生とかは、私がもう半目でいるのしか見てないかもしれないです。
都会の同級生たちは、鞘師さんの活動を他言したり過度に干渉したりせず、普通に仲良く接してくれたといいます。その距離感を鞘師さんはありがたかったと語ります。
都会の中学生ってすごい品があるなって思ったというか、なんか干渉もしすぎず、普通に学校に行ってただ仲良く接してくれるだけ。
後輩が入り、芽生えた責任感
鞘師さんは早くから中心的な立場で活動していましたが、チームとして結束力が増したと強く感じたのは、2014年のことだったといいます。この頃までに高橋愛さん、新垣里沙さん、道重さゆみさんと、3人のリーダーの卒業を経験していました。
道重さんの時に、ちゃんとチームの一員としているっていうような感覚ありました。ちゃんと本当に上下とかもそんなに気にしすぎず。
当初は「東京に行くぞ」という気持ちで加入し、抜擢されることも嬉しさが強かったといいます。しかし2年目、3年目と後輩が入り、先輩を見送る機会が増えるにつれ、心境が変わっていきました。
引っ張らなきゃいけない責任感みたいなものを感じてきて。それが時折自分を鼓舞してくれるものであったし、時には負担に感じてしまうこともありました。
伝説の2014年 「パフォーマンスの底上げ」に賭けた1年
そして迎えたのが、モーニング娘。の歴史でも語り継がれる2014年です。外にグループを届けるため、リーダーの道重さゆみさんを筆頭に、メンバーそれぞれが役割を担っていました。
私はどちらかというとパフォーマンスを底上げできるように頑張ろうっていうのに、すごくみんな気合が入ってた一年だったなと思いますね。
川邊さんは、ハロープロジェクトのグループには役割分担があると指摘します。外で新しいファンを獲得する人がいる一方、ライブに来たファンが別のメンバーのすごさにハマっていくという構図です。
新しいファンを獲得してくる役割の人と、だけどそれで見に来た新しいファンが実際に行くと、なんか他にすごい子がいたんだみたいな感じでハマっていく。
鞘師さんは、自分の役割をライブの楽しさを伝えることだと捉えていたと語ります。グループを離れて10年経った今も、当時のパフォーマンスが好きだと言ってくれる人がいることに、感慨深さを感じているといいます。
あの時のパフォーマンスが好きでとかって、いまだに言ってくださる方がいたりするので、ちゃんとあの時の自分もなんか誰かの記憶には残ってたんだなと思うと、感慨深いというか。
ライブでハイになる 鬼気迫る迫力の原動力
川邊さんは、当時15歳前後だった鞘師さんのパフォーマンスに、アイドルらしからぬ鬼気迫る迫力を感じていたと語ります。その原動力は何だったのか、と問いかけました。
鞘師さんによれば、当初は目立ちたいという気持ちもあったものの、次第にライブの充実感や質のほうへ目が向くようになったといいます。ハロープロジェクトはライブの回数が非常に多いことも背景にありました。
その充実度が上がってったり、ファンの方の満足度が上がっていくことがとにかく私の喜びだったので、それをもっともっと大きくしていきたいっていうのが原動力でしたね。
当時一番楽しかったのは、間違いなくライブをしている時だったと鞘師さんは断言します。一方で、ライブ以外の活動には苦手意識もあったといいます。
喋りがあんまり得意ではないなとか、そういうのは感じながらはやってましたね。
「濾過して濾過して」 言葉に神経をすり減らした日々
バラエティーでは活躍しなければという凝り固まった考えがあり、ウケを取ろうとして空回りすることもあったと鞘師さんは振り返ります。真面目な話はできても、面白いことを話すのは難しかったといいます。
当時は綺麗な言葉を話さなければという意識が強く、発する言葉に神経を使っていたと鞘師さんは語ります。言葉が拡散されていく怖さもあったためです。
すごい濾過して濾過して、最後に出てきた言葉で伝えていくみたいな。怖さもあったので。
年齢を重ねるにつれ、言葉に雑味が出てもいいのではないかと実感するようになり、今に至るといいます。当時トップアイドルの中心にいた15歳にとって、失敗は許されないという緊張感がありました。
失敗疑惑あると、もう全部全部すくい上げられてありましたね、そういう時期。
道重さゆみとの「補完関係」 伝説の福村ダッシュの裏側
2014年を引っ張ったリーダー・道重さゆみさんとの関係を、鞘師さんはパートナーに近いものだったと語ります。道重さんはグループを俯瞰し、外へ伝えていく動き方を担っていました。
私はライブで引っ張りたいみたいな。それぞれの場所でやってるので、それで力を合わせましょうみたいな。
鞘師さんは、自然と湧いていた自分の気持ちを促してくれたのは道重さんのリーダー力だったと分析します。メンバーの引き出し方やスポットライトの当て所が上手な人だったと評しました。
ちゃんとメンバーの扱い方というか、引き出し方というか、スポットライトの当て所がすごく上手な方だったのかなとも思いますし。
ここで川邊さんが、ファンの間で語り継がれる「福村ダッシュ」について、当時何を考えていたのかを尋ねます。これは道重さんの卒業コンサートで起きたアクシデントを、メンバーが団結して回避したとされる出来事です。
鞘師さんの答えは、ファンが語る劇的なイメージとは少し異なるものでした。トラブルは日常茶飯事であり、冷静に対応を考えていたといいます。
トラブルは日常茶飯事だったので。それにもうどう対応すればいいかを冷静に多分みんな考えてたと思いますね。
歌割りの変更などはスタッフからイヤモニに指示が飛ぶため、対応は比較的スムーズだったといいます。鞘師さんは当時のメンバーの動きを、静かな言葉で表現しました。
17歳での卒業 「循環させる」という決断
2015年、鞘師さんはモーニング娘。を卒業します。川邊さんは、道重さんという大黒柱がいなくなった中で、2014年の高いクオリティを維持・発展させるために、鞘師さんが強いプレッシャーを抱えたのではと察します。鞘師さんもそれを認めました。
役割を全うしようとする一方で、鞘師さんは人間としての自分についても心配になってきたといいます。一点集中型の自分が、外の世界を見ずに成長できるのかという不安でした。
今ここで駆け抜けてはいるけれども、人生はもっと長いはずで。もっと自分が物理的に外に出ていろんなものを見ていかないと、人として成長できない。
卒業したのは17歳。20歳が近づき、成人後の人生を想像したとき、ぞっとしてしまったとも語ります。一点集中だった感覚から、長い目で先を見なければというバランスへと変わっていったといいます。
続けるか卒業するかを考える中で、鞘師さんが挙げたのが「役割を循環させる」という視点でした。組織では当たり前とも言えるこの考え方を、当時から持っていたといいます。
中心に立つっていう、私の任期はそろそろ終えた方がいいんじゃないかとか。
振り返れば「なるべくしてなった」 卒業への今の答え
鞘師さんは自身のソロデビュー曲の歌詞に、卒業当時の心境を重ねて聞かれることもあると川邊さんは指摘します。挫折とも捉えられる決断を、鞘師さんは今どう受け止めているのでしょうか。
そうせざるを得なかった気持ちと、そうするべきだった。なんかどっちの気持ちもある。
鞘師さんは、あの時に判断しなければどちらにしてもいい状態にはいかず、今の自分もいなかっただろうと語ります。今幸せに生きられていることから、間違いではなかったと認識しているといいます。
今私は幸せに生きられてるので、間違いではなかったんだろうなという認識はしてますね。
川邊健太郎さんも、自身の経験を重ねます。会社を売却し、3年前に社長を降りたときも、自分がいなくなったら組織はどうなるのかと思ったものの、組織はちゃんと続いていったといいます。
自分がないとどうなっちゃうんだろう、この組織はとか思うけど、やっぱり別にあとはちゃんと続いていくんですよね。
その転機が結果的に自分の人生をいい方向へ導いたと川邊さんは語ります。その時点ではわからないから不安になるけれど、振り返れば正解だったという感覚を、10年前や20年以上前の出来事から実感していると話します。
競争から技術へ 川邊健太郎が語る「今こそ振り切る」転機
話は川邊健太郎さん自身の転機の話へ広がります。鞘師さんが、会社の転換はどういうタイミングで訪れるのかと逆に問いかけました。
川邊さんによれば、これまでの転機のドライバーは常に「競争」でした。競争によって状況が悪くなったり、勝つために自ら状況を変えたりしてきたといいます。
しかし今回の転機は、競争の手前にある「技術の転換」が引き金だと川邊さんは説明します。通常は技術転換が競争を生み、それが自分を変える転機になりますが、今はその順序が崩れているといいます。
今AIが来てて、その技術の転換が早すぎて、その競争の転換まで至る前に技術革新がすごすぎて。
過去2回は競争によって自分が変わってきたが、今回は技術の移り変わりが早すぎるため、手前の技術で取り組んでいることをやめ、AIにフルベットしていいのではという転機を迎えていると川邊さんは語ります。
前二回は結構心配だったり、後悔もいっぱいその当時あって、結果論やってよかったなっていう感じのことが多いけど、今回はもう全身で絶対やった方がいい。
17歳の決断は、なるべくしてなった
川邊さんは、鞘師さんのラジオに出演した際、深く理解するために『十七歳の決断』という本を読んだと明かします。本人は読み返したくないだろうと思いつつ目を通したといいます。
その上で川邊さんは、当時の決断は、10年経って振り返れば「なるべくしてなっている」と評します。鞘師さんも後悔はないと答えました。
やるべきことはもしかしたらあったかもしれないんですけど、もうそうするしか多分もう答え出ないですね。
その決断をしたからこそ、今の全く違う自分がいるのだと鞘師さんは語ります。川邊さんもその通りだと応じ、この日の会食は締めくくられました。
まとめ
13歳で加入し、ライブでハイになるほど全力を注いだ鞘師里保さんが、17歳での卒業までの5年間を振り返った回でした。高橋愛さんの一言、伝説の2014年、そして「役割を循環させる」という決断が、今の自分につながっていると語られました。
- 加入直後は毎日怒られ「ヘロヘロ」だったが、1年ほどで土台ができて楽しめるようになった
- 「ダンスは歌を表現するためのツール」という高橋愛さんの一言が、パフォーマンスへの意識を変えた
- 原動力はライブの充実感とファンの満足度で、「ハイになるぐらい」頑張れていた
- 語り継がれる福村ダッシュも、本人にとってはトラブルへの対応の一つで「粛々とやるべきことをした」
- 17歳での卒業は「役割を循環させる」決断であり、振り返れば「なるべくしてなった」と受け止めている






