フォークが盛り上がっていた時代の空気
聞き手の川邊健太郎さんは、当時のフォークやアニメ、雑誌の世界の雰囲気を吉見さんに尋ねます。
吉見さんはまず、フォークの熱気が際立っていたと振り返ります。エレックレコードやベルウッド、URCといったレコード会社が生まれ、シーンが動き出していったといいます。
その後、はっぴいえんどが登場し、吉田拓郎さんらが活躍。フォーライフレコードもできて、シーンはさらに派手になっていったと話します。
フォークはすごかったですよね。その後すごくなるんですよね。
吉見さん自身も、京都でボーカルレッスンに通っていた頃にフォーク・クルセダーズと知り合い、彼らが自主制作したレコードのプロモーションを手伝っていたといいます。
300枚作ったんですよ、彼ら。それを売る仕事のお手伝い。友達だったからね。
大阪万博の電気通信館でバイトをした先でマイク眞木さんらと出会うなど、吉見さんの周囲は常にフォークとつながっていったと語られます。
テレビと芸能への違和感
話題はアニメ業界へ移り、吉見さんはムーミンなどが盛んに作られていた頃だったと振り返ります。その後、アニメ会社の人との関係を経て、また仕事をせざるを得なくなっていったといいます。
仕事をしたいというより、やりたいことを探していたと吉見さんは話します。エッセイのような仕事も何本かあったものの、続く手応えはなかったようです。
テレビのレポーターも経験しました。事件を報告するニュースショーが流行していた時代で、そこで頭角を現したのが泉ピン子さんだったといいます。
吉見さんは田辺エージェンシーに所属し、テレビ番組への抜擢を持ちかけられます。しかし、それを断り、田辺庄司さんと衝突して事務所を辞めることになりました。
やれるかって言われて、いやできないと思いますって。
人の言うことを聞いて飛び込んでいくっていう能力はなかった。何かに巻かれることは無理だったです。
この頃の吉見さんは、「芸能」と「芸能ではないもの」がはっきり分かれていたと感じていました。テレビは完全に芸能側で、吉田拓郎さんのようにテレビに出ない人はそうでない側にいたといいます。
「面白い人がいる場所」を求めて音楽へ
テレビ的な抜擢を断った吉見さんは、音楽の仕事へと流れていきます。とにかく面白い人がいるところに行きたいという思いが原点でした。
朝日新聞や出版の世界でも人に会いましたが、しっくりこなかったと振り返ります。
新聞関係の人に会うけど、インテリはちょっと面白くないなと思って。作家にもいっぱい会うけど、全然面白くない。これじゃないな。
吉見さんは自分自身に表と裏がないタイプだと語り、裏表のある職業は無理だと感じていたといいます。そのうえで、最も天然が多いのが音楽だったと話します。
その対比として名前が挙がったのが坂本龍一さんです。吉見さんは、坂本さんを最高峰のインテリで秀才だと評しつつ、天才を好むコレクターのような人だったと語ります。
坂本が最高峰のインテリだった。あれは秀才。でも天才のコレクターだったの。
天才の例として、坂本さんと結婚した矢野顕子さんのエピソードが紹介されます。ピアノとは何かと尋ねたときの答えが印象的だったといいます。
ピアノって矢野さんにとって何ですか?って聞いたら、「トイレに座るようなもんよ」って。
そして、その天然の最高峰が忌野清志郎さんだったと吉見さんは話します。
天然の人が減った時代への実感
吉見さんは、いまの時代はインタビューしても面白い人が少なくなったと感じているといいます。理由としてネットの存在を挙げます。
ネットがあると喋れるようになっちゃうの。こんにちはとか、そういうつまんないこと言うわけ。
かつては、いきなり「100円貸してくれます?」と言うような、標準化されていない人が多かったと振り返ります。
井上陽水さんもまた、そうした「変」な人の一人だったといいます。吉見さんは、会いたい人を片っ端から取材できる連載ページを持っていて、そこで陽水さんとも坂本さんとも出会いました。
その連載は、無名でも有名でもよいから会いたい人に会ってよいという、講談社の編集者に恵まれた企画でした。
一番最初が舘ひろし。無名でも有名でもいいから君が会いたい人に会えばいいって、めちゃくちゃ買ってくれたんです。
陽水さんの取材では魚河岸で撮影し、最後のページに吉見さん自身が着物姿で一緒に写るという構成にしました。これが陽水さんにとても喜ばれ、後日「取材でこんなにもてなしてもらったことはありません」という手紙が届いたといいます。
撮影や原稿を自分で組み立てるこの連載は、評判の良し悪しが激しかったものの、取材相手には強い印象を残しました。
陽水との「味方契約」
吉見さんはこの頃、1年ごとに一人と付き合うと決めていました。そして陽水さんの事務所に出向き、契約してほしいと申し出ます。
何の契約をするつもりだったのか。
内容が決まった契約ではなく、いわば「味方になる」という契約でした。吉見さんは必ず役に立つと伝え、マネージャーは即座に応じたといいます。
つまり味方契約です。
大したことは言えないと思っていた吉見さんに対し、マネージャーは「本当に思ってなければ言えないことだ」と応じ、金額を尋ねてすぐに1年分を振り込んできました。
川邊さんは、それだけ陽水さんが吉見さんを買っていた表れではないかと受け止めます。ただし吉見さんは、その背景に一つの出来事があったと語ります。それがRCサクセッションの「運動」でした。
廃盤アルバム『シングル・マン』を復活させた運動
吉見さんが自らを世に知らしめた最初の出来事が、RCサクセッションのアルバム『シングル・マン』をめぐる活動でした。
RCサクセッションはもともとフォークとして売れたバンドで、その前座が井上陽水さん(アンドレ・カンドレ時代)だったといいます。やがて人気が反転して売れなくなった頃に出たのが『シングル・マン』でした。
このアルバムはヒットメーカーたちが結集し、多額の費用をかけて作られたにもかかわらず、ごくわずかしか売れず、あっという間に廃盤になってしまいました。
900枚しか売れなかった。1300万当時かかってるんです。もう呆れて廃盤にしちゃうんですよ。
吉見さんは、そんなはずはないと考え、どうしても再発したいと動き始めます。相談した集英社の堀内丸恵さんからは、まず自分で名乗ることだと助言されたといいます。
よしみさんがそう思ってるんなら名乗れって。「シングル・マン再発売実行委員会」って。名乗ることから始まると教えてくれたの。
吉見さんは、レコード会社から冷たい対応を受けても引き下がりませんでした。愛して育てたアーティストの作品を、本人の同意もなく廃盤にできることに納得できなかったといいます。
応援してくれる輸入盤専門店が現れ、少しずつ再発の道が開けます。吉見さんは深夜放送を回り、カセットを手に働きかけました。
さらに、雑誌の取材でアーティストに会うたびにRCサクセッションを知っているかと尋ね、協力を頼みました。長渕剛さんや甲斐よしひろさんはすぐに自分のラジオでかけてくれたといいます。
世良公則たちは「これは俺たちも問題があるよね」って、廃盤ということに関しては、ってなって広がっていくわけです。
運動は口コミのように広がり、最後にはスポーツ紙が「廃盤復活」という切り口で大きく取り上げるまでになりました。
「イケナイルージュマジック」へつながる縁
この活動を通じて坂本龍一さんとも知り合った吉見さんは、RCサクセッションを坂本さんにも聴かせてプロモーションしていきます。
そこから生まれたのが、忌野清志郎さんと坂本龍一さんによる「い・け・な・いルージュマジック」でした。もともと資生堂の曲であり、二人を引き合わせたのは吉見さんだったといいます。
所属事務所が別々で、どちらの事務所もコントロールできなかったため、吉見さんが宣伝プロデューサーのような立場で全体を取りまとめることになりました。
坂本と清志郎が一緒にやることになった時に、どっちの事務所もコントロールできないから、私にコントロールしてほしいと。
結果として、この曲は1位になります。川邊さんは、当時のキスをするテレビ映像が自身の最古の記憶の一つだと語ります。
陽水さんとの契約は、こうしたRCサクセッションの運動を陽水さんが知っていたことが背景にあったと吉見さんは振り返ります。
絶対売れないと思ってたバンドをそこまで持っていった私と、付き合いたいと思ってくれてたような気がする。
陽水さんとの契約後、大したことはしなかったものの、一つだけ手がけた仕事が大きく爆発することになったと語られたところで、この回は次回へと続きます。
まとめ
音楽が「芸能」として整理される手前の時代を、吉見裕子さんの実感と具体的なエピソードで振り返る回でした。天然で面白い人を求めて音楽へ向かい、廃盤アルバムの復活を一人で仕掛けた行動力が、後の大きな縁につながっていく様子が語られました。
- 当時は「芸能」と「芸能ではないもの」が明確に分かれ、テレビは芸能側に位置づけられていた。
- 吉見さんは裏表のある世界を避け、天才で天然な人が多い音楽の世界を選んだ。
- RCサクセッションの廃盤アルバム『シングル・マン』を、「実行委員会」を名乗ることから再発へと動かしていった。
- アーティストへの取材のたびに協力を頼み、ラジオやスポーツ紙を通じて運動が広がっていった。
- この活動と人脈が、「い・け・な・いルージュマジック」や井上陽水さんとの契約へとつながった。




