初の「笑っていいとも式」で実現した会食
今回の会食は、音楽スーパーバイザーの吉見裕子さんを迎えて行われました。
実現のきっかけは、前々回のゲストだったフーディーの浜田岳文さんです。川邊さんが浜田さんに「今まで会った中ですごい人はいますか」と尋ねたところ、名前が挙がったのが吉見さんでした。
この番組では、ゲストがゲストを紹介する形式は初めてだといいます。吉見さんは以前の会食を知っており、宇野さんが出ていたと話を切り出しました。
吉見さんによると、宇野さんとはインテリジェンスの人材事業のころに知り合ったといいます。当時、隣にあった学生情報センターの社長が「若いけど優秀なやつがいる」と紹介してくれたそうです。
浜田さんが語った吉見さんの印象は、とんでもない人脈を持ち、人と人をつなぐ力がずば抜けているというものでした。川邊さんはその原点を中心に、吉見さんの人生全般を聞いていきます。
ヤクザみたいなもんなんです。こんな会社とは全然違う。
吉見さんは1948年、戦後直後の生まれです。この日の夜も、米倉利紀さんや玉置浩二さんの編曲を手がけるプロデューサーとの食事が控えていると話しました。
選ばれるより選ぶ──人を「プレゼント」する発想
話は、吉見さん流の人脈術へと移ります。年齢を重ねると、用事がないと人は会ってくれなくなる、と吉見さんは言います。
若いころは女性同士なら好きになれば恋になり、そこから関係が展開していく。では、それを超えた先はどうするのか。男性なら「会社を作ろう」と言い出すが、吉見さんは会社というものがよくわからなかったといいます。
友達という関係も曖昧で、一度会うと次に会う理由が作りにくい。そこで吉見さんがたどり着いたのが、人をつなぐという方法でした。
誰か会いたい人いますか、って必ず聞くわけ。でもそれは私が気に入った人だけ。
吉見さんは、選ばれるより選ぶ側に立つ性格だといいます。しかも気に入るのは秒単位で、気に入ればすぐに「会いたい人はいますか」と尋ねる。そして相手が会いたい人を紹介することを、贈り物と考えているそうです。
差し入れとか超下手で。だから人にしようと思って。
ものを贈るのは苦手で、小泉今日子さんにアイスクリームを持っていったらすでに別のアイスが届いていた、といった間の悪さもあったそうです。そこで、贈るのは人にしようと決めたと語ります。
坂本龍一との出会いと、狙って会いに行く力
人をつなぐ実例として、吉見さんは坂本龍一さんとの関わりを語りました。きっかけは、コーラスのアルバイトで知り合った大貫妙子さんです。
友部正人さんのコンサートのリハーサルで、大貫さんが「今一番すごいキーボーディスト」として指し示したのが、髪の長い坂本龍一さんでした。
あの人が今一番すごいキーボードピアニストなんだよ、って大貫さんが言ったの。それで見たらかっこよくて。
当時の坂本さんはYMOより前、まだアレンジャーの時代でした。吉見さんは会う方法を探り、いろいろな人に「坂本龍一に会ってみたい」と伝えて回ります。
あるディレクターからレコーディングスタジオに来ると聞いて、狙って足を運びました。紹介されたわけではなく、コーヒーの出前が来た際に応対に出てきた坂本さんと、自然に知り合ったといいます。
その後、吉見さんは平凡パンチで連載を持っていた縁を生かし、坂本さんを取材します。話がまったくわからず、もう一度会う約束につながったそうです。
点と線があって、それが音になるみたいな、なんかややこしいこと言った。それで話がよくわかんないなと思って、もう一回会う約束ができた。
このときの原稿が、後に坂本さんを取材した最初のものとして大谷文庫に残っているといいます。坂本さんがグラミー賞を受賞した後、政治記者が「一番最初の取材があなただった」と訪ねてきて、そのことを知ったそうです。
今回のゲスト紹介につながったX(旧LINEヤフー系の文脈で語られた「よしき」)とのやり取りでも、吉見さんは坂本さんを紹介しようとしました。坂本さんがアメリカにいて連絡が取れないため、代わりに親しかった小室哲哉さんや高見沢さんを挙げ、両方に会うことになったといいます。
人と会うために人を紹介するというやり方が、どんどん肥大化していったのですね。
吉見さんは、自分が気に入った相手に「会いたい人は」と尋ね、その人を紹介する。これを繰り返すうちに、人と人をつなぐネットワークが大きく広がっていったといいます。
小室哲哉から松浦勝人へ──音楽業界の裏側でのつなぎ役
吉見さんは、松浦勝人さんとの出会いも語りました。きっかけは小室哲哉さんです。
当時のエピックソニーのトップだった丸山茂雄さんが、吉見さんの生活を心配して契約し、TM NETWORKを手伝うよう頼んだといいます。
吉見さんが担当したのはボーカルの宇都宮隆さんで、「抱かれたい男」にするためのブランディングのような役割でした。当時はブランディングという言葉がなく、家庭教師的な仕事と呼んでいたそうです。
小室さんは最初からプロデューサーとして立ち、グループを使いながら自分は別の場所へ向かうプランを持っていたのではないか、と吉見さんは見ています。
小室さんは最初からあのグループを使って自分は違うところに行くっていう、多分プランがあったんだと思うんだよね。だって小室さんだけインテリだったもん。
その次のプロジェクトがTRFでした。エピックソニーの実力派ディレクター小坂さんが引き受けなかったため、小室さんはインディーズの松浦さんと組むことになります。
小室さんがマハラジャでDJをしていた噂の背景には、次のプロジェクトへ向けた準備がありました。それを世話していたのが千葉竜平さんで、松浦さんとはディスコ繋がりの知り合いだったといいます。
松浦さんは当時、貸しレコーディングスタジオを営んでいました。外国人のダンスミュージックが中心のなか、日本人で唯一みんなが借りていったのがTM NETWORKの「Get Wild」で、松浦さんはこれをすごいと感じていたそうです。
そこにTRFの話が舞い込み、吉見さんは松浦さんと親しくなります。まだ無名だった松浦さんを、前川清さんのパーティーなど、あらゆる場所に連れ回したといいます。
すぐ会ったらすぐ契約してくれるとか言ったから、何するんですかね。何かするわけっていうわけ。うちいっぱい契約してるけど、誰も何もしないよって言うの。
丸山茂雄さんの依頼
生活を心配され、契約してTM NETWORKを手伝うことに
小室哲哉さんと出会う
ボーカル宇都宮隆さんのブランディングを担当
TRFへの参加
エピックが引き受けず、インディーズの松浦さんと組む
松浦勝人さんと親しくなる
無名時代の松浦さんをあらゆる場に連れ回す
三味線の家に生まれて──芸能界へ入った出発点
吉見さんが人をつなぐ仕事に至る前の、出発点も語られました。母親は三味線の先生で、父親はおらず、家は家元とつながる古い世界でした。
しかし吉見さんは、幼いころからその世界が長く続くわけがないと感じ、三味線は絶対に持たないと決めていたそうです。
絶対にこんなの長く続くわけないじゃんと思って。これダメでしょ。三味線は絶対持たない。
勉強も好きではなく、芸事といえば芸能界しかないと考えたといいます。母について「親三味線、娘口三味線」とよく言っていたと振り返りました。
18歳か19歳のころ、渡辺プロダクションのオーディションを受けて最終15人ほどに残りましたが、東京へは連れて行かれず、京都の作曲家のもとで「譜面歌手」として拾われます。有名歌手が歌う前のデモを歌う仕事でした。
その後、大阪でNHKの劇団の研究生となりますが、大阪ではお笑いをやらないと芽が出ない空気があり、劇団員になるオーディションには落ちてしまいます。東京へ出るしかないと考えるようになりました。
さつめぐみさんとの出会いと、東京への転機
東京行きを後押ししたのが、シャンソン歌手のさつめぐみさんとの出会いでした。大阪電通の人との食事に呼ばれ、そこで吉見さんはさつさんに強く気に入られます。
さつさんは北海道の大金持ちの令嬢で、金銭感覚が驚くほど違ったといいます。初対面の日が吉見さんの誕生日だと知ると、その場で石鹸の詰め合わせを買ってきてくれたそうです。
なんかそんな人初めてだったし。誕生日おめでとうって、初めて会った人が。
さつさんがパリへ行く際、自分のアパートを使わないかと声をかけてくれたことで、吉見さんは東京へ出るきっかけをつかみます。
人生の転機は思わぬところからやってきます。ただし、約束の期日を勘違いして早く上京してしまい、アパートには泊めてもらえなかったといいます。
そこで、花屋の女の子のつてで富ヶ谷の四畳半のアパートに居候することになります。その部屋の主が、かねのぶさちこさんでした。
そのアパートには、加藤和彦さんや大滝詠一さんなど、フォークの人たちが集まっていました。吉見さんは知らないうちに、フォークシーンの中心に居合わせることになります。
若いこだまのDJから、雑誌連載、そしてデビューへ
東京で吉見さんが受けたのが、NHKのラジオ番組「若いこだま」の一般オーディションでした。合格の知らせには、思いがけない言葉が添えられていたといいます。
あなたはオーディションの中で一番で受かりました。でも7人のディレクターが全員あなたの担当はやりたくないと言った。
それでも、たった一人だけ反対した担当が名乗り出て、吉見さんは金曜日のフォークの日を担当することになります。反対の理由はわからないまま、それが運命だったと吉見さんは振り返ります。
番組にはアパートで知り合った吉田拓郎さんや、はっぴいえんどの面々が次々とゲストに現れました。番組は人気を集め、後にサウンドストリートへと発展していきます。
吉見さんの仕事は大阪中心だったため、上京後も深夜バスで大阪と東京を往復していました。コストが合わないと感じ、東京での仕事を求めてオーディションを受けたのが、この番組だったといいます。
雑誌との縁も、思わぬ形で生まれました。大阪でメンズクラブの「譲ります」欄にパーカーを出す際、自作の名刺をホチキスで留めて送ったところ、編集部から連絡が来たのです。
その編集者の辻さんと京都で会い、老舗喫茶店イノダコーヒの話をしたところ、辻さんが強く気に入ります。神戸の取材予定をやめてまで、その場でイノダコーヒを12ページの巻頭記事にすることになりました。
君さ、今言ったこと書いてくれる、って言われたんですよ。原稿なんか書いたことないの。学校の作文しか書いたことなかった。
喋ったまま書いた原稿が面白いと評価され、吉見さんは雑誌連載を持つようになります。テレビやラジオはやっていたものの、雑誌に自分の名前が載ることに驚いたそうです。
辻さんに連れられて訪れた浅井慎平さんの家では、タモリさんや赤塚不二夫さんとも出会います。麻雀の場でものまねを披露するなど、後のスターたちと自然に親しくなっていきました。
そして「若いこだま」のDJが話題になり、今度はレコード会社から声がかかります。1973年、吉見さんは「不確かな空」でデビューしました。
何でもやったのは、好奇心からですか、それとも食うためなら何でもやるという感覚だったのですか。
吉見さんは「面白そう」という気持ちが大きかったと答えます。当時の家賃は1万5000円ほどで、生活が大変というほどではなかったといいます。声優やアニメの作詞など、面白いと思えば何でもやってきたと振り返りました。
まとめ
選ばれるより選ぶ、気に入ったら秒で動く。吉見裕子さんの人脈術は、会いたい人を人でつなぐという発想に支えられていました。三味線の家に生まれ、芸能界を目指して大阪から東京へ出た道のりには、思わぬ出会いと即断即決の連続がありました。
- 吉見さんは、選ばれるより選ぶ側に立ち、会いたい人を人で「プレゼント」する形で人脈を広げてきた
- 坂本龍一さんとは狙ってスタジオに足を運んで知り合い、平凡パンチの取材が最初の記録として残った
- 丸山茂雄さん、小室哲哉さん、松浦勝人さんへとつながる音楽業界のネットワークにも深く関わってきた
- 三味線の家に育ちながら芸能界を志し、さつめぐみさんとの出会いを機に東京へ出た
- 若いこだまのDJから雑誌連載、そして1973年のデビューへと、面白いと思うことを次々に手がけてきた





