陽水の名曲を書いた謎の作曲家「パインジュースの缶」
話は井上陽水さんとの契約から始まります。契約したものの、吉見さんはほとんど大したことをしていなかったといいます。ただ一つだけやったことが、爆発的な結果を生みました。
そのきっかけが、ビーイングを率いる長戸大幸さんとの出会いでした。
吉見さんは1983年に長戸さんと知り合います。当時、長戸さんは一切表に出ていませんでした。人と会わないタイプだったといいます。
吉見さんはラジオのゲストに長戸さんを呼びました。その番組の構成を担当していたのが、まだ1曲しか売れていなかった秋元康さんでした。
契約してほとんど大したことやらないのに、一個だけやったことがあって、陽水さんと。それが爆発するんですよね。
吉見さんが長戸さんに感じた「すごさ」は、作る音楽そのものではなく、考え方だったといいます。
家帰ってもう一回そのカセットを全部聞き直して、これはすごいと思ったんだ。
会いたい気持ちが強すぎて、吉見さんは長戸さんに何度も連絡しました。すると長戸さんの方から、会う頻度を制限する提案が返ってきます。
悪いんだけど、1週間に1回って決めてくれる?場所決めて、土曜日の午後1時に来てくれる?その後はもう連絡しないでほしいって。
後になって、長戸さんは吉見さんに「一番最初に認めてくれたのは君だから」「これから僕すごくなるから」と話したそうです。
書けない陽水に、書けないまま出す発想
一方、井上陽水さんとの契約では別の問題が起きていました。契約しても、陽水さんからは何も依頼が来なかったのです。
レコード会社に確認すると、陽水さんの曲は出ない、それでいいと思っている、という反応でした。当時の陽水さんはシンガーソングライターであり、自分の曲は自分で書くのが当たり前という前提があったからです。
陽水さんは曲が出ないんですよ。うちはそう思ってますよ。そんな感じなんですよ、みたいな。
そこで吉見さんは、書けないなら誰かに書いてもらえばいいのではないかと考えます。マネージャーもディレクターも本人には言えないと言うので、吉見さん自身が陽水さんに直接伝えました。
傷つくかもしれないと思った提案に対し、陽水さんの返事は意外なものでした。
書けないんだったら書いてもらったらいいんじゃないですかって言ったら、「いいね」って言われて。
陽水さんは「誰かいる?」と尋ね、吉見さんは長戸大幸さんの名前を挙げました。長戸さんはかつて、あるプロダクションに所属し、作詞も作曲も数多く手がけていたクリエイターでした。
長戸さんは陽水さんのこれまでの譜面をすべて取り寄せ、2週間ほどで曲を仕上げます。それが「悲しき恋人」でした。
「パインジュースの缶」という作曲家の正体
レコーディングスタジオで、陽水さんは長戸さんに「どうやって作ったんですか?」と尋ねました。長戸さんの答えは、自分は何もしていない、というものでした。
いや、僕何もしてないですよ。こっからここまでがなんとかって曲で、こっからここまでがなんとかって曲で、何もやってないんですよ。
陽水さん本人が作った過去の曲の断片を組み合わせただけだ、という説明でした。それを聞いても陽水さんには理解できず、驚いた様子だったといいます。
曲の作曲者名を決める段になり、長戸さんは「何もしていないので何でもいい」と答えます。そこで付いた名前が「パインジュースの缶」でした。
じゃあパインジュースの缶っていうことにしましょうか。だってパインジュースの缶って名前になってるんですよ。
フォーライフはこの曲を陽水さん自身の作品だと思っていたといいます。長戸さんが後に有名になったことで、真相が語られるようになりました。10枚組の作品に「悲しき恋人」が収録された際、その経緯が月刊角川で明かされます。
ただし、作曲者名は「パインジュースの缶」のままだそうです。掲載の許可を求められた長戸さんは、昔の話だからいいと答えたといいます。
戦場のメリークリスマスと、坂本龍一の問い
話は坂本龍一さんとのエピソードに移ります。忌野清志郎さんとの「い・け・な・いルージュ・マジック」が1位になった頃のことです。
自宅まで送ってもらった車を降りる時、坂本さんは吉見さんにこう問いかけました。
よしみさんの言う通りやってきたけど、ここからどうすればいいの?
そう言って坂本さんが見せたのが、映画「戦場のメリークリスマス」の台本でした。大島渚監督が撮り、デヴィッド・ボウイが出演する作品で、坂本さんの役はまだ決まっていませんでした。
実は何人もキャスティングを試みた末の、最後の候補でした。デヴィッド・ボウイが「2年しか待たない」と言っていたため、期限ぎりぎりだったといいます。
吉見さんの助言は明快でした。
一生役者やらないんだったら断れば?でも一生に一度でもやるんなら、これしかないんじゃない?
出演を承諾した坂本さんに、吉見さんは一つの約束を取り付けます。決めたら自分をロケ地に連れて行くこと、というものでした。
ロケ地ラロトンガに潜り込む
ロケ地はラロトンガでした。ところが、出資したテレビ朝日やヘラルドなどが大勢のマスコミや関係者を連れて行こうとしたところ、デヴィッド・ボウイがそれを拒否します。
監督が全員の来訪を断ったため、関係者はみな諦めました。しかし吉見さんは、自分は監督ではなく坂本さんと約束したのだと考えます。
監督とじゃないじゃん。約束したじゃんって。勝手に来ればって言ったの。
吉見さんは飛行機のチケットを自分で取り、観光客のふりをして現地に向かいました。飛行場が閉鎖されているはずはなく、観光客なら行けると考えたからです。当時35、6歳だった吉見さんは、若く見える服を着て紛れ込みました。
現地に着くと、ホテルは1軒しかなく、関係者はそこに集まっていました。翌朝、朝食の場で大島監督が近づいてきます。
みんな禁止していることはご存知ですよねと。でもあなたを坂本の事務所の方として特別に許可します。写真とか禁止ですよ。
現場に入ると、実際にはほかの関係者も写真を撮っていたといいます。吉見さんは朝日新聞に「坂本龍一を追って行ったラロトンガ」という原稿を自ら書いて掲載させました。映画関係者からは嫌われたものの、坂本さんの事務所にとっては良い結果になったそうです。
小泉今日子を「アイドルの桃井かおり」にする
1990年代以降、吉見さんは小室哲哉さん、YOSHIKIさん、小泉今日子さん、郷ひろみさんらと関わります。契約の形は「ブランディング契約」であり、スーパーバイザーという立場でした。
相手によって関わり方は一人ずつ違ったといいます。小泉今日子さんの場合、吉見さんが目指したのは「アイドルの桃井かおり」でした。
吉見さんによれば、当時のアイドルは「オフの悪口」と「オンの挨拶」の二つしか話せず、その真ん中が喋れなかったといいます。桃井かおりさんは、その真ん中の喋り、本当のような嘘を話すのがうまかったと語ります。
アイドルってね、喋れないんですよ。悪口をみんなで言う、これオフ。オンは皆さんこんにちは。この二つしかできない。真ん中が喋れない。
吉見さんは、喋っているうちに自分が「移っていく」と考えました。実際、ラジオが始まった時、小泉さんは「吉見さんかと思った」と話したそうです。
吉見さんは小泉今日子さんとの共著として、写真集「人生らしいね」を出しています。写真も言葉も吉見さんが手がけました。無印良品の秋山道男さんや秋元康さん、藤原ヒロシさんら多くの人が小泉さんの周りに集まり、独自のポジションが形づくられていったといいます。
現在の小泉さんについて、吉見さんは、被っていたものが取れ、もともとのシンプルな自分に戻ったのだと見ています。学んだことは残っているだろう、とも話しました。
小室哲哉、YOSHIKIとの関わり
小室哲哉さんについて、吉見さんの役割は主にPRだったといいます。小室さんが吉見さんを意識したきっかけは、坂本龍一さんの存在でした。坂本的な存在になりたい、という思いがあったのだと語ります。
吉見さんは、ビーイングとavexという二つの潮流の両方に関わったことが自分にとって大きかったと振り返ります。長戸大幸さんはロックやブルース、松浦さんはクラブ系と、二人は似て非なるタイプだったといいます。
長戸さんは生演奏、常にパーティーを。で、松浦さんはDJ。だからたまたま両方とも関わったって感じ。
YOSHIKIさんとの出会いは、まだXがインディーズだった頃です。吉見さんはTMネットワークと契約中で、ベスト盤「DRESS」の武道館公演の場にいました。オリコンで1位はTMのアルバムでしたが、上位に読み方もわからない「X」の作品が突然入ってきたといいます。
その後、吉見さんはXのライブに足を運び、YOSHIKIさんに会ってみたいと思うようになります。しかし誰に聞いても連絡先がわかりませんでした。
YOSHIKIとの出会いから、マシモとGLAYへ
YOSHIKIさんに会うきっかけは、BUCK-TICKのライブでした。西武球場での公演の打ち上げに、YOSHIKIさんが来ていたのです。
知人のつてで席に着いた吉見さんは、直接YOSHIKIさんに声をかけます。
YOSHIKIさん、私あなたと話したいんですけど。
YOSHIKIさんは連絡方法を教え、翌日には吉見さんの留守電に「YOSHIKIが電話待ってますけど」という連絡が入りました。こうして二人は知り合います。
仲良くなった後、そこからさまざまなトラブルが起こります。まず、YOSHIKIさんが作ったインディーズ会社を「5億で買いたい」という人物が現れました。それがマシモさんでした。
マシモさんは吉見さんの自宅でYOSHIKIさんと会い、この条件では自分は成功しないが、次のアーティストで大成功すると言い残しました。その「次のアーティスト」がGLAYでした。
この次のアーティストで僕は大成功しますからって。何言ってんのかなと思ったけど。それがGLAYなんですよね。
YOSHIKIさんに頼まれて新人を探していた西村さんが、市川のライブハウスでGLAYを見つけます。マシモさんはGLAYをキャニオンと契約させる際、通常はせいぜい100万枚までの契約枚数を、400万枚まで取り付けたといいます。
吉見さんは、長戸大幸さんや松浦さん、そしてマシモさんといった人物を「とんでもない人」と評しています。スターを動かす裏側には、そうした強烈な人々の存在があったことがうかがえます。
まとめ
吉見裕子さんの語りからは、スターを「スターたらしめる」仕事が、目立つ演出よりも、人と人をつなぎ、発想を差し込むことにあったことが見えてきます。井上陽水さんの名曲の裏にいた「パインジュースの缶」も、坂本龍一さんの映画出演も、その一つひとつが吉見さんの動きから生まれていました。
- 陽水の「悲しき恋人」は長戸大幸が過去曲を組み合わせて作り、作曲者名は「パインジュースの缶」とされた
- 坂本龍一の戦メリ出演は「一生に一度でもやるなら、これしかない」という吉見の助言が後押しした
- 小泉今日子のブランディングは「アイドルの桃井かおり」を目指し、喋りを移していく手法だった
- 1990年代以降はビーイングとavexの両潮流に関わり、YOSHIKIやGLAYの周辺にも立ち会った



