たまり場と一本釣り、仕事が広がる仕組み
糸井さんの仕事は、広告や雑誌という同じフィールドで知り合った人たちのつながりから広がっていきました。
たまり場について聞かれると、原宿のセントラルアパートには事務所や近くの喫茶店があったと話します。ただし当時にぎわっていた新宿の界隈には近づかなかったといいます。
糸井さんは30歳前ぐらいから、四谷のスナックによく通っていました。ただ、飲みに行くというより仕事の連絡場所のような役割だったようです。
僕は30前ぐらいからその四谷のスナックがあって、行かないと遅刻ですよとか言われるので。
酒を飲まない糸井さんは、酔いつぶれずにずっといられるため、周囲にとって便利な存在だったといいます。
僕、酒飲まないんですけど、ずっといて酔いつぶれないでいられるから。他人には便利なんですよね。
そうした場で仕事の細かい話をするわけではなく、「あれがよかった、これがよかった」という評判が連鎖して、次の依頼につながっていったと振り返ります。
CMの作詞をきっかけに、その歌を歌う歌手の曲を頼まれる。そうした流れの中で、矢沢永吉『成りあがり』と沢田研二『TOKIO』という、全国レベルの仕事につながっていきました。
『成りあがり』へ──宇崎竜童のルポから始まった
大きな仕事は、いいプロデューサーが「一本釣り」する形で舞い込んできたといいます。
『成りあがり』は、雑誌『GORO』の下本さんという編集者との縁から生まれました。そのきっかけになったのが、糸井さん自身が持ち込んだ企画でした。
当時、宇崎竜童さん率いるダウンタウンブギウギバンドに強い興味を持っていた糸井さんは、雑誌『ローリングストーン』でルポを書かせてほしいと自ら申し出ます。
テープレコーダーを自前で買い、飛行機を手配して沖縄まで行き、宇崎さんたちが泊まるホテルを探して取材を申し込みました。書き起こしから何まで、すべて自分でこなしたといいます。
全部自前でテープレコーダー買って、飛行機手配して沖縄に行って、そこで宇崎さんたちと泊まってるホテルを見つけて、伝言をして。よろしかったら取材させてくださいって言って、長いインタビューをした。
その仕事を見た人から、次に矢沢永吉さんの依頼が舞い込みます。キャロル時代から見ていた糸井さんにとって、これは望んでいた仕事でした。
矢沢永吉はもっとやる気あったの、僕。
同じ頃、沢田研二さんの新しいアルバムについて、曲名からアルバムタイトルまですべてを任せるオファーも届きます。それが『TOKIO』でした。
糸井さんは、それまで長く沢田研二さんの詞を手がけていた阿久悠さんから路線を変えた、担当者の度胸を高く評価しています。
それは土居昭光さんっていう人の度胸はすごいですね。だって阿久さんがいたんだもん、その時には。よっぽど変なことをしないと変えられなかったと思うんですよね。
産みの苦しみはない、ニワトリが卵を産むように
『成りあがり』や『TOKIO』を生み出すとき、産みの苦しみはあったのかと川邊さんが尋ねます。
糸井さんは、多くの人の話を聞くようになって、実はそれほど苦しむものではないのではないかと考えるようになったと話します。
お産は苦しいっていうけど、産めるようにできてるじゃないですか。自分では大げさに苦しんでみせるけど、実はそんなにつらいことならしないですよね。
楽しいという言い方も少し違うようで、もっと自然なものだと表現します。
ニワトリが卵を産むみたいに。
矢沢永吉さんのツアーには帯同して取材しました。暇な時間に一緒に歩くなかで見えたのは、安い服を着ていても格好よく見えてしまう存在感でした。
上下合わせて1500円みたいな服着て一緒に歩いてて。矢沢が着ればかっこいいんだよっていう、本当だなと思って。
一方で、「矢沢永吉だからって大根1本まけてくれない?」という言い方も紹介します。英雄視される自分と、生活の場面にいる自分の両方をつかんでいる点に、糸井さんはリアリティを感じたようです。
生活の場面にいる自分と、それからみんなが英雄視してる自分と、両方をやっぱりつかめてるんですよね。
川邊さんも、孫正義さんが100円ショップで買い物をする話をすると同じ感覚を覚えると応じます。
そうした人の周りには必ず優れたプロデューサーがいるものだと、糸井さんは付け加えます。
作詞も広告も、全部コピーライターの仕事
作詞、本の編集、西武のコピー。これらを糸井さんは区別なく手がけていました。
同じ頃に西武百貨店の広告も進んでいて、「不思議、大好き。」「おいしい生活。」といったコピーが生まれた時代でした。
糸井さんにとって、これらはすべて「コピーライターの仕事」でした。エッセイを書くのも含め、コピーライターは何でもできるのだと示したかったといいます。
エッセイ書くのも、コピーライターは全部それができるんだって言ってみたかったんですよね。それがコピーライターだものって言いたかった。
西武の仕事は、アートディレクターの浅葉さんや重鎮の田中郁子さんの縁で始まりました。堤清二さんがそうしたクリエイターを集めていたといいます。
会議には糸井さんも加わりましたが、その中で最も若かったため、かえって気楽に動けたと振り返ります。
糸井さんは、堤さんと出会えたことを大事な経験だったと語ります。形式張ったプレゼンは不要で、手書きの企画を出し、雑談交じりにやりとりできる関係でした。
堤さんの発想でやれてたことって山ほどあるし、僕がある程度できてたのも、堤さんが土台を支えてたっていうのは本気で。
『MOTHER』誕生──ドラクエにハマった雨の日から
川邊さんが糸井さんの名前を作者としてはっきり認識したのは、ゲーム『MOTHER』でした。
もともとゲーム好きだった糸井さんですが、ロールプレイングゲームは面倒に感じて手を出していませんでした。ところが雨で退屈な日、置いてあった『ドラゴンクエスト』を始めたら止まらなくなったといいます。
こんなんでもやってみるかと思って、1の方をやり始めたら、あれ、知らないうちに止まらなくなってた。
一心不乱に遊ぶうちに、糸井さんは作る側の面白さに気づきます。
これはでもな、作る側の方が面白いよなって思ったんですね。
当時はゲームデザイナーという概念もはっきりせず、「作る」ということ自体がよく分からない状態でした。それでも、自分がやりたいと思えるゲームの構想が浮かんだといいます。
その中心にあったのは「現代劇」でした。世界中の子どもがわざわざ中世に行って遊ぶ必要はないのではないか、という発想です。
ETだとかスピルバーグを面白がって見てる自分、あるいは世界中の子供がわざわざ中世に行って遊ぶ必要ないんじゃないか。もっと今の方が面白いんじゃないの。
魔法にあたるものを超能力に置き換え、「突然電気スタンドが襲いかかる」というイメージが早い段階で浮かんだことで、構想が動き出したといいます。
涙した任天堂からの帰り道
糸井さんは構想をノートに書き、任天堂へ持ち込みました。そのきっかけも偶然でした。
大阪電通の人から、任天堂のゲームの相談に一緒に来てほしいと頼まれた糸井さんは、任天堂の人に会えるならと考え、自分の企画を急いでノートに書いて持参します。
何人かと会うなかで、決め手になったのは宮本さんでした。ただ、その打ち合わせは糸井さんの想像とはまるで違うものでした。
宮本さんは、小さなゲームでもこれだけのセリフ量になると紙を見せ、それができるかどうかばかりを問い続けました。
素晴らしいですねって一回も言ってくんないんですよ。ここがいいですねとか、そういう話をしたかったんですけど、やれますかの話ばっかり回ってて。
糸井さんは、これは駄目だったのだと受け取ります。そして帰りの新幹線の中で涙が出てきたといいます。
もう何回も語ってるんですけど、帰りの新幹線の中で涙が出てきたんです。本当にやりたかったんで。
しかし後で分かった理由は正反対でした。テレビでゲームを正当に評価していた糸井さんに、山内さんが好感を持っており、糸井さんが持ち込んだ企画なら基本的にやると決まっていたのです。
やるに決まってるんですって。
宮本さんが問い続けたのは、糸井さんがどれだけ労力をかけられるか、どのプロダクションと組ませるかを見定めるためだったといいます。制作チームも、忙しい糸井さんに会えるのは一度きりと思い込み、食事中に質問を浴びせてきたそうです。
結果として『MOTHER』はシリーズ3作まで作られました。後からファンに語りかけられるたび、仕事は頑張ってやっていくものだと糸井さんは実感すると話します。
任天堂とジブリ、モダンとの距離の取り方
ジブリ作品のコピーも糸井さんの仕事です。新潮社と徳間書店が『火垂るの墓』『となりのトトロ』のダブルスポンサーだった際、両社にまたがって頼みやすい人として声がかかったといいます。
川邊さんは、任天堂とジブリの両方と仕事をした人は珍しいとして、組織文化の違いを尋ねます。
糸井さんは、両者に共通するのは「不用意に近代化していない」ことだと答えます。任天堂は京都から出ず、経営の会合からも距離を置いていました。
不用意に近代化してない。京都から出ないっていうだけで。
一方で、筋を通すべきところは徹底します。監修者への支払いなど、会社が解散しても相手を追いかけて払うような姿勢があるといいます。
結構追っかけて払ったりとか、そういうところだけはちゃんとするんですよ。
その背景には思想があると糸井さんは見ています。経済中心で目的と手段を考えると、判断がブレてしまうという原体験です。
経済中心で目的と手段を考えるとブレるに決まってるじゃないかっていう場面はものすごくあるんだと。
ジブリの場合は、東映時代に日の目を見なかった苦労が背景にあるのではないかと糸井さんは推測します。経済でなぎ倒されていったものを見てきた経験が、両社に共通するモダンとの距離の取り方につながっているのではないかと語ります。
最後に糸井さんは、モダンが終わった後に出てきたYahooのような会社が、その流れを踏まえながら動いていくことに面白さがあるのではないかと、逆に川邊さんに問いかけました。
まとめ
雑談の場での評判から始まった一本釣り、自ら持ち込んだ企画、そして涙した帰り道。糸井重里さんの仕事が跳ねていった時代には、出会いと手応え、そして関わった人や組織の思想が重なっていました。
- 糸井さんの仕事は、たまり場での評判が連鎖する「一本釣り」から全国レベルへ広がった
- 『成りあがり』は、自ら持ち込んだ宇崎竜童のルポ取材が縁で生まれた
- 『MOTHER』は「現代劇のゲーム」という発想から生まれ、任天堂への持ち込みで実現した
- 宮本さんは褒めず「やれますか」を問い続けたが、それは本気度を見定めるためだった
- 任天堂とジブリには、経済中心で判断をブレさせない「近代化しない」思想が共通していた






