ヤフー株式会社(現LINEヤフー)の元会長であり、現在は経営者・漁師・猟師として活動する川邊健太郎さんが、各界のトップランナーを迎えて「人生最高」の瞬間を紐解く「川邊の会食」。今回のゲストも前回に引き続き、コピーライターであり「ほぼ日」代表の糸井重里さんです。
学生運動に身を投じた日々を経て、糸井さんがいかにして「コピーライター」という職業に出会い、荒波の新人時代を生き抜いたのか。入社初日に唯一の先輩が辞めてしまうという衝撃の幕開けから、フリーランスとして名を成すまでの知られざる軌跡をまとめます。
学生運動の挫折と「大人」への脱皮
糸井重里さんのキャリアの出発点は、どこか「捨て鉢」な感覚から始まったといいます。若き日の糸井さんは全共闘1960年代後半に日本の各大学で結成された、学生による自治組織。大学解体や社会変革を訴え、激しい学生運動を展開した。運動に身を投じていましたが、その活動から離れる際、心には「残っている仲間を裏切った」という葛藤があったそうです。
当時の日本は、東大紛争1968年から1969年にかけて東京大学で起きた学生運動。安田講堂攻防戦などを経て、入試の中止に至るなどの社会問題となった。により大学が封鎖されていた時代。行き場を失った糸井さんは、大学の寮で暇を持て余している友人たちとバカ話に興じたり、競馬で儲けた仲間にステーキを奢ってもらったりと、一見すると享楽的な日々を過ごしていました。
高校時代よりも一回、敗れた感がありますから。どっかで大人になってるんですよね、少し。その分だけ寛容度が増えているというか。
理想に燃えて挫折した経験が、皮肉にも人間に対する深い理解と寛容さを育んでいました。高度経済成長期の陰で光化学スモッグ工場や自動車の排気ガスが太陽光を受けて化学反応を起こし、空が白く霞む現象。当時の都市部では深刻な健康被害をもたらした。による公害が社会問題となっていた頃。糸井さんは、その時代の空気感と自分自身の空虚さを抱えながら、次の一歩を模索していました。
学生運動の挫折
→ 敗北感と人間への「寛容さ」を獲得
同級生からの「コピーライター」情報
→ 「自分ならもっとできる」という直感
「1行4円」の衝撃──コピーライターとの出会い
人生の転機は、同窓会で再会した一人の女性との会話でした。彼女が「コピーライターになるための勉強をしている」と語ったことが、糸井さんの好奇心に火をつけます。当時、とび職建設現場で足場の組み立てや解体、高所での作業を専門とする職人。糸井さんは若い頃、肉体労働のアルバイトも経験していた。や左官屋の下働きといった肉体労働で日銭を稼いでいた糸井さんにとって、その仕事内容は衝撃的でした。
1行書いて4円もらえるっていう噂があって。信じられないですよね。これいいなと思って。その子より俺の方が得意だぞ、と思って(笑)。
言葉が商売になる。しかも、自分が愛する漫画のアイデアやセリフ作りに通じるものがある。そう直感した糸井さんは、広告の知識が全くない状態からコピーライター養成講座へと通い始めます。周囲は広告研究会の学生や実務経験者ばかりでしたが、糸井さんは持ち前の「面白がる力」で頭角を現していきます。
新宿・ゴールデン街で囁かれた「天才」の称号
養成講座の専門クラスに進むと、講師を務めるプロのクリエイターたちとの距離が縮まっていきます。ある夜、先生に連れられて向かったのは、夜の文化の社交場、新宿のゴールデン街新宿区歌舞伎町一丁目にある飲食店街。かつては作家、編集者、映画人などが集まり、激しい議論や交流が行われた。でした。
そこで、絵本作家やアーティストがひしめく酒場の席。先生は糸井さんのことを、ある一言で紹介したといいます。
この糸井さん、天才なんです。
「今まで一度もそんなふうに褒められたことがなかった」と語る糸井さん。なぜ自分が天才と呼ばれたのか、その理由はわからなかったものの、この一言が「この世界でやっていけるのかもしれない」という小さな自信の種になったようです。この直後から、糸井さんは広告賞への応募を始め、徐々にその才能を形にしていきます。
入社初日の悲劇:唯一の先輩が去った日
養成講座での評価が実り、糸井さんは小さな広告制作プロダクションに就職します。しかし、入社初日に待っていたのは、ドラマでも起きないような衝撃的な出来事でした。指導してくれるはずだった唯一の先輩コピーライターから、こう告げられたのです。
「話があるんだけど、僕は今日で辞めるから。あとはよろしく頼む。そんな難しくないと思うよ」って(笑)。
右も左も分からない新人が、いきなり会社唯一のコピーライターとして放り出されてしまいました。配属されたのはファッション関係の広告が多い部署。当時のファッション業界特有の空気感に戸惑いながらも、糸井さんは持ち前の適応力を発揮します。そこをつないだのは、マガジンハウス「ポパイ」「アンアン」などの雑誌を発行する出版社。1970〜80年代の若者文化やライフスタイルに多大な影響を与えた。的なサブカルチャー、そしてロック音楽やアートという共通言語でした。
リベンジの金賞と、倒産から始まったフリーランス
過酷な現場で揉まれながらも、糸井さんは自らの実力を証明するために広告賞に挑みます。最初の年は銀賞を受賞。しかし、その時の金賞は、後に大手映像制作会社TYO1982年に設立された広告制作会社。多くの有名CMを手掛け、日本の広告制作業界を牽引した。の社長となる吉澤氏でした。ミニクーパーを乗り回し、競馬で糸井さんの給料3ヶ月分を負けるような「持てる者」への対抗心が、糸井さんの闘争心に火をつけました。
「翌年は絶対に金賞を取る」と誓い、印刷媒体と映像媒体の両方で金賞・銀賞を独占するという快挙を成し遂げます。しかし、業界内での評判はすぐには上がらず、むしろ勤務先のプロダクションが倒産するという不運に見舞われます。
会社は潰れるんですよ、今度は。最後は社長と僕と二人だけになってね。
最終的には、懇意にしていたクライアントのジーパン会社の広告を、社長から譲り受ける形でフリーランスとしての活動をスタート。1975年頃、東京コピーライターズクラブ(TCC)1958年に結成された日本のコピーライターの職能団体。TCC賞の受賞はコピーライターにとって最高の栄誉の一つ。の新人賞を受賞したことで、ようやく「コピーライターとして名乗っていい」という免状を得た心地がしたといいます。
こうして「糸井重里」の名は、広告界の表舞台へと静かに、しかし確実に刻まれていくことになりました。次回は、さらに深くその仕事術と人生観に迫ります。
というわけで
糸井重里さんのキャリアは、決して華やかなエリート街道ではなく、学生運動の挫折や、入社初日の先輩不在、さらには会社の倒産といった「ままならない現実」の連続から形作られていました。しかし、そのカオスな状況を「面白がる」精神と、他者への寛容さ、そして負けず嫌いな一面が、後の大成を支える土壌となったようです。「天才」と呼ばれた一言を糧に、荒波の中を泳ぎ抜いた新人時代のエピソードは、現代の若者にも勇気を与えるものでした。
- 学生運動での「敗北感」が、皮肉にも人間への深い寛容さを育んだ
- 同級生から聞いた「1行4円」という噂がコピーライターを目指すきっかけに
- 養成講座時代、新宿・ゴールデン街で恩師に「天才」と称され自信を得る
- 入社初日に先輩が退職し、いきなり一人で現場を回す過酷な新人時代を経験
- 会社の倒産を経てフリーになり、TCC新人賞受賞でブレイクへの足がかりを掴む

