資本主義の犬と呼ばれた全共闘世代
番組は経営者であり海と山の漁師でもある川邊健太郎さんが個人で続けているポッドキャストです。今回のゲストは、ほぼ日会長の糸井重里さん。
川邊さんはまず、自分にとって糸井さんは80年代や90年代の仕事が身近で、全共闘世代だったことが意外だったと切り出します。
結構僕は全共闘だったくせに資本主義の犬になってという批判をされながら生きてた人間なんで。だからそれがずっとついて回ってたものなんですよ。
糸井さんは、その批判が意外だと感じる世代が会長を務める時代になったこと自体、ある意味で嬉しいと話します。こじれた誤解をもとにあれこれ言われるのは、やはり気持ちのいいものではなかったからです。
一方で、18歳で大学に行った1年間の経験は、その後の仕事の核心につながっていると言います。
18歳の頃の1年間だけですけど、そこで経験した自分の世界になかったものとか、あと大きな嫌な気持ちですね。それが何なんだよということについて考えるのが、僕のそこから後の結構重要な仕事になっているので。
もともと僕は別に言葉の人間じゃないんですよ。
その「大きな嫌な気持ち」とは、いいことをしていると思っている人たちが、どうやって人の自由を奪っていくか、という感覚だったと振り返ります。
いいことをしてると思ってる人たちがどういうふうに人の自由を奪うかとか、言葉が持っているある種の暴力性、脅迫性みたいなもの。追い込んでいく言葉が。
仲間である「いいやつ」が悪いことをしている。その中に自分もいる。そうした経験を経て、糸井さんは学校をやめることになります。
前橋の少年と、離婚家庭という側面
糸井さんの生まれは群馬県前橋。東京から100キロ離れた場所です。この距離感が、都会への憧れを最も強くすると話します。
そのくらいの場所にいる人間が一番都会への憧れが強いんですよね。
ニューヨークで活躍するライターも、街から同じくらい離れた土地の出身が多いと後で知ったそうです。甲府、前橋、宇都宮のような100キロ圏の人間が、都会を憧れたり嫌ったりしながら生きている、と語ります。
子供の頃は明るく元気で、喘息はあったものの、勉強もでき、鬼ごっこや草野球に夢中でした。とにかく友達といる時間が好きだったと言います。
ただ、自分の家庭が少し特別だったことは、年を取ってから分かったと打ち明けます。父が戦後に再婚した相手との間に生まれた子で、その後また離婚した「離婚家庭の子供」でした。
それはないことにして生きてたわけで。自分の家が少し特別だっていうことについては、基本的にはないことにしていた方が明るく楽しく生きている。
後妻として来た母親とは、遠ざけもせず仲良くもならない距離感だったと言います。法律上の母親にすらしていなかったことも、60歳を過ぎてから知ったそうです。
年取ってから分かったことだらけですね。
反抗的にはならなかった、と糸井さんは言います。ハンディキャップがあるという意識を持たずに生きることが、自分の生き方だったからです。ただ、寂しさはずっとあったと静かに認めます。
寂しいのはずっと寂しいです。おそらく誰でもそういうところはあると思いますけど、僕も御多分に漏れずずっと寂しいです。
「あの子の言葉には毒がある」
その後のクリエイターとしての片鱗を尋ねられると、糸井さんはまず「逆だ」と答えます。言葉が好きだった覚えもなく、作文は得意ではなかったと言うのです。
当時の作文は、子供が不用意に赤裸々なことを書くと褒められるものでした。糸井さんは、父が酔って怒ったといった家庭の内幕を書くのが嫌で、無意識にそれを避けていたと振り返ります。
そんなに嫌だったっていうことは、もしかしたらクリエイティブですね。そういう目があったかもしれないですね。
決定的だったのは、小学校の頃の出来事です。腹が減ったという話を、糸井さんは遊びのつもりで演技をして伝えました。ところが、それが後妻の母親を、まるでご飯を与えていないかのように傷つけてしまいます。
そのことについて、父と祖母と母が3人で話しているのを、糸井さんは隣の部屋で聞いてしまいました。
あの子の言葉には毒があるからっていう言われ方をしてるのを聞いて、まだ小学校ですからね、ものすごいびっくりしたんですよ。
自分の発する言葉で人が傷つく、毒があるから注意しなければいけない。それを親たちが自分のいないところで話している。まだ小学生だった糸井さんには、大きな境目となる出来事でした。
よく言えば「言葉に気をつけよう」ですが、同時に自分に悪いものがあるという意識も残りました。棘があると言われても、毒があると言われても、つらかっただろうと糸井さんは言います。
きっと僕は当時からストレートな物言いをしてなかったんだと思うんですよ。ちょっと間接的な言い方だとか、比喩だとか、本当は思ってることじゃないことを一回言うだとか、子供でもそれやれるんですよね。
思ったことを一度ためて、構築し直す。言わない、別のものを持ってくる。そうしたものの考え方は、この頃に始まっていたのではないかと振り返ります。
バンカラと、エログロと反権力のカオス
中学に行くと勉強はどうでもよくなり、受験校の高校にぎりぎり入ります。そこは昔の学校の気質が残る場所で、みんなわざと下駄を履いていました。
糸井さんは下駄よりも大きい、天狗が履くような一本歯の朴葉を専門店に頼んで作らせました。一本歯のほうが自転車のペダルを踏みやすく、かっこいいと思ったからです。
せっかくだから作ってくれって言ったら、おじさんがなんでそんなもん作るんだって言いながら作って。
高校時代はベトナム戦争の時代でした。新聞もニュースも反米一色で、糸井さんは本を読むうち、マルキ・ド・サドや澁澤龍彦といった、生意気でエロティックなものに惹かれていきます。
赤瀬川原平や宮武外骨、梅原北明といった、昭和初期のアンダーグラウンドな編集者たちにも興味を持ちます。エロと反権力が混ざり合ったところで勝負した人たちに、かっこよさを感じていました。
なんだろうな、小生意気なことを覚えていく探検ですよね。
そうしたエログロナンセンス的なものと、社会運動が隣り合わせにありました。まっすぐ歩くいい子への反発、なめた態度。それで自分をキープしていたのだろうと糸井さんは分析します。
受験校には、遠くから通学して一生懸命勉強する農家の子もいました。糸井さんは、そうした子を「本当に申し訳なかったけど、バカにしていた」と正直に振り返ります。
糸井さんがいたのは、変わった子が集まった「私立文化系」という特別クラスでした。よく怒られる子たちの集まりです。その中で「生意気で外れている」ことが、自分の矜持だったと言います。
政治のことは本当は分からないまま、吉本隆明や花田清輝といった難しい本を買ってもらって読み、「俺は花田清輝が好きだ」などと語っていました。
分かってるのかどうかじゃなくて、その道に乗っかってるかどうか、そのことを喋ってるんですよね。
親の転勤で一人暮らしをしていた早熟な友人の家がたまり場になり、そこでタバコを吸ってややこしい話をする。上州ヤクザの土地柄もあってか、暴力への憧れ、映画の高倉健、エロティックなもの、政治、自分は特別だと思いたい気持ち。それらがカオスになった時代だったと糸井さんは語ります。
大学か、100万円か
大学受験を前に、糸井さんは父から改めて問われます。父のほうが一枚上手だった、と今は思うそうです。
行くんだったら行けばいいと。行かないとしたら100万円あげるって言われたんですね。
100万円を無駄遣いしても、元手に何かしてもかまわない。大学か100万円か、お前が選べという提案でした。糸井さんは考えるまでもなく、大学に行くと答えます。
友達がみんな大学行くんで、僕は友達といたかったんですよ。
100万円の意味も分からず、そもそも不自由を感じていなかったので、あれが欲しいという気持ちもなかったと言います。ただし、本だけは全部つけで買っていいというのが結末でした。
家が裕福だったわけではなく、父が本を買わせたかったのだろうと糸井さんは振り返ります。本に不自由がなければ、他に欲しいものはあまりない。当時流行っていたアイビーファッションの服を、人並みに頼んで買ってもらう程度でした。
砂川へ、初めてのデモ
大学に入った糸井さんは、まだ何をするか決めていませんでした。高校時代に喫茶店でたむろして補導されたことはあり、警官がもみ消してくれていたものの、それが嫌だったと言います。
親に言うという脅しが効いてしまう自分の子供っぽさに、警察は無限に怖いものの象徴でした。そこで「権力」という言葉と、自分が怖がっている警察が同じものだという学びが入ってしまいます。
交番見るだけでバカ野郎って言うみたいな。本当のバカになれるわけですよ。もうすでにある種の酔いが始まってるわけで。
入学時、学校には自治会と応援団のガイダンスがありました。戦後に大学が戦争協力の砦にならないよう学生が自治を運営してきた、という歴史を背景に、会費が半ば強制的に集められていました。
その自治会のガイダンスが、糸井さんには「ものすごく下手」に見えました。小さな単位の集まりで、糸井さんはこう言い放ちます。
全然ダメじゃないですかって僕は言ったんです。君たちのやり方だったら誰も入らない。俺も入らないし、みんな入らないと思うよ。
組織のセールスマンだった相手は「なるほど」と受け止め、君のやり方もあるはずだと、一度デモに参加してみないかと誘います。行き先は砂川基地でした。
当時の糸井さんは、実は漫画家になりたい気持ちのほうが頭の中でメインでした。すでに漫画を描き始めていたのです。それでも、朝早く起きてデモに向かいます。
殴られて、酔って、そして違和感へ
糸井さんが入った法政大学は「肉体派」で、デモでは一番危ない先頭を担うことが名誉とされていました。他大学の学生が前に出ようとすると、押し除けてでも譲らないほどでした。
先頭の列は竹竿を後ろに構え、隊列が後ろに続きます。初めてのデモで最前列にいた糸井さんは、笛を吹きながら進むうち、機動隊にボコボコに殴られました。行ってはいけない場所へ突入していくのを、機動隊が力ずくで止めるからです。
案外されてる時はなんかこう、ひっでえことするなっていう気持ちと、これが権力かって思うじゃないですか。
翌日の新聞には「暴徒が畑を荒らした」と書かれていました。逃げ場を求めて畑に入ったことが、そう報じられたのです。
印象に残っているのは「靴が脱げる」ことでした。逃げる場面で靴が脱げてしまうため、靴の前を手拭いで縛っておく。そうした技術があることにも気づいたと言います。
そういうのはあんまりしないですよね。戦争に行った人が戦争の話しないのと同じですよね。
デモはその後、1年間で無限に繰り返されました。途中からは怖いという感覚もなくなっていきます。会合で「もっとやられている人を見て申し訳なかった」と殊勝に語れば、次からは前で頑張りたいと言い、「見どころがある」と褒められる。悪い気はしませんでした。
器用だった糸井さんは、ガリ版刷りのビラや立て看板の文字を書くのも上手で、それが楽しかったと言います。徹夜で仲間といること自体が、何よりも楽しかったのです。
自己犠牲をすればするほど、戻るのがもったいなくなり、やがて命もいらないほどになっていく。そこで自分がどう社会を見て、自分をどう思っているかは、気づきにくくなると糸井さんは語ります。
たとえば「着替えたい」という当たり前の欲望さえ、それを言うと「着替えたいということもできないようにさせた現代社会の権力が悪い」と返される。今みんなが言っているようなパターンが、大体そこにあったと言います。
いいことをしている
自分は正しいことをしているという確信を持つ
自己犠牲が深まる
犠牲を払うほど、後戻りがもったいなくなる
命もいらなくなる
戻れない路地へ追い込まれ、言葉だけが過激になる
内ゲバへ
外へ広がれず、内部で敵を作り破滅に向かう
やがて糸井さんは「おかしいな」と思うようになります。ただ、それ以上に責任感も出てきます。誰かが欠けた分を誰が補うか。チームプレーの感覚が、引き返せない構造を強めていました。
途中途中で引き返せないようにできてるんですよ、組織。
この時期の写真がほとんど残っていないのも、家宅捜索を警戒したためだと言います。糸井さんには公安の刑事が付き、逮捕だけで5回、いずれも少年としてされたそうです。
川邊さんが、90年代に大学3年でインターネットのスタートアップを始め、同じような熱を感じたと語ると、糸井さんはその要素はあると応じます。みんなで団結して盛り上がる、その隣にある薄皮が見えるのは、自分がそれをやってきたからだと言うのです。
内ゲバへの恐れと、カルチャーへの逃走
糸井さんが冷めていったのは、赤軍派の事件より前でした。このままここにいたら、内ゲバでそういう人間になってしまうと感じたのです。
圧倒的な力を持つ側は加減ができるが、現場は加減ができない。自分が殺されるかもしれないと思った人間は、すごいことができてしまう。糸井さんは、そこに至る手前のものを見ていました。
自分はそこにいるのは間違ってるし、言葉として今まで自分が言ってきたことっていうのも怪しいぞっていうのを思ったので、これはあとはもう楽になりたいっていうのもあったんですよね。
狭い路地に追い込まれながら、言うことばかりが過激になっていく。糸井さんはそこから離れ、1年で大学を中退します。
中退後の先は全く見えませんでした。普通の就職はできません。それでも、もともと惹かれていたのは、政治の外側にあるカルチャーでした。唐十郎の赤テント、寺山修司、そして篠山紀信、和田誠、横尾忠則、大島渚といった表現者たちの世界です。
糸井さんが嘘をつきたくないと思ったのは、政治の真ん中にいたとき「自分が嘘をついているのが分からない嘘のつき方」を、だいぶ見たつもりだったからです。
そうじゃないところで何をやれるか。
最も憧れたのは横尾忠則でした。故郷に戻り、運転免許を取ることと、絵の具で横尾さんを真似た絵を描くことに時間を費やす日々が続きます。この先の道は、まだ何も見えていませんでした。
まとめ
言葉に「毒がある」と言われた少年時代の違和感が、全共闘の熱と、その中で見た「いいことをしているつもりの人間が酔っていく」構造への恐れへとつながっていきます。糸井さんの原風景には、表現者としての後年の仕事の核が、すでに埋め込まれていました。
- 糸井さんは前橋出身。都会から100キロの距離が都会への憧れを強くしたと語る。
- 小学生の頃「あの子の言葉には毒がある」と親が話すのを聞いたことが、言葉への意識の大きな境目になった。
- 高校時代はエログロと反権力のカルチャーに惹かれ、バンカラな「生意気」を矜持としていた。
- 大学入学後、砂川でのデモに参加し、機動隊に殴られる経験を通じて「権力」と「酔い」を実感した。
- 内ゲバへの恐れから1年で大学を中退し、横尾忠則らに憧れてカルチャーの世界へと向かった。




