軽量級の中井祐樹が、なぜ無差別の大会に出たのか
1995年、第2回となるバーリ・トゥード・ジャパン・オープン ── 1994年に始まった日本の総合格闘技大会。体重別のない無差別級で、打撃も寝技も認めるほぼ何でもありのルールで行われましたに、中井祐樹さんは日本代表の一人として出場しました。中井さんは、1995年の時点では「もう中井しかいないだろ」という空気だったと振り返ります。
川邊さんは、中井さんが選ばれた理由を、シューティングでの実績とバーリ・トゥードとの相性の良さだと見ています。日本からは、リングスジャパンの山本選手とサブミッションレスリングの木村選手も出場していました。
中井さんが無差別の大会に出た動機は、ある種の怒りでした。中井さんは元から体重別で戦っていましたが、軽量級の試合は誰にも見てもらえず、シューティングも全く有名ではなかったといいます。
中井さんは、リアルな格闘技で世の中を変えようとしているのに誰にも評価されないことにムカついていた、とぶっちゃけています。「軽量級だけど優勝してやる、見とけよ」という気持ちで出場したそうです。
ゴルドー戦で右目の視力を失った瞬間
1回戦の相手は、極真空手の世界大会にも出ていたジェラルド・ゴルドーさんでした。中井さんは試合前、極真の大会で見ていた人だと思っただけで、リングに上がれば実績は関係なく、自分たちの技術は通じるはずだと考えていたといいます。
試合中、中井さんはゴルドーさんのパウンドを受けて「さすがにやばい」と感じながらも、寝かせれば勝てると信じて戦いました。中井さんはこのゴルドー戦を、あの時点ではギリギリの試合だったと振り返ります。
開始数分後、ゴルドーさんの指が中井さんの右目に入りました。中井さんによれば、ゴルドーさんはプロレスラーでもあり、観客が喜ぶことをする人でした。そのうえで中井さんは、自分が組みついて投げきれずにもたついたせいで隙を与えた、「僕が弱かっただけ」だと語っています。
目に指が入ったとき、中井さんは「すごいことをする」と思いながらも、反則を3回すれば反則勝ちで進めると考えていたそうです。中井さんは、自分はそれだけスポーティーな感覚だった、それが甘かったと話しています。
中井さんが右目が見えていないと気づいたのは、試合の翌日でした。翌日の流れは次のとおりです。
試合当日
殴られて顔が腫れ、見えにくいのはそのせいだと考えていた
翌日、鏡を見る
目は開いているのに、片目を隠すと見えないと気づく
眼科を受診
視神経が潰れているため、今すぐ入院と言われる
中井さんの右目は、今も見えていません。それでも中井さんはゴルドー戦を、得意のヒールホールド ── 相手のかかとを抱えて足首や膝をひねる関節技。膝の靭帯を痛めやすく、危険度の高い技として知られますで勝ちきりました。中井さんによれば、この取り方は西山先生西山先生に教わったもので、新日本プロレスに来ていたブラジル人のイワン・ゴメスさんが残した遺産を再現したものだそうです。
ピットマン戦を「2時間やる」つもりだった理由
2回戦の相手クレイグ・ピットマンさんは、レスリングの世界選手権に出場した経験を持ち、カレリンカレリンさんとも対戦した実力者でした。当時はプロレスラーとしても活動しており、中井さんは「今でいうプロレスのガチ枠」と表現しています。
中井さんは、ピットマンさんが強いので2時間くらいかけて戦うつもりだったといいます。当時の武道館には、夜11時を過ぎると電気が落ちるという都市伝説があり、中井さんは「終電をなくしてやれば社会面に載る」と考えていたそうです。
ピットマン戦のルールは、1ラウンド8分の無制限ラウンドでした。中井さんは「頭おかしい」と笑いつつ、試合は3ラウンド目にレフェリーストップで決着したと振り返ります。
中井さんは、今見返すとピットマン戦が自分の一番いい試合だと話しています。技術は今よりプアで下手だったものの、力のある相手にやられないように戦い、仕留める機会を逃さなかった点で、一番ちゃんと戦っていると感じるそうです。
ヒクソン・グレイシー戦は「趣味」だったのか
決勝の相手は、ヒクソン・グレイシーさんでした。中井さんは今思うと、ヒクソン・グレイシー戦の前ですべてが終わっていたのかもしれないと語ります。
中井さんは大会前から「ヒクソンまで絶対行く」と言っていました。決勝に行くことだけを想定した言葉であり、ヒクソンさんのところへ行くこと自体が目的になっていたのかもしれない、と中井さんは振り返っています。
中井さんが決勝でパンチやキックを使わず、寝技中心のグラップリングの試合をしたのも同じ理由だといいます。グレイシーと寝技で比べてみたいという気持ちから、中井さんは「趣味に走っちゃった」と表現し、「マニアックなアルバムでチャート1位を取ろうぜ」というようなものだったとたとえています。
一方で中井さんは、体格差を考えれば、負けられないプレッシャーはヒクソンさんのほうにあったと見ています。
当時80キロ台。中井さんは「負けちゃいけなかったのはヒクソンの方」と見ている
70キロに満たない体重。自分が55キロの相手とやれば負けない、という差にたとえている
実際に組んでみたヒクソンさんは、中井さんよりずっと上手だったそうです。中井さんは、当時はやりようがなかったと認めつつ、もっといろいろやれたのにもったいない、とも話しています。
いつの自分でヒクソンともう一度戦いたいか
川邊さんが、いつの時点の自分でヒクソンさんともう一度戦いたいかと尋ねると、中井さんは「今」と答えました。今会えたら、道場で一緒に練習しようと言えるのが一番いいそうです。
中井さんは、大会から20年の節目に、格闘技の媒体でヒクソンさんと対談しています。そこでは、時間を決めずに、最後にどちらが立っているかが本当の勝負だという話にもなり、二人の考えは近づいているところがあると感じたといいます。
川邊さんは、自分にとっても1995年が転機だったと明かします。川邊さんは1995年11月に発売されたWindows95に触発されて起業しており、中井さんと同じく活動30年になります。
20年以上たって道場を訪ねてきたゴルドー
川邊さんが調べる中で見つけたのが、ジェラルド・ゴルドーさんが後年、中井さんを訪ねてきたというエピソードです。中井さんによれば本当の話で、2010年代後半、2018年ごろのことだそうです。
始まりは、空手をしている外国人から届いた「道場に行っていいか」というメッセージでした。誰でも歓迎する方針の中井さんが了承すると、その外国人は「表に友達がいる」と言い出します。その友達がゴルドーさんで、連絡してきたのはゴルドーさんの弟子でした。
中井さんとゴルドーさんは久々に再会し、昔の話や近況を話しました。ゴルドーさんは、今研究していることや、柔術が好きだという話をしたそうです。
ゴルドーさんから謝罪のような言葉は特になかったといいます。「恨んでいないのか」とよく聞かれる中井さんは、勝ったのは僕だしねと答えています。
中井さんは、目を突かれたこと自体は言語道断だとしながら、それをやらせる隙を与えたのは自分だという思いがあり、むしろ恥ずかしいと語っています。中井さんにとってゴルドーさんは、1人の対戦相手だったにすぎないそうです。
30年たっても語られるVTJ '95と、激動の1995年
中井さんは今も、バーリ・トゥード・ジャパンの話を毎日のようにされるといいます。「話題が古すぎないか」と突っ込みたくなりつつも、好きだと言ってくれる人がいることを、中井さんはありがたいと話しています。
中井さんによれば、青木青木君さんは当時小学生か中学生で会場に来ていたそうです。中井さんは「そんな教育に悪いものを見てどうするの」とよく返しているといいます。
30周年のトークショーに呼ばれる中で、中井さんは当時の空気も思い出したそうです。1995年は地下鉄サリン事件の直後で、人の集まる場所は避けるべきだと言われていました。1万人以上が入る武道館で試合をしたいのに、武道館に行くのは怖いと言っていた記憶があるといいます。
川邊さんは、1995年を日本にとって大きなターニングポイントだったとまとめます。二人が挙げた1995年の出来事は次のとおりです。
中井さんは、1995年をいろんなものが動き始めた激動の年だったと振り返っています。
まとめ
中井祐樹さんは、軽量級が評価されない悔しさから無差別の大会に出場し、右目の視力を失いながらもヒクソン・グレイシーさんの待つ決勝までたどり着きました。30年後の中井さんは、自分の弱さや趣味に走った面も率直に認め、当時の相手とも穏やかに向き合っています。
- 中井さんは、軽量級を評価しない世間への怒りから無差別の大会に出場した
- ゴルドー戦で右目の視力を失ったが、中井さんは隙を与えた自分が弱かったと語る
- 中井さんは今見返すと、ピットマン戦が一番ちゃんと戦えた試合だと話す
- 中井さんは、ヒクソン戦を「決勝に行くことが目的になり、趣味に走った」と振り返る
- 2018年ごろにゴルドーさんが道場を訪れ、二人は近況を語り合った




