失明しても復帰を諦めなかったのか?
中井祐樹さんは総合格闘技(シューティング)の試合で片目を失明し、選手生命を断たれることになりました。川邊健太郎さんは、その後の人生について話を聞きます。
中井さんは、失明した直後も復帰を諦めていなかったといいます。相手の左のパンチが見えないなら、構えを逆にしてサウスポーにしてみたらどうかと、色々と試した時期もあったそうです。
まあこっち見えないで、僕ね、それでも復帰しようと思ってやってるんですよね。
一方で、ムエタイの王者を破った藤原敏男さんからは「お前だけの体じゃないんだからな」と言われ、中井さん自身も「そうだよな」と感じたといいます。
中井さんは数十か所もの民間療法などを回りましたが、今は治す方法がないと告げられます。コミッションの判断も下りず、総合格闘技への復帰は難しいという結論になりました。
捨てたはずの道着を、なぜ再び着たのか
柔術なら殴り合いがなく、掴む感覚で戦うため、視野の広さがあまり関係ありません。中井さんはこれを「助かったとしか言わない」と振り返ります。
ただ、柔道出身の中井さんは、周囲から「柔術をやればいいじゃん」と言われても、最初は拒んでいたといいます。
嫌だよ、そんな後ろ向きじゃないです。そんな人生。なんで俺捨ててきたものをまた着るんですか?って言ったんだけど。
転機になったのは、考え方の切り替えでした。自分がグレイシーを超えるほど強くなれば、自分と練習する人もみんな強くなる。そう考えて、中井さんは「柔術でグレイシー ── ブラジルの格闘家一族。グレイシー柔術を広め、総合格闘技の黎明期に無類の強さを見せたことで知られますを打ち破る」という新たな目標を立てます。
総合格闘技(シューティング)での復帰を目指す。柔術は「捨ててきたもの」として拒む
殴り合いのない柔術で、グレイシーを超える強さを目指す
「柔術なんか知らねえよ」という侵略者の姿勢
当時の日本には柔術の試合がなかったため、中井さんはハワイを含むアメリカ、そしてブラジルへと自分で足を運び、大会に出場しました。先生を持たず、技術の習得も自分で行ったといいます。
僕は基本的にやっぱり侵略者なんですよ。柔術なんか知らねえよと。
中井さんは柔道とシュートなどをミックスして戦うつもりで大会に出続け、優勝を重ねて黒帯になります。そして黒帯の世界選手権に出た際、国際連盟の会長から日本連盟の会長になってほしいと頼まれます。
会長就任を決めたカーロス・グレイシー・ジュニアの一言
中井さんは最初、会長就任をはっきり断りました。自分はグレイシーではなく、柔術の教え方も知らず、柔術ルールに挑んでいるだけだというのが理由でした。
それでも引き下がらない会長に、中井さんは逆に問いかけます。レスリングやシュートの技だけで黒帯に勝ったら、その人は黒帯なのか、と。
(カーロス・グレイシー・ジュニアは)黒帯だって言うんですよ。そしてマットの上で行われていることが柔術だって言うんですよ。
中井さんはこの言葉に、師匠の佐山先生 ── 佐山聡さん。初代タイガーマスクとして知られるプロレスラーで、総合格闘技の源流の一つであるシューティング(修斗)を創始しましたの言葉を重ねました。1994年ごろ、佐山先生はシューティングのマットに他流派を呼び入れ始め、「シューティングルールで戦うものはみんなシューターだ」と語ったといいます。
その当たり前のことをどこに入んなきゃダメとか言ってるようじゃ、この競技普及しないよなって僕も思ったんです。
同じ考えを持つカーロス・グレイシー・ジュニアとなら仕事ができると感じ、中井さんは日本連盟の会長を引き受けます。中井さんが大事にしているのは、いろんなものを取り入れてやることであり、ブラジリアンに染まることではないと話しています。
北武道場のころは限られた人しかやっていなかった柔術が、今では世界中で行われ、川邊さんによれば日本だけでも5万人ほどが取り組んでいるといいます。中井さんは北武道場に入った当時、「こんなクソ面白いことを世間の人は誰も知らない。絶対教えてあげない」と思っていたと笑います。
世界5位の会長が抱えたギャップとは?
川邊さんは、選手として強くなることと、組織を作って競技を普及させることは全く違う話ではないかと問いかけます。中井さんは、就任後その壁にぶつかったと認めます。
僕は結局ブラジリアン柔術の世界チャンピオンになってないし、世界5位に過ぎないです。
一方で、中井さんの生徒や生徒の生徒は、世界3位や世界チャンピオンになっていきました。中井さんはそれを、自分のやってきたことが間違いではなかった証だと受け止めています。
中井さん自身は、柔術があまり向いていなかったと分析します。殺し合いのような総合格闘技の世界から来ると、柔術では「死ぬかもしれない」という緊張感を持てなかったといいます。
さらに中井さんは、総合の先生でありながら柔術家でもあるという立場で、実践していることと教えていることが違うというギャップを約10年間抱え続けたと振り返ります。
青木真也と北岡悟に抱いた嫉妬
総合格闘技の選手育成について、中井さんは青木真也さんや北岡悟さんを弟子として挙げ、自分は彼らが世に出るきっかけの一人だと語ります。二人は一時期、ファイトマネーだけで生活している数少ない選手だったといいます。
僕のもう一つの側面を実現した人なんですよ。
自分ができなかったことを生徒が実現する。中井さんは、それを知ったことが「ある種の挫折」だったと明かします。今は「これが僕の役割なんだ」と思えるものの、当時は複雑な感情を抱いていたそうです。
その当時は、なんでてめえなんだよね。なんでお前なんだ、俺じゃねえのかよって。
型に収まらないクリエイティビティの塊
川邊さんが青木真也さんの寝技の強さについて尋ねると、中井さんは「クリエイティビティの塊」と表現しました。柔道界の型にはめるとやっていけないタイプで、「よく柔道界にいたな」と思うほどだったといいます。
青木さんは中井さんがスカウトしたのではなく、自ら「所属させてください」と来たそうです。中井さんは、青木さんのような人間を殺さずにいられる格闘技界に入れたことが良かったと語ります。
普及と選手育成、どちらが先か?
中井さんは、総合と柔術の指導者、道場の運営者、現役選手という複数の顔を持ってきました。会長としても、競技の普及と選手を作ることの両方を、どちらも欠かさず同時進行させてきたといいます。
それぞれのコツを聞かれた中井さんの答えは、絵空事じゃないことをやり続けることでした。一般の人一人ひとりが楽しめること、着実にできることを積み重ねていくことだといいます。
中井さんは、普及と強化はつながっていると考えています。たくさんの人にやってもらえば、結果としてトップのレベルも上がるはずだという発想です。
普及
一人ひとりが楽しめること、着実にできることを続ける
裾野の拡大
たくさんの人が競技に取り組む
強化
裾野が広がるほど、上のレベルも上がる
川邊さんは、井上尚弥さんの師匠である大橋さんの話を紹介します。日本ボクシング協会会長時代の最大の功績は5歳から始めるジュニアボクシングを普及させたことで、その最初のチャンピオンが井上尚弥さんだったといいます。
「やるとハマる」競技をどう根付かせるか
川邊さんは、柔術をフィットネスのように広く普及させたいのか、実業団のようなスポーツにしたいのかと尋ねます。中井さんの答えは「どっちでもない」というものでした。
見てる人にはそのやり、面白さがわからない、やるとハマるっていうもの。とっても結構普及するのは難しい分野なんです、もともと。
柔術は見た目が地味になりやすい一方で、やるとハマり、抜け出せなくなる競技だと中井さんは語ります。そのため、つい放っておいても練習しちゃう人を増やすことが目指す方向だといいます。
形態としては、部活動のスタイルは難しいと見ていて、町道場でお金を払って習う習い事になっていくと考えています。そうでなければ指導者に対価が払われず、ちゃんとした職業にならないからです。
あってもいいが難しいと見ている。望む人もわずかにいるので支援はする
月謝を払う習い事。指導者に対価が払われ職業として成り立つため、そうなるべきと考える
競技人口については、登録者は5万人ほどかもしれませんが、総合格闘技や柔道と並行して取り組む未登録の人もいるため、実際はもっと多い可能性があるといいます。中井さんは、この境界がファジーなところも柔術の魅力だと話しています。
まとめ
失明によって総合格闘技の道を断たれた中井祐樹さんは、「侵略者」として柔術に挑み、やがて日本連盟の会長になりました。選手として頂点に届かなかった葛藤や弟子への嫉妬を経て、今は普及と選手育成を両輪で進めることを自らの役割としています。
- 失明後も復帰を模索したが叶わず、殴り合いのない柔術でグレイシー超えを目指した
- 「マットの上で行われていることが柔術」という言葉が、佐山先生の考えと重なり会長就任を決めた
- 自身が実現できなかったことを弟子の青木真也さんや北岡悟さんが実現し、当初は嫉妬も抱いた
- 普及を広げれば強い選手も生まれるという考えで、普及と強化を同時に進めている
- 柔術は「やるとハマる」競技として、町道場で熱心に練習する人を増やす方向を目指している




