赤字に転落した1号店と「全品均一価格」への決断
独立して開いた1号店は、最初の4ヶ月ほどは順調だったといいます。地元だったこともあり、親や親戚、友人知人が来てくれていました。
しかし5ヶ月目から赤字に突入します。売り上げが伸びず、比較的良かったはずの土曜日にも異変が起きました。
土曜日にお客さんはたった5名で、1万なんぼの売り上げだったんですよ。その時はさすがにご飯が喉を通らなかったですね。
親の家は取られる。妻子も路頭に迷わすんじゃないかとか。
集客に苦しんだ最大の理由は立地でした。廃れた駅前商店街にあり、周囲からは場違いだと言われることもあったと振り返ります。
こんないい内装してここにはもったいないな、と。難波とか梅田で出したらいいのに、とか。
もう一つの要因が、当時はまだ均一価格ではなかったことです。最初の1年間は150円、250円、350円の3段階の価格で営業していました。
全品均一価格の構想自体はあったものの、原価率が計算できず、踏み切る勇気がなかったといいます。
1年間赤字が続いて、このままではダメだということで、もうエイやと。全品均一価格に変えたんですね。
店舗の場所ではなく、価格帯を変える。これが鳥貴族の原点となる決断でした。あわせて若い客が好みそうなメニューも増やしていったといいます。
仲間との2店舗目と「価格破壊」という戦い方
1号店の均一価格化と前後して、大倉さんは2店舗目の構想を進めます。一人では資金調達が難しく、大阪・京橋で繁盛店を営んでいた友人に声をかけました。
もう一人では無理なので、このままだと倒産してしまうので、彼に「2人でやらないか」と。俺とお前が組んだ方がいい、1足す1は2ではなく、3でも4でもなると。
その場で二つ返事でOKが返ってきたといいます。前々から一緒にやりたいという空気を感じていたそうです。
ただ、この2店舗目もかなりのリスクを負っての船出でした。
国金の面接がオープン当日でしたからね。だから借りられなかったら内装工事業者にどうしようと思いながらオープンしました。
2店舗目は1号店の反省を生かし、若い人が集まる人の多い場所を選びました。柄はよくない一方で、若者が多いという理由で出店を決めています。
ここで出したのは焼き鳥ではなく居酒屋でした。当時、居酒屋チェーンが全国に出店を広げていたことから、焼き鳥より居酒屋のほうがビジネスとして広がると考えたためです。
共通していたコンセプトは「価格破壊」でした。とにかく安くする方針で、地元でも有名になるほどだったといいます。
やせ我慢と重労働で支えた低価格モデル
徹底した低価格を、どう成立させていたのか。川邊さんが仕入れの安さを尋ねると、大倉さんはスケールができるまでの我慢だったと答えます。
やはりスケールを作るまでは我慢。
原価率は高く、店舗を増やすことでどう抑えていくかを常に考えていたといいます。当時はベンチャーキャピタルもなく、基本的に借入で店を広げていました。
材料費が抑えきれない分は、人件費でカバーしていた面もあったと振り返ります。労働環境が厳しく問われない時代だったためです。
今だから言えるのは、労働環境もよろしくないですよね。重労働でカバーできましたよね、人件費が。
多店舗展開で材料費を抑え、重労働で人件費を吸収する。とにかく数を出すという発想で、事業を広げていきました。
多店舗展開
店舗を増やしてスケールを作り、材料費を抑える
重労働
人件費を抑え、高い原価率をカバーする
やせ我慢
スケールができるまでは利益より出店を優先する
全品250円均一という「わかりやすさ」の手応え
2店舗目はオープンから軌道に乗った一方、均一価格に変えた1号店の売り上げは徐々に上がっていきました。現場に入っていた大倉さんは、確かな手応えを感じたといいます。
当時は100円均一のような業態もまだなく、全品同じ価格という仕組みそのものが珍しがられました。焼き鳥は2串で、全品250円。ビールも含めて250円だったといいます。
全品が同じ、というのに一番びっくりしていただきましたね。「本当か」みたいなね。
驚きとシンプルさが、着実に客足につながっていきました。
当時、均一価格の焼き鳥店に競合はいなかったといいます。同業他社が追随してくるのは、後のリーマンショック後に「均一価格戦争」と呼ばれるようになってからのことでした。
居酒屋の失敗と、鳥貴族への一本化
その後、居酒屋をもう1店舗出しますが、この3号店はこけてしまいます。原因は立地と、コンセプトのずれでした。
銭湯から帰りでも寄れるような店にしないといけないのに、おしゃれにしてしまって。梅田や難波のおしゃれな居酒屋を見すぎてしまったんですね。
一方、全品250円均一の1号店は売り上げを伸ばし続け、苦しくなった全体を支える存在になっていきます。一緒にやっていた仲間はこの時期に退職しました。
そこで大倉さんは、4号店として再び鳥貴族を出します。スタートは苦戦したものの、全品250円均一のわかりやすさが口コミで広がっていきました。
この成功を受け、居酒屋だった2号店・3号店も鳥貴族に転換します。すると変化は劇的でした。
長年苦労した3号店も、鳥貴族に看板を変えてメニューを変えたら、すぐ1.5倍になったんですよね。1年以内に2倍、3倍まではいったのかな。
同じ場所でも、提供するものを変えるだけで売り上げが大きく変わる。この経験から、大倉さんは鳥貴族という業態に自信を持ち、以降は鳥貴族一本でやると決めます。
個人店の味を守る「店舗での串打ち」というこだわり
鳥貴族の焼き鳥で大倉さんがこだわったのが、店舗での串打ちでした。
チェーン化が進むと、冷凍肉を使ったり、なかにはタイで冷凍加工した焼き鳥を輸入・販売するところもあったといいます。串打ちはコストがかかるためです。
個人店の焼き鳥店の美味しさを追求しましたから。個人店をチェーン店化する、そこはこだわりましたね。
その場で串を打つことが、味の違いにつながっていました。当初は正社員が各店舗で昼から深夜まで串打ちから営業までを担い、のちにアルバイトでも対応できる形に整えていきます。
バブル崩壊が追い風になったビジネスモデル
次の転機は、バブル崩壊でした。デフレの時代の始まりが、鳥貴族のビジネスモデルと噛み合い始めます。
大きかったのが出店条件の変化です。大倉さんの肌感覚では、保証金は5分の1、家賃は2分の1になったといいます。
バブル期は本当に行きたい場所なんて出れなかったんですね。それがバブルが弾けてくれたおかげで、より今よりいい場所に出店できるようになったんです。
ただし当時、それが後から追い風になると見通せていたわけではありません。中心地には出られないという前提で、家賃が安く道路交通法も緩やかだったロードサイドへの出店を戦略にしていたといいます。
道頓堀の「空中階」で掴んだ勝ち筋
もう一つの大きな発見が、繁華街の「空中階」での出店でした。1階の路面店にこだわると、難波や心斎橋、梅田といった一等地は諦めるしかありませんでしたが、3階などの空中階でも集客できることがわかったのです。
最初の道頓堀店は2003年、フランチャイズを含めて35店舗目でのことでした。創業から実に18年が経っていました。
道頓堀はナショナルチェーンの競合がひしめく激戦区で、通用するのか確信はないままの勝負だったといいます。
ロケットスタートでしたね。なんで早く出さなかったんだと思いました。もっと言うと、繁華街のほうが簡単だと思いましたね。
ローカルで苦労していた大倉さんにとって、繁華街の集客力は想像以上でした。この発見にたどり着くまでに18年かかったことを、後知恵ではもっと早く中心地に出すべきだったと振り返ります。
当時の道頓堀店の条件は、バブル期には保証金1億円・家賃120万円台だった24坪の物件が、大倉さんが入る時には保証金1,200万円・家賃63万円になっていたといいます。それでも、この下落を事前に予想するのは難しかったと語っています。
18年で600店舗へ 組織の広げ方と資金の壁
道頓堀店の後、18年で600店舗まで一気に広がります。最盛期には3日に1店舗というペースで出店していたといいます。
組織づくりは、成長に合わせた手作りだったと語ります。スカウトはほとんどせず、コンサルも入れたことがないといいます。
経理はそれまで全部自分がやってましたよね。そろそろ経理いるなと言ったら、会計事務所から担当を引っ張ったりとか。
採用は、1号店の大学生アルバイトが中心でした。夢を語って口説き、ついてきてくれた人のなかから、営業や商品のトップが育っていったといいます。
いまだに30年選手とか。大学でアルバイトした子がそのまま新卒で入ってくる、というのが結構多いですね。
バックオフィスなどヘッドクオーターの体制を本格的に整えたのは、上場準備に入ってからでした。準備を始めたのは2010年からだといいます。
リーマンショックと、地銀という「心のメンバー」
100号店を出した2007年前後は、リーマンショックの時期と重なります。資金調達は難しくなった一方、不景気で安さの価値が増し、店の業績はむしろ良かったといいます。
採用面でも追い風がありました。行き先を失った人材が流れてきやすかったのです。
一方で苦労したのが銀行の貸し渋りでした。業績が良くても、銀行は大企業の救済を優先していたといいます。
そのなかで支えになったのが、創業から付き合いのある地方銀行でした。
こういう時こそ私らがいてる、と。だからいまだに心のメンバーと言ってます。
大企業を救う立場でもある地銀が、実績のある鳥貴族を支え続けた。この関係は、大倉さんにとって今も特別なものとして語られています。
デフレの勝ち組、そしてインフレという想定外
バブル期に創業し、崩壊後はデフレの時代が長く続きました。大倉さんも、そのデフレが当たり前になっていったと振り返ります。取材では「デフレの勝ち組」とよく言われたそうです。
インフレの、こういう今みたいな時代が来るとは、あんまり想定はしてなかったですね。
デフレを前提に、いかに価格を上げずに守るかを考え続けていました。むしろ、もっと下げられないかと考えることもあったといいます。
メガジョッキのような施策も、その発想の延長でした。原価率の高いものを投入するなど、値下げの方向で勝負していったのです。
デフレを前提に、いかに価格を上げずに守るか、さらに下げられないかを考えていた
想定していなかったインフレの時代が到来した
まとめ
赤字に沈んだ1号店から始まった鳥貴族は、「全品均一価格」というわかりやすさを勝ち筋に、失敗を重ねながら少しずつ発見を積み上げて600店舗へと広がっていきました。バブル崩壊や空中階、リーマンショックといった環境の変化を、その都度自分たちのモデルに引き寄せてきた歩みが語られています。
- 1年間の赤字を経て、全品均一価格へ踏み切ったことが鳥貴族の原点になった
- 居酒屋の失敗を経て、同じ場所でも業態を鳥貴族に変えると売り上げが大きく伸びた
- 店舗での串打ちにこだわり、個人店の味をチェーンで再現しようとした
- バブル崩壊による家賃下落と繁華街の空中階出店が、拡大の大きな転機になった
- デフレを前提に低価格を磨き続け、インフレの到来は想定していなかった
