激戦区でも空中階でも──鳥貴族の「常識外し」
収録場所は、鳥貴族の赤坂一ツ木通り店。開店からちょうど10年ほどになるといいます。
激戦区での出店について、大倉さんは今と創業時で受け止め方が変わったと話します。
やっぱり創業時は怖かったですよね。激戦区は通用するのかとか。経済条件も高いので、売上が上がるのかとか。今は逆に、こういったところがいいですね。
店舗の造りにも、従来の焼き鳥店との違いがあります。1階の路面店が定石だった中で、鳥貴族は大型化と空中階へ舵を切りました。
その背景には、若い客層への着目がありました。カウンター席は若い人に敬遠されがちだったといいます。
若い方はカウンター席を嫌がるんですよ。自分らの世界で飲みたいというか。カウンターは空いてるのに、ボックス席が埋まると帰られることが度々あったので。
若い客をターゲットにするなら、ボックス席・テーブル席を中心にすべきだと気づいたのです。
工場で育った人見知りの少年時代
大倉さんの生まれは大阪・東大阪市。実家はブリキのおもちゃを作る町工場で、油の匂いや機械の音が思い出に残っているといいます。
ただ、家業のおもちゃそのものへの関心は薄く、好きになったのはむしろプラモデルでした。競合するはずのプラモデルに惹かれていたのです。
幼い頃はひどい人見知りで、親戚が来ると部屋の隅で畳を見ていたと振り返ります。
顔を上げるのも恥ずかしいみたいな。たーちゃんは大丈夫かなというようなイメージは持たれてましたね。
一方で運動神経は良く、野球ではクリーンアップやピッチャー、リレー選手を務め、友達の中では目立つ存在でした。
関心の対象は次々と移り変わります。小学校卒業間近に卓球と出会い、中学では卓球部で東大阪で名の知れた選手に。そして中学3年頃、麻雀にのめり込んでいきます。
きっかけは、麻雀にハマった父親から「メンバーがいない」と覚えさせられたことでした。父の友人らと打つうちに腕を上げ、高校では雀荘に通って勝負を挑まれるほどになります。
ビアガーデンのアルバイトで見つけた「喜び」
高校時代には、人見知りだった性格も大きく変わっていました。授業中に先生をおちょくるような、目立つ生徒になっていたといいます。
そんな高校2年の夏、友人に誘われて始めたのが、小阪駅前の屋上ビアガーデンのアルバイトでした。近鉄が経営する、50〜60席ほどの店です。
初めてのアルバイトは、単純に楽しかったと振り返ります。
高校生なので、お客様が声かけてくれるんですよね。君どこの高校や?とか。そういう言葉のキャッチボールが楽しかったですね。なんか大人の世界に自分が身を置いているような。
翌年はしっかりしているからと、焼き鳥やおでんの調理を任されます。事前に焼き鳥を焼いたり、おでんを仕込んだりする役割でした。
そこで、飲食の道に進む決定的な体験が訪れます。自分が作ったものにお金を払い、「美味しかった」と言ってもらえたことでした。
同じアルバイト仲間は10人ほどいましたが、飲食の道に進んだのは大倉さんだけでした。同じ体験からでも、そこに喜びを見出せたのは自分だけだったと語ります。
もし最初にアパレルの小売店みたいなアルバイトをしていたら、今頃そういったチェーン展開してるんですよね。結構すぐいいところを見る性格というか。
ホテルで磨いた「聞く力」と笑顔
ビアガーデンの体験から、大倉さんは飲食の道を志し、辻調理師専門学校へ進みます。ただ、料理の授業自体は「浅く広く」で面白くなかったといいます。
むしろ力を発揮したのは接客でした。専門学校時代は都ホテル系列のサロンでウェーターとして働き、ウイスキーの販売でノルマの成績上位を争ったといいます。
その武器が笑顔でした。鏡に向かって、人が気持ちよく感じる笑顔を作る訓練までしたと話します。
まず笑顔でしょうね。心象よく思ってもらいましたね。そこからお勧めすると、結構買っていただけましたね。
卒業後は、大阪リーガロイヤルホテル内のイタリアレストランに就職します。コック志望でも数年はホールを経験するのが通例でしたが、大倉さんはホール係の楽しさにハマり、そのまま残りました。
ホールに残った理由は、単に楽しいだけではありませんでした。お客の本当のニーズをつかめるのはホールだと考えたのです。
厨房に入ると、自分が美味しいと思う料理さえ出せばいいという感覚なんですよ。でもホールでお客さんの要望を聞くと、この料理もうちょっとこうした方がいいですよと生意気にも言うわけですよね。
接客の中で大倉さんが実感したのは「聞く力」の大切さでした。相手に気持ちよく話してもらうことを重視するようになったといいます。
焼き鳥店との出会いと、「夢」に惚れて決めた転身
20歳の頃、家の近所に焼き鳥店「大吉」ができます。深夜3時まで開いており、最終電車で帰る大倉さんにとって、唯一立ち寄れる店でした。
その店主とやがて仲良くなります。店主は大吉を辞めて独立し、大倉さんはその新しい店にも客として通うようになりました。
ある時、人手が足りないからと手伝いを頼まれます。大倉さんは焼き鳥屋に転職するつもりはなく、洋食の道を志していました。それでも、対照的な店の接客が勉強になると思い引き受けます。
イタリアンで身につけた「自分で仕事を見つける習慣」が、そのまま焼き鳥店で発揮されました。ビールや酒の補充を先回りする働きぶりに、店主は驚いたといいます。
店主からは繰り返し誘われますが、大倉さんは断り続けます。しかし、ある一言が心を動かしました。
大倉君、俺とこの店に勝つぐらいのチェーン展開しようや。お前とやったら俺やれると思うねん。
焼き鳥が好きだからではなく、その人の「大きな夢」に惚れて、大倉さんは洋食店を辞め、焼き鳥店へと移ります。
経営への目覚めと、25歳での独立
焼き鳥店では、店主の右腕として3年間で7店舗まで展開に関わります。メニューづくりから不動産契約の立ち会いまで、経営の実地を学びました。
さらに大倉さんは独自にセミナーを受け、経営者の著書を読み漁ります。特に流通業界に惹かれたといいます。
当時、スーパーダイエーの中内さんの流通革命に、心を震わせてですね。
学びを深めるにつれ、店主との経営観のずれが大きくなっていきます。決定的だったのは、利益に対する考え方でした。
最初は、みんなで儲けようよと。俺はそういう経営したいのにと言ってたら、お金が入りだしたら独り占めするようになってきて。
社員やお客への姿勢に違いを感じた大倉さんは、25歳で独立を決意します。辞意を伝えたとき、店主は止めませんでした。
大倉君、力のある者はいつか巣立っていく。だから俺は止められない。店を出すんやったら借りれよ。いつでも保証人になったるよ。
ただし、実際にその保証人を頼むことはありませんでした。大倉さんは自分の力で独立の道を進みます。
鳥貴族1号店の誕生
辞意を伝えてから半年の引き継ぎを経て、退職からわずか2ヶ月で開業にこぎつけます。6店舗の立ち上げを経験していたため、段取りは身についていました。
物件は当初避けたかった地元・寝屋川の駅前商店街でした。若者向けの店には合わないと考えていましたが、たまたま見つけた貸店舗の家賃が想定の3分の1だったのです。
この家賃だったら失敗はないかなと思いますね。それで心が動きました。
開業資金は、共働きで貯めた自己資金700万円と国民金融公庫からの借入500万円が軸でした。さらに両親が「運転資金がないだろう」と、家を抵当に入れて1000万円を借りさせてくれたといいます。
店のコンセプトは明確でした。当時の焼き鳥店は中高年男性が中心でしたが、大倉さんは全国チェーンを目指し、あえて若者と女性という新しい市場を狙います。
同じことをしても必要ないなと思ったんですよ。私はやっぱり全国チェーンを目指して起業してますから。じゃあ絶対に差別化しよう、新しい市場を開拓しようと。
差別化は店名にも表れました。当時は「大吉」「善助」のようないかにもな屋号が主流でしたが、大倉さんは若者や女性におしゃれに感じてもらえる名前を求めます。
そこに降りてきたのが「貴族」という言葉でした。鳥をつけて「鳥貴族」。お客を貴族のように大切にする、という思いも重ねられています。
1985年5月1日の創業からわずか半月後、長男の唯さんが誕生します。鳥貴族は、まさに家族とともに歩み始めた店でした。
まとめ
人見知りの少年だった大倉さんが、アルバイトでの小さな喜びを起点に飲食の道を志し、接客と経営を積み重ねて鳥貴族1号店にたどり着くまでが語られました。
- 高校のビアガーデンで、自分が作ったものに対価をもらう喜びが飲食の原点になった
- ホテルでの接客を通じ、笑顔と「聞く力」、そしてお客のニーズをつかむホールの重要性を学んだ
- 焼き鳥そのものより、店主が語った「全国チェーン」という夢に惚れて転身を決めた
- 若者と女性という新市場を狙い、大型化・空中階・「鳥貴族」という店名で差別化を図った
- 1985年、25歳で寝屋川に1号店を開業。長男の誕生と同時期に鳥貴族は始まった
